第13話 一万円選書

 市長の協力を得て作成した出版契約書の雛形は、出版社と著者双方にとってバランスの取れた内容になった。「出版社側の判断により刊行に至らなかった場合は、作者に対して双方が同意済の初版部数から想定される印税額の10~50%を支払う」という但し書きがその一例だ。


 原稿が出版に至らなかった場合、改稿や校正の程度にかかわらず作家には一円も支払われないのが常識だが、市長は「著者側は相当の労力をかけ執筆するのだから、少なくとも出版社の依頼に応じて改稿をした段階移行は、出版社側も相応のリスクを負うべき」との見解で、この点については俺も同じ意見だった。


 広川蒼汰の件で思ったのだ。彼が三度にわたる全面改稿に費やした労力が全くの無駄になってしまうのはおかしい、と。あの場合、いくらかの支払いはあって良かったはずだ。


 電話会議での読み合わせと数か所の修正を経て、市長、伊坂先生、本条さん、俺は「出版契約に関する同意書」に署名捺印をし、『A市再生プロジェクト』の執筆は開始された。


 伊坂先生だけでなく市長も法律の実務書を共同執筆した経験があり、本条さんは本を出した経験こそなかったが、雑誌論文はすでに何本も書いていた。要するに三人とも著者としての経験は十分で、A市再生プロジェクトについては当初から、何らかの形で出版することを視野に入れて資料をまとめてあったので、あとはそれを原稿の形にしていくだけだ。これなら作業ペースが速くても良いだろうと、初稿の締め切りは一か月後に設定した。順調にいけば、十月初めには初稿が上がって来る予定だ。



 九月半ば。町中のいたるところでコスモスがひんやりとした風に揺れている。公園、路肩、民家の庭、そして市内を横断する廃線跡で、長い茎の先に咲くピンク、白、紫の花は可憐だ。


「今年もきれいよ。ほら」


 菅沼さんが庭で刈り取ったばかりのコスモスの束を抱えてサンルームに入ってきて、それを目にした永瀬桃は「素敵。花瓶取ってきますね。池田さんも呼んできます」とキッチンに向かった。午後四時半。みんなのタイミングが合うこの時間にテーブルを囲んで休憩するのが、いつの間にか習慣になっていた。


「今日はドーナツ、揚げてみました」


 池田君がテーブル中央に置いた大皿には、小さめのドーナツが三十個ほど山積みになっている。立ちのぼる甘くて香ばしい匂い。ガラスの花瓶にたっぷりと生けられたコスモスとのコントラストが面白く、笑ってしまった。


「豪快だね」


「はい。『バムとケロのにちようび』(※)のドーナツです」


 なるほど。お皿に山積みのドーナツ、どこかで見たことがあると思ったらあの絵本からか。池田君はよく、永瀬桃のリクエストに応えて本の中に出てくるお菓子を作るのだ。


「コーヒーはいつもより薄めです。たっぷり飲めるように。ドーナツが余ったら、お客様に一つずつお配りしていいですか?」


 池田君はコーヒーサーバーをテーブル中央に置いた。


「ああ、もちろん。ありがとう」


 最近彼は、小さめに作ったお菓子をミュゲ書房の客に配ってくれる。お客さんに喜んでもらおうと気を使ってくれているのだ。


 ミュゲ書房の売り上げは依然として思わしくなかった。市長たちの本と山田さんの自伝、それにじいちゃんの遺産でしばらくは何とかなりそうだが、所詮一時しのぎだ。早く経営を軌道に乗せなくては。その気持ちは池田君と菅沼さんも同じで、最近、お茶の時間は経営会議の様相を呈していた。


「こういうのはどう?」


「こんな記事、読んだんですけど」


 菅沼さんと池田君が書店経営の参考になりそうな情報を持ち寄ってくれる。俺たち三人が話している間、永瀬桃は聞き役に徹していて、彼女が店の現状をどう感じているのかはよくわからない。


 そもそも永瀬桃は、俺に打ち解けていない。毎日一時間店を手伝ってくれるし、困った時には助けてくれる。そして休憩時間にはこうして一緒にテーブルを囲む。だが彼女が俺に自分の話をすることは皆無だし、間合いを取っているというか、意識的に俺に近づきすぎないようにしている気がする。


 菅沼さん、池田君と楽しそうに話しているのは見かけるので、もしや自分で気付かないうちに永瀬桃に嫌われるようなことをしてしまっただろうか。


「章君、一万円選書って知ってる?」


 みんなが一息ついたところで、菅沼さんが話題を振ってきた。


「いいえ」


「何年か前にテレビで観たのを思い出したの。それでネットを探したら、ほら、これ。ミュゲ書房でもやってみたら?」


 菅沼さんが差し出したスマホには、北海道のある書店の試みが表示されていた。予算一万円で、店主がお客様のために本を数冊選んで送るサービスだ。だが俺にこんなことができるだろうか。一般の人と比べて本は好きだし詳しいとは思うが、見ず知らずの人たちに、それぞれの好みに合った本を紹介できるほどではない。


「すみません、自信ないです」


「それなら、桃ちゃんが担当すれば?」


 菅沼さんはさらりといった。


「え? 私ですか?」


 美味しそうにドーナツを頬張っていた永瀬桃が、驚いた表情で菅沼さんを見た。


「桃ちゃん、すごい読書家だもの」


「僕も、桃ちゃんなら適任だと思います。試しに選書してみたらいいんじゃないですか?」


 池田君はみんなにお代わりを注ごうと、コーヒーサーバーを片手に立ち上がった。


「そうね、やってみましょうよ。章君、テーマは? 一万円以内、だけじゃ漠然としすぎよね?」


 菅沼さんのいうとおりだ。


「そうだな……じゃあ、仕事が嫌になった時に読む本」


「わかりました。ところで章さんが出版社を辞めたのって、仕事が嫌になったからですか?」


 永瀬桃の意外な質問に俺はうろたえた。若い子はこういう時、遠慮というものがない。


「いや、忙しすぎて……」


はぐらかしたかった。

辞めたのは広川蒼汰のことがあったからだが、ここで話すべき内容ではない。しかし永瀬桃は真っすぐにこちらを見て、言葉の続きを待っている。その思いつめたような表情に俺はつい、口を滑らせた。


「担当していた作家を失望させた。出版取り止めになったんだ。それで自分に嫌気がさして」


 言ってから「しまった」と思ったが、気まずそうに視線をそらした菅沼さんと池田君とは対照的に、永瀬桃は表情を変えず――いや、ほんの少しだけ口元に微笑を浮かべたように見えた――小さくうなずいた。


「そうですか。じゃあ、ちょっと行ってきます」


 そして十分後、彼女が持ってきた本は。


『This Beautififul Day』Richard Jackson (著), Suzy Lee (イラスト)(※)

『寿命図鑑』やまぐちかおり 著(※)

『凡人のための仕事プレイ事始め』中川 淳一郎 著 (※)

『船を編む』三浦 しをん 著(※)

『あるかしら書店』ヨシタケ シンスケ 著(※)


 絵本、図鑑、実用書、小説、そして最後にもう一度絵本。短時間で複数のジャンルから、しかもストレスなく読めそうな本ばかり。やるじゃないか、早く読んでみたい――テーブルに並べられた五冊を見て、素直にそう思った。



―――――――――――――――――

※島田ゆか作/絵『バムとケロのにちようび』(文溪堂、2010.3)


※Richard Jackson (著), Suzy Lee (イラスト)『This Beautififul Day』(Atheneum/Caitlyn Dlouhy Books、2017.8)


※やまぐちかおり絵 ; いろは出版編著『寿命図鑑 : 生き物から宇宙まで万物の寿命をあつめた図鑑』(いろは出版、2016.8)


※中川淳一郎著『凡人のための仕事プレイ事始め』(文藝春秋、2010.5)


※三浦しをん著『船を編む』(光文社、2011.9)


※ヨシタケシンスケ著『あるかしら書店』(ポプラ社、2017.6)

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