第12話 企画書と契約書
「――以上が企画書です。何かご質問はありますか?」
翌週、サンルームのテーブルを囲んだ市長、伊坂先生、本条さんに一通りの説明をした後、俺はきいた。
伊坂先生と本条さんは市長と同じくらいの年で、二人とも整った容姿の持ち主だった。もっともタイプは違い、本条さんは明るく爽やかな体育会系なのに対し、伊坂先生は少し線が細く神経質そう。明るい(本条)・暗い(伊坂)・普通(市長)で、それぞれキャラが立っている。
市長によると「私が法律事務所に転職したときに仕事を教えてくれたのが、伊坂先生なんです。再生プロジェクトの仕事ではかなり融通を利かせてくれていて、そういうわけで、頭が上がりません」だそうで、たしかに市長が伊坂先生に気を使っているのがはっきりわかる。三人の中で一番若いのは本条さんだが、こちらはなぜか伊坂先生に遠慮なくものをいい、市長には遠慮がちだ。面白いバランスの三人だ。
「宮本さん、私は図表を入れたいのですが。具体的には市街地図や建物の設計図などです。折って入れて、広げると大きくなるタイプの。本の価格、高くなってしまいますか?」
本条さんが質問した。
「折り込みページですね。少しであれば、価格はさほど変わりません。印刷代は余分にかかりますが、部数が数千部単位と多いので、一冊単位ではほとんど影響がありません。同様にカラーページを入れることも可能です」
「そうですか、良かった。伊坂先生は何かあります?」
「初刷の部数と印税率について記載がありませんね」
しまった。つい丸山出版時代の癖で、情報を隠してしまった。「部数については、作家に質問されない限り教えるな。出版直前の部決会議で予定部数より大幅減されることもある。そうなった時にごねられると面倒だ。もし伝える場合も、変更の可能性が大きいことは念押ししておけ」――それが後藤編集長の方針だった。
「四千部、印税十%です。記載漏れ、申し訳ありませんでした」
伊坂先生は俺には返事をせず、他の二人に話を振った。
「佐伯市長と本条君は、それで問題ない?」
「大丈夫です」
「私も」
「そう。じゃあそれでいいか」
伊坂先生があっさり納得してくれ、ほっとした。他に質問は出ず、市長が話を進める。
「では、三人の共著はミュゲ書房で出版する方向で良いですか?」
「はい、お願いします」
本条さんが答え、伊坂先生も静かにうなずいた。これでミュゲ書房からの商業出版が現実的になる。まさかこの町でも出版に携わることになるとは思いもしなかった。実務書なので内容はかなり専門的なものになるが、編集部内や営業とのややこしいやり取りを経ずにほぼ一人で編集に関わる部分を決めていけるというのは、編集者としてはかなり恵まれた仕事だ。いい本を作りたい。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
じいちゃんとばあちゃんが生きていたら、どんなふうに驚き、喜んだだろうか。
「では次は、契約書の読み合わせですね」
契約書?
「できれば今日のように集まりたいですが、伊坂先生と本条さんが次回A市に来るのは一か月後です。そういうわけで、電話会議でいいですか?」
「ああ、仕方ないな」
契約書、電話会議。話は予期しなかった方向に進みはじめた。まさかこの段階で契約書の話が出てくるとは思わなかった。
「すみません、その件なんですが。出版業界では通常、本が店頭に並ぶ直前に契約を交わします。その時期でないと記載できない内容もあって」
「では雛形は?」
「私がいた出版社では、雛形もお見せしないのが慣例でした」
市長に聞かれて答えると、伊坂先生が俺を見た。
「理由は?」
その表情からは感情が読み取れない。
「はい。形式的なものですし、こちらが提示した条件にサインして頂くだけなので」
丸山出版ではずっとそうしてきた。俺が担当した中で契約書の内容に文句を付けてきた作家はいないし、もし不満があったとしても、修正には応じられない。すべて出版社側の条件を飲んでもらう。そういうものなのだ。
「わかりました」
伊坂先生の整った顔に浮かぶ笑み。
「では、この話はなかったことに」
「ええっ、そんな」
本条さんが反応したが、俺はあまりに予想外で何もいえなかった。
「仕方ないだろ。話にならない。契約書の雛形すら見せず、出版直前に契約を結ぶ。それはつまり、どんなに不利な条項が記載されていても著者側は出版直前まで気付けない、ということだ。
仮に不利な条項が記載されていた場合、出版直前に気付いてどう対応する? 俺たちが脱稿しているのはもちろん、校正、デザイナー、印刷業者、みんなが仕事をし、本はすでに完成している。その段階で『やっぱり出版を止めます』とはできないのが普通だ。
話は戻るけど、企画書に初刷部数と印税を記載していなかったのも問題だと思う。どんな仕事でも報酬を明確にするのは最も重要なことだ。報酬を得るための仕事なんだから」
それを記載せずに平気でいたお前はダメ編集だ、そういわれているのは明らかだ。
「出版業界の慣行として口約束で仕事を進めるケースが多いのは知っているが、少なくとも俺は、そういう出版社からの執筆依頼には応じない。理由は二つ。著者を下に見ていることと、後で揉めたら面倒だから。そもそも本条君、仕事上の取引を開始するにあたって契約書を作らなかったことって、ある?」
「……ありません」
「だろ? 契約は口約束でも成立はする。でも明文化しておかないと、もし何かあった時に言った・言わないの問題が起こって厄介だし、不利な立場になるのは大体の場合、著者側だ。事前に契約書を作るのが難しい場合は、同意書だけでも作っておくべきだ」
「まあ、そうですよね。伊坂先生がおっしゃることはわかります。宮本さん。契約書には重要な役割があります。当事者間の権利義務を明確にすること、リスクの分担、将来的な紛争の予防、などです。その条件を出版社側だけが知っている状態で著者が執筆を請け負う、というのは、フェアではないと思います」
まさかこの場で、これまでの仕事のやり方を全否定されるとは。
「では、どうしたら」
「まずは、契約書の雛形を作りましょう。ミュゲ書房独自のものを。私が手伝います。そして来週、電話会議でその読み合わせをする。契約書の内容を声に出して読みながら確認し、修正の希望があれば双方で調整します。そして執筆開始前に、現段階ではこの雛形の内容についてお互いが了承したということを、同意書として残しておきましょう」
契約書一つにこれだけの手間をかけるとは。弁護士という人種は、出版関係者とは思考回路が違う。
「皆さん、これでいいですか?」
市長の問いに、伊坂先生と本条さんがうなずいた。そして俺も。
その場で電話会議の日時を決め、この日の打ち合わせは終了となった。室内は冷房が効いていたが、気付けば俺は、背中にぐっしょりと嫌な汗をかいていた。
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