赤児草

 燃え上がる夕陽を背に女が手を動かしている。がに股にしゃがみこみ水音をたてて、擦り切れた下着を洗濯板に擦りつけている。太陽はほとんど山に隠れ、その際を燃やし尽くしたら、夜がすぐにやってくる。それなのに、女の横にはまだ汚れた服が山積みだ。


「すみません、一晩宿をお借りしたいんです」


 後ろでか細い声がした。長い影が女の手元を隠し、彼女は忌々しげに振り向いた。

 そこに立っていた人物は、夜の先触れみたいな漆黒のマントを着て、顔の半分まで目深にフードを被っていた。

 子どもだった。分厚いマントに覆われているが、体が華奢なのは隠しようもない。それに、背丈は女の顎あたりほどもないように見える。


「お前さん、一人かい?」


 子どもは小さく頷く。


「こんな時分に、こんな辺鄙な村に一人で? どこから来たんだい?」

「ひむかしの谷を越えて。十日月の森で人と待ち合わせをしているんです」

「馬鹿な。ここからあの森へは、あと半日もかかるっていうのに」


 子どもの声は横笛のように高かったが、これが男の子なのか女の子なのか、女にはわからない。多分、十かそれにも満たないくらいだ。この年頃の子どもは、顔立ちを見ても判別がつかないことがある。ましてやこの子どもは深く俯き、頭巾のてっぺんしか見えない。その奇妙な態度に、女は魔物を疑った。


「そんなところまで一人で来いだなんて、そう言いつけたのはお前の親かい? 私だったら、自分の子にそんなことはさせないね」

「朝一番から歩けば、お前の足でも日暮れ前には着けるだろうと言われたんです。でも、もしお前がのろまで辿り着けなかったら、近くにひとつだけ村があるから、そこに泊めてもらえと」

「子どもの足でひむかしの谷から森までなんて、一日で歩き通せるわけがないじゃないか。よく知りもしないよそ者が。それとも、お前が辿り着けないのを知っていて、わざとそう言いつけたのか。お前さん、捨てられたんじゃないのかい?」


 子どもの頭が小さく揺れて、その拍子に頭巾の中から長い髪が零れ落ちた。解けかけ、くしゃくしゃになったおさげ髪だ。今日最後の陽に照らされて光ったそれは、ほとんど白に近い金色だった。女は、真夜中の空に浮かぶ三日月を思い浮かべた。


「お前、女の子だね」


 少女は、そこで初めておずおずと顔を上げ、頭巾の陰から目を覗かせた。金髪に灰青色の目。よくある取り合わせだ。これは人間の子どもだ。魔物は、何より目の色に特徴が出るというから。


「だったら洗濯はできるだろ? 手伝うなら、泊めてやってもいい。夕飯もつけてやろう」


 安心してそう提案すると、少女は戸惑う素振りを見せた。


「もう日が暮れて手元も見えないのに……」

「灯りを持ってきてやるから終わりまでやるんだよ。私は、どうしても今日中にこの洗濯の山を片付けたいんだ」

「さっきすれ違った村の人に、今日は早く家に入らなきゃいけない日だと教わりました。必ず、日が落ち切る前に屋根の下に入れ、そして何もするなと」

「ああ、ここにはね、そういうくだらない習わしがあるんだよ。今日は、何しろ火曜日だから。だけど私は、今これをやってしまいたいんだ」


 少女はでくのぼうみたいに突っ立ち、少しの間黙っていたが、やがて女の隣にしゃがんだ。

 空は急速に熱が冷め、薔薇色から藍へと色を変えていく。ランタンを取りに女は家に戻った。そうして、子どもに再び近づいたところで、ぎょっと足を止めた。

 少女の横に見知らぬ女が立っている。背が高い。家の横に生える七竈の若木と同じくらいの高さだ。そして、闇に溶け込んでいる少女と相反するように、その女はどこもかしこも白かった。服も髪も肌もすべて。


「誰だい?」


 訊きながら、女にはもう正体がわかっていた。


「洗濯を、私にもさせておくれよ」


 白い女は言った。


「もう間に合ってるよ。私とこの子で充分だ」

「私は洗濯が得意だよ。一晩で、何十枚だって綺麗にするよ。血も汗も体液も、全部洗い流してやる」


 言うが早いが白い女は洗濯板を取り上げて、ざぶざぶと服を洗い出した。盥の水が嵐のように波打ち、飛沫があたりに飛び散ったが、少女は微動だにせずしゃがんだままだ。


「ああ、洗い終わっちまった。もう洗濯物はないの? もっともっと、汚れた物はないの?」


 盥をひっくり返しながら白い女が言う。汚れた水が這い寄ってきて自分の靴を濡らす前に、女は後ずさった。


「うちにはもうないけど、隣の家の婆さんは洗濯物を溜め込んでたはずだから、ちょっと訊いてきてあげる」


 数歩遠ざかって闇に紛れると、女は丸く切り抜かれた光の中から手だけを見せて、こちらに来るように少女に手招きをした。


「お前が行って訊いておいで。西の道を村の終わりまで歩いたら、古い小屋が見える。そこに呪い師の婆さんがいるから、どうしたらいいのか訊いてきておくれ。『火曜日の夜が来た』って言うんだよ。それだけでわかるから。さあ、これを持って早く」


 ランタンを押しつけられて、子どもは夜の道を走りだした。

 赤い残滓が山の稜線を縁取るのを目印に、ひたすら進んだ。ランタン以外の光はぽつぽつと現れる民家の窓灯りだけだ。

 子どもが不安になって来た道を振り向くと、背後はもう真っ暗な闇に覆われて、女の家がどこにあったのかもわからない。

 ごく小さな村だ。少女の足でも端まで行くのにそうかからない。みすぼらしい小屋がぽつんと離れて建っていた。少女はその扉を叩いた。


「すみません、すみません」


 軋みながら扉が開き、中から現れた老婆は不躾な目で子どもを眺め回した。


「すみません、洗濯物をいただきたいんです」

「そんなもの、どうするんだい」

「洗うんです」

「今夜は何もしちゃいけないんだ。あんたはよそ者だから知らないだろうけど」


 そこで子どもは、言いつかったことを思い出した。


「村の入り口の家のおばさんに頼まれました。火曜日の夜が来た」


 老婆の顔が強張り、それから子どもを強い力で突き飛ばした。


「よそ者のお前ならできるかもしれない。このまま村を出なさい。そうして小川を渡ってすぐのところに草っ原があるから、そこに火を点けるんだ。赤児草はよく燃えるから、持ってる火を少し近づけるだけでいい。そしたら、そのおばさんの家に大急ぎで戻ってこう叫ぶんだよ。『赤児原が燃えてる』」


 言うが早いが、ドアはぴしゃりと閉められた。

 子どもは半べそで起き上がった。言われた通り小川を渡り草原に出ると、おじきをしている草の頭にランタンの火に近づけた。

 先には、くしゃくしゃに皺が寄った顔のような実が鈴なりになっている。それはまるで老人の風貌であったが、色は生まれたばかりの赤児の色だった。それが重たくて、どの草も深く首をもたげているのだ。

 草の先端に火が点くと、それはあっという間に燃え広がった。肉の焼ける臭いが充満し、子どもは鼻を押さえながら川を渡って、再び村に戻った。

 最初の家に着くころには、村中に肉の臭いが充満していた。


「赤児原が燃えてる」


 家の庭先に駆け込んで言うと、白い女は洗濯板を取り落とし立ち上がった。


「ああ、私の子どもたちが燃えてしまう」


 白い女は叫び、赤児原に向かって走り去っていった。

 火は赤児原を焼き尽くして止まった。

 川向こうの村は焼けなかったが、嫌な臭いが家々にも人間にも染みついて、洗っても洗っても落ちなかったという。



 六日月の森の入り口に、黒マントの男が立っている。そっくり同じマントを羽織った子どもがやって来ると、寄りかかっていた木の幹から体を起こした。


「上手くやったようだな。あれは女の領分だから、俺では手が出せなかったんだ」


 木の陰にはもう一人の子どもがいて、マントを翻し歩き始めた男についていく。フードの下から、榛色の目が少女を一瞥して。

 少女はしばらく立ち尽くした。踵を返して元来た道を戻るかどうか迷った。

 けれども、あの臭いは二度と嗅ぎたくなかったので、とぼとぼと二人のあとを追った。







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