字句の海に沈む

野森ちえこ

求めてきたもの

 あたしは読書が苦手だ。整然とならんでいる活字を見ていると、船酔いを起こしたときのようにグラグラと気持ち悪くなってしまう。


「あ、新刊出てるよ」


 一緒に買い物にきていた夫が、デパート内にある書店のまえで立ち止まった。平積みになっているハードカバーの書籍を一冊手にとって、あたしを振り返る。


「買っていこう」

「……うん」


 それは、読書の苦手なあたしが必ず読む、たったひとりの作家の新刊だった。ふだんはあたしの気持ちを尊重しようと、なにかと希望をたずねてくる夫だけれど、この作家のことにかんしてだけは質問することがない。もしも、『買っていく?』と聞かれたら、あたしはきっとうしろめたさから首を横に振るから。だから、夫は聞かない。この人は、すべてを承知であたしを受けいれてくれた。



 ◇◆◇◆◇◆



 あたしと作家になった彼はおなじ高校で、三年間ずっとおなじクラスだった。


 彼はいつもひとりだった。誰ともつるまず、いつもひとりで静かに本を読んでいた。仲間はずれにされていたとか、いじめられていたとか、そういうわけではなかったと思う。むしろ、彼のまとう厳しい空気が人を遠ざけていた。


 きっかけは……なんだったろう。よくおぼえていないけれど、なにかの班が一緒になったとか、その程度のことだったと思う。いつのまにか話すようになって、彼が小説を読むだけでなく自分でも書いていると知った。


 読みたいと思った。文字を追うのは苦手だけど、苦痛ですらあるけれど、彼が書いた物語を読んでみたいと思った。


 そうして、渋る彼に頼みこんでプリントアウトしてもらったのだけれど――想像以上に大変だった。内容じゃなくて、迫りくる字句の奔流におぼれて、一ページ読むだけでクタクタになった。


 それでも――少しずつ、少しずつ読みすすめることで、彼の世界にふれているような気がしてうれしかった。


 けれど、それは錯覚だと彼はいった。


 彼の描くやさしい世界とは裏腹に、その身にまとう気配は厳しい。自分には『ないもの』を書いているのだから当然だと、彼はいった。


 はじめて出会った――高校一年生のときから、彼はひとり暮らしをしていた。


 あたしは、なにも知らない。彼の家族がどんな人たちなのか、兄弟はいるのか、実家はどこなのか、なぜ高校生からひとり暮らしをしていたのか。ただの一度も、ほんのひとことさえも、彼は話そうとしなかった。聞かれることを極端に嫌った。


 だから、あたしはなにも知らない。最後まで、なにも知らないままだった。いや、ちがう。そうじゃない。あたしは、知ろうとしなかった。知るのが、怖かった。



 ◇◆◇◆◇◆



 ふだんの彼はとても冷静で落ちついている。けれど時折、なんでもないことで――少なくともあたしには理解できないことで――突然逆上することがあった。発作。そう表現するのがいちばんしっくりくる。


 ひとたび『発作』が起こってしまうともう手がつけられない。警察沙汰になったこともあるくらいだ。なにがきっかけなのか、いつスイッチがはいるのかがわからない。おとなになって、プロの作家としてデビューしてからもそれは変わらなかった。


 いつかその『発作』が自分に向けられたら――そう思ったときから、彼に対する恐怖心がじわじわとふくらんでいった。そして、もしも彼がそうなってしまう原因を知ったら、彼から一生んじゃないか――と思った。思って、しまったのだ。


 ――好きなのに。大好きな人なのに。逃げられなくなるってなによ。


 そんなふうに悩んでいたころ、現在の夫と知り合った。聞き上手な人で、気づいたときには洗いざらい打ちあけていた。何度か食事に行くうちに、彼といるときにはない安らぎを感じるようになっていた。


 そして、すべてを承知の上で、彼のことを好きなままでもかまわないと、結婚を申しこまれた。


 ひどい女だと思う。彼にも、夫にも。


 彼の部屋で、結婚すると伝えたとき。彼は『そうか』と、ひとことうなずいただけだった。そこには怒りもかなしみもなくて。祝福もよろこびももちろんなくて。ただ、もう二度とくるな――と、そういわれただけだった。十年以上ともに過ごした時間が、ほんの一瞬でおわった。



 ◇◆◇◆◇◆



 あたしたち夫婦が結婚式をあげたのとおなじころ、彼はマンションを引き払って姿を消した。


 今はもう、あたしも一般の読者とおなじ。新刊の発売でしか彼の存在を確認できない。


 相変わらず読書は苦手だけど、いつのころからか――不思議と、彼の小説だけは苦痛を感じなくなっていた。


 そういえば……ひとつだけ、彼はかんちがいしていた。


 あたしを『ハッピーエンド』が好きな人間だと思っていたみたいだけど、それはちがう。


 あたしはハッピーエンドが好きなだけだ。


 彼のハッピーエンドは、人に押しつけない。息苦しくならない。疲れた心を追いつめない。やわらかな、ハッピーエンド。


 それはたぶん、彼がずっとずっと求めてきたもの。そしてきっと今も、求めているもの。


 もうあたしにはそんな資格ないけれど。願うだけなら、祈るだけなら、ゆるされるだろうか。



 無機質な活字がならぶページをそっと手のひらでなでて、その字句の海に沈んでいく。そうしていると、この物語を綴った彼の息づかいすら聞こえてくるような気がする。



 どうか、どうか――


 彼の今とこれからが、少しでもやさしい世界でありますように――



     (了)



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