第6話 山田さんの提案

 自伝?


「誰のですか……?」


 山田さんはむっとした。


「決まってるじゃないか、私のだよ」


「あっ、失礼しました」


 そうだよな。政治家で、しかも本好きの山田さんなら、自伝の執筆を考えるのはある程度自然な成り行きだ。


「原稿はもう完成している。ずっと前から少しずつ書いていてね。どの出版社を使うか考えていた時に、章君、編集者だった君がやってきた。君に任せれば、ばっちりだろう? これはもう今出版するしかないと、私は思っているんだよ。もちろん自費出版で考えている。必要な経費は全て私もちだ。ミュゲ書房には一銭たりとも出させないし、章君には相応の対価を支払う。遠慮せず請求してくれ。どうだ、引き受けてくれんかね?」


 さっきまでのしかめ面とはうって変わり、夢と希望にあふれた青年のような表情。断りづらい。だが出版はそんなに簡単ではない。


「もし――もしもですよ。仮にミュゲ書房で出版をお引き受けするとして、商業ルートで売るのはほとんど不可能だと思います。失礼ですが、よほどの有名人でない限り、自伝には需要がないんです。そして出版の流通は特殊で、取次を通すのが基本です。出版社が書店に直接売るのではなく、出版社→取次→書店の順で売る場合が多いんです。ですが、実績のない全く新規の出版社が取次に口座を開くのはかなり条件が厳しく、ミュゲ書房にはとても無理です」


 山田さんはわははと豪快に笑った。


「売ろうとは思っていない。完成した本はすべて私が引き取り、必要に応じて配布する。だから取次は不要だ。編集以外のことで章君に迷惑はかけない。印刷や製本は市内の業者を使ってくれ。紹介するから。敏夫さんと節子さんは、『いつかミュゲ書房から本を出してみたい』と言っていてね、業者連中ともたまに話していたんだ。節子さんが亡くなって、夢は消えてしまったんだが」


「そうだったんですか」


 書店だけでなく出版も考えていたのか。二人のバイタリティには頭が下がる。それなら、もう断る理由はないな。


「ということで章君、引き受けてくれるかね?」


「――わかりました。やらせて頂きます」


 自費出版とはいえ、親しかった山田さんの本だ。じいちゃんとばあちゃんも喜ぶだろう。


「じゃあ、あとで原稿をメールに添付して送るから。ぜひ感想を聞かせてくれ」


 素人の書いた自伝だ、不安は大きいが、できるだけいい形で本にしよう。


「わかりました。楽しみにしています」


 丸山出版時代の癖で、余計な一言まで付け足してしまった。「楽しみにしています」――秋田先輩から教わったこの一言は、特に新人作家のモチベーションアップに絶大な効果を発揮した。



 送られてきた山田さんの自伝は三十万字の大長編、文庫本にすると上中下巻になる量だった。政治家として精力的に活動するかたわらこれだけの量を書き上げたことは、少しずつ書き溜めたのだとしても尊敬に値する。


 だがその内容はといえば、熱意が空回りしてしまっていた。山田一族の歴史から始まり、両親のなれそめ、百ページ近く進んだところでようやく山田さんが誕生、幼稚園入学、小学校入学……と、延々と続くのが上巻。一日目はここで寝落ち。


 気を取り直して二日目、中巻にあたる部分。山田青年が大学卒業後、会社勤めを経て政治家を志すまでの数年間がこまかく描写されていた。


 そして三日目。つまらない原稿を早く読み切ってしまおうと、店番をしながら惰性で読み続けた。ところが予想に反して下巻は面白かった。なぜなら、山田さんと市長の確執にほとんどのページが割かれており、そこにはドロドロとした人間ドラマがあったからだ。


 そもそもの発端は、東京からA市に戻ってきた市長(正確にはその時、官僚出身の弁護士という肩書だった)が市長に立候補し、当選したことだ。そのせいで、近い将来に市長になることを確実視されていた山田さんの予定が狂った。


 その後二人はA市の再生案をめぐって対立し、市議会でやりあい、最終的には市民を巻き込んだ住民投票で市長が勝利して決着がついた。

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