第5話 章の日常
風に運ばれてくるウミネコの鳴き声で目が覚めた。
午前五時、いつもの時間。眠い目をこすりながら、朝日が差し込む家の中をすべての窓を開けてまわる。やかんを火にかけ、湯が沸くまでに洗顔と歯磨き。それが終わったら、じいちゃんのお気に入りだったモスグリーンのビロード張りのソファでコーヒーを飲みながらメールチェック。その後はSNSへ。
俺は「広川蒼汰」と入力して検索ボタンをクリックした。いくつもの書き込みが表示されるが、どれもすでに目にしたことのあるものばかりだ。
「広川蒼汰、編集と揉めたんじゃないか?」
「プライド高そうだったもんな」
「無茶ぶりの改稿方針が嫌だったんじゃない? そういう話、よく聞くよね」
「甘いよ。プロなら編集サイドの要望に応えて当然。それができないなら、一生趣味で書いてりゃいいんだ。あー代わりに俺が書籍化してもらいたい」
「好きだったのになあ、『リベンジ』」
「広川さん、帰ってきてください。待ってます」
「私、ソウサクの運営さんに問い合わせ送ったんですけど、お返事ないです……」
「俺も」
「変だよな、大賞は書籍化確約だろ? それなのに何のアナウンスもしないままで」
「編集がどう思おうと『リベンジ』は傑作だった。あのままの形で出版して欲しかったな」
「楽しみにしてたのに。俺もメールしてみる」
書き込みどおりだとすれば、複数の人間がソウサク運営に問い合わせたはずだ。しかし運営は沈黙を貫いた。後藤編集長が口止めしたのだろう。
憶測が憶測を呼び、いつしか広川は「出版社の安易な書籍化に歯向かった信念のある新人作家」としてもてはやされるようになった。
もっとも、ここ一か月ほどは新しい書き込みはなく、彼の存在が徐々に忘れ去られていく気配が漂いはじめているのだが。広川が親しかったアマチュア作家仲間は誰一人として彼のことに触れる者はなく、まるで最初から存在していなかったかのようにすら感じられる。
どこにいる、広川蒼汰。
君はこの状況を見ているはずだ。そろそろ活動を再開する時期ではないか。俺はずっと待っている。
もしかしたらペンネームを変えたのかも知れないが、仮にそうであっても、読めば必ずわかるはずだ。切れ味があり、写実的で、しかも感情に訴えてくる文章には確かな個性があり、書き手としてのずば抜けた才能を感じさせるものだ。
あれほど前向きでタフだった君が簡単に筆を折るとは、どうしても思えない。早く戻って来てくれ。
午前六時を回ると、俺は庭から通りに出て道路を渡り、紫陽花の茂みに隠れるようにしてひっそりとある百五十石段を下りる。さらに五分ほど歩くと魚市場があって、その中の食堂で朝食をとるのが日課だ。
A市には漁港があるので、この市場で出される魚はどれも新鮮そのもの、野菜も地元産がほとんどで、何を食べても旨い。今日の定食は白米、大根と油揚げの味噌汁、焼いたホッケ、ヤリイカの刺身、さやいんげんの生姜醤油和え、キュウリの酢の物。
黙々と箸を動かしているうちに鬱々とした気分が晴れてくる、というのがいつものパターンだ。
ミュゲ書房に戻って発注と納品の処理、返本その他の細々とした事務や店内の掃除をしているうちに十時になり、店を開ける。
「いらっしゃいませ」
「おはようごじゃまー」
「おはようございます」
最初にやって来るのは絵恋ちゃんと紗耶香さん母子。彼女たちが毎日参加している読み聞かせがはじまるまでの三十分間、絵本を眺めたり、庭で遊んだりして過ごす。次に年配の常連さんが五、六人。
「いらっしゃいませ」
「おはよう、章君。今日も暑いなあ」
「東京の人だもの、これくらい平気よね?」
「ええ、まあ」
少し世間話をした後、彼らは店内のお気に入りの席で談笑したり、次に買う本をみつくろったりする。そのうち読み聞かせが塔の部屋ではじまり、子どもたちがくすくす笑ったり、驚いて悲鳴を上げたりするのが聞こえてくる。
その頃になると、晴れていれば菅沼さんがやって来て庭の手入れを始める。池田君は大学の講義のない日の昼過ぎから、そして永瀬桃は毎日授業が終わった後にミュゲ書房を訪れ、それぞれのペースで、カフェの営業、店の手伝いと勉強をこなす。
のどかだ。平和な空気が店内に満ちている。しかし店の経営状況は平和とはいいがたい。七月三十一日の現時点で、今月の目標売り上げを十万円も下回っている。
たまたまか? それとも何か根本的な原因があるのか?
「どうした章君。浮かない顔をして」
山田さんがやって来た時、俺はカウンターでぼんやりと頬杖をついていた。
「……売り上げが思ったように伸びなくて」
「そうか。そうだなあ、敏夫さんに会いに来てた客も多かったからな。彼らの足が遠のいたのかも知れんなあ」
「そんな」
「人の心は移ろいやすいんだよ」
せっかく継いだのにずいぶん薄情ではないか。
「こんなこともあろうかと、提案を持ってきた」
「提案?」
「ああ。一時しのぎにしかならないとは思うんだが、章君と私、両方にとって悪い話ではない」
「何ですか、一体?」
「自伝を出すのはどうだろう?」
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