第3話 ミュゲ書房、最後の日

 カチ、コチと振り子時計が静かに時を刻む店内で、永瀬桃は淡々と本を集め続けた。ときおり、抜き取った本を机に重ねる乾いた音が聞こえてくる。やがて作業を終えた彼女は「本、窓際のテーブルに積んであります」と俺に声をかけると、店の奥まったところにある小さな机と布張りの椅子の間にその華奢な体を滑り込ませるようにして座った。そして黒いリュックから取り出したノートを開き、静かに勉強を始めた。


 俺が永瀬桃が作業した続きの本を集めはじめてから三十分ほど経つと、「こんにちはー」という快活な声とともにドアベルが鳴った。出てみると日に焼けた青年が立っている。


「池田といいます、はじめまして」


 その朗らかな表情に、俺も思わず笑顔になった。つられたのもあるが、女子高生と二人きりの緊張感から解放されるというほっとした気持ちも大きかった。


「はじめまして。宮本章です。店主の孫で今、店の片付けを」


「山田さんから聞いています。敏夫さんにはすごくお世話になったので、手伝わせてください。ここのキッチンで不定期にカフェをやらせてもらっていました」


 カフェ? もしかして――。


「あの、棚のコーヒー」


「僕のです」


 ああ、しまった。


「ごめん、てっきり祖父のかと。飲んでしまった」


「いいですよ、別に。こちらこそ、コーヒー豆だけじゃなくて道具や食器、置きっぱなしにしてすみませんでした」


 その時、またカランコロンとドアベルの音がした。


「あらー? 桃ちゃんと池田君、もう来てるー?」


 軽やかな声とともにドアから顔をのぞかせたのは菊の花束を抱えた中年女性で、すぐに菅沼さんだとわかった。近所に住む五十代の主婦。ばあちゃんが亡くなってしばらくしてからずっと、庭の手入れをしてくれていたのだという。どうりできれいな状態に保たれていたはずだ。


「祖父が生前お世話になり、ありがとうございました」


 俺は丁重に頭を下げた。


「いいのよ、そんなにかしこまらないで。お礼を言うのはこちらの方なの。庭仕事の合間に、敏夫さんだけじゃなく池田君や桃ちゃんとおしゃべりして、毎日楽しく過ごさせてもらって。章君……でいいのかしら」


「はい」


「お願いがあるの。敏夫さんにお線香をあげたいのだけど。多分、他にもたくさん来ると思うから、遺影とお線香、レジカウンターに置いてもらうことはできないかしら」



 菅沼さんの言ったとおり、翌日から続々と町の人たちが焼香に訪れた。彼らはミュゲ書房の常連で、ここでいろいろな活動をしてきたのだという。


 発端は十年前、ばあちゃんが亡くなって落ち込むじいちゃんをほうっておけずに山田さんが読書会を始めたことで、それをきっかけに趣味の集まりが増えていき、ほぼ毎日何らかの会合が開かれるようになったそうだ。


 俺たち家族が自分たちのことで忙しく、年に数日しかここに滞在できなくなっていたのと反比例するかのように、じいちゃんは町の人たちとのきずなを深めていたのだった。


「店が完全に片付くまで、今までのようにミュゲ書房を使わせてもらえないだろうか?」というのが常連さんたちの希望で、俺はもちろん了承し、それからの店内は閉店準備中だとは思えないほどにぎやかになった。


「あら、今日は将棋サークルの日?」


「いや、それは明日。この店がなくなると思うと寂しくてね。つい立ち寄ってしまった」


「私もですよ。これで市内には泉谷書店だけになってしまいますね。あそこは大きいけど、居心地が良くないのよね」


「また歴史のある店が一つ消えるなあ。若い人がどんどん出ていくから、仕方ないのかな」


「市政改革はどうなっているんだろうね。市長は人口を増やす言っていたけど、なかなかうまくいかないね」


「山田さんが副市長になったから、きっとじきに改善してくれるよ」


 店内のいたるところで世間話に花が咲く。そんな彼らに池田君は、「これまでお世話になったお礼です」と無料でコーヒーと手作りのクッキーを配るのだった。



 永瀬桃は毎日学校帰りにやってきては一時間かけて本を集め、その後は静かに机に向かう。今日はレポートでも書いているのだろうか、持ち込んだノートパソコンを開き、カタカタと小気味よい音をさせてキーを叩いている。


 そんな彼らを横目に俺は店じまいの準備を進め、ついにその日はやってきた。



「山田さん。今夜はありがとうございます」


「いや、こちらこそ。最後にお別れの機会を設けてくれて、ありがとう。たくさん集まったなあ」


「はい」


 ウォールランプが柔らかなオレンジ色の明りを灯す店内では、百人を超える常連さんたちが、空になった棚の間、ソファ、塔の部屋などいたるところで語らい、ざわざわと心地よいさざめきが店内を満たしている。


 店の奥の壁際に積み重ねられたダンボール箱には返本が入っており、明日の搬出を待つばかり。返本対象外となった本は、今日の午後まとめて図書館に寄贈してきた。


 山田さんはしばらく黙って店内を眺めていたが、やがてぽつりといった。


「店を継ぐ人間を見つけられず、敏夫さんと節子さんには申し訳なかった」


 山田さんらしくない寂しそうな声に心が痛む。


「俺が継げれば良かったんですけど……すみません」


「章君が謝ることはない。あの売り上げでは、若い君には厳しい。敏夫さんは年金があったからやってこれたんだ」


「――はい」


 本当にミュゲ書房を存続させたかったら、金のことなんて気にせず俺が継げばいい。やれるだけのことを、やってみればいい。だがそれはできなかった。結局、俺は傍観者に過ぎないのだ。広川蒼汰が消えた時のように。


 

「じゃあ、そろそろ始めようか。章君」


 山田さんに促され、俺は店の中央に進み出た。静寂が訪れる。


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。この三週間、皆さんには祖父が存命だった時と同じようにミュゲ書房をご利用いただき、また、片付けや掃除を手伝っていただき、ありがとうございました。


僕にとっては、祖父が皆さんと過ごした日常を追体験するような貴重な時間でした。祖父、そして祖母も、喜んでいると思います。ミュゲ書房は本日を持ちまして閉店いたしますが、建物はしばらくこのままの状態で残します。もしどなたか当店を引き継ぎたい方がいらっしゃいましたら、いつでもご連絡頂ければ幸いです」


 山田さん、永瀬桃、菅沼さん、池田君、その他のたくさんの人たち。短い間だったが、じいちゃんとばあちゃんの店を愛してくれた人たちと時間を共有できて良かった。


「では、山田副市長から献杯のご挨拶を――」


 声がかすれ、自分でも驚いた。感傷的になっているのか。


 山田さんはグラスを手に堂々とした歩みで俺のところまでやって来ると、肩にほんの一瞬、手を置いた。そしてみんなの方を向くと、いつもよりずっと穏やかな口調で話し始めた。


「副市長の山田重雄でございます。ミュゲ書房ができて二十年が経ちました。みんなこの店が好きだったし、ここで楽しい時間を過ごしてきました。このような機会を与えてくれた斎藤敏夫さんと節子さんご夫妻、そして、私達がミュゲ書房とお別れする場を設けてくれた孫の章君に感謝の意を表して――」


 山田さんグラスを掲げたその時だった。


 入口のドアベルがカラコロカラコロと鳴り、グレーのスーツを着た男性が慌ただしく駆け込んできた。


「おい、門田君! 今取り込み中!」


「すみません、急ぎでご報告が」


 門田君と呼ばれた男性は山田さんに近づくと、そっと耳打ちした。


「なにい! 泉谷書店がA市から撤退するだと!?」 



 市内に残る唯一の書店、全国チェーンの泉谷書店がA市の店舗を閉めるとのニュースは、その夜あっという間に市内を駆け巡った。

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