第2話 副市長・山田重雄と永瀬桃
山田さんのいうとおり、じいちゃんは明るく人づきあいが良かった。元司書で書店主、という肩書から連想するのと逆のタイプだ。
「本そのものよりも、本が好きな人が好きなんだ。だからミュゲ書房を作った。定年後も本好きな人達と関われたら楽しいから。それに節子さんのセンスをこのまま家の中だけに留めておいたらもったいないだろう?」
じいちゃんの誇らしげな笑顔が今でも目に浮かぶ。節子さん、というのはばあちゃんのことで、十年前に亡くなった。無類の読書家で博識、園芸やインテリアにも造詣が深く、ミュゲ書房がこんなに居心地の良い空間になったのは、ばあちゃんの力が大きい。
二人で作り上げた本の森。だが間もなく店じまいだ。すまない。じいちゃん、ばあちゃん。
どうにかできたらいいと思う。だがミュゲ書房を継ぐために俺たち家族の誰かがこの町に移住するのは非現実的だ。多くの個人書店と同じく、経営状況は思わしくない。じいちゃんが続けてこられたのは年金のおかげで生活が安定していたからで、現役世代がこの店の経営で食べていくのは難しいだろう。
「寂しいわ。父さんと母さんの思い出が詰まっているから」
「仕方がないよ。店を閉じても、建物はしばらく残しておこう」
窓から差し込む西日が、テーブルを挟んで座る父と母の横顔を照らしている。
「そうね……。でも、私たちが一年に数日滞在するくらいでは、この家はどんどん傷んでしまう。住んでくれる人が見つかると良いのだけど」
そうはいっても、過疎が進むこの町ではそれも難しいだろうというのは、みんながわかっていることだった。母はコーヒーを一口ゆっくり飲むとため息をついた。一階の店舗用キッチンで見つけた豆で淹れたもので、風味豊かで旨い。じいちゃんは日本茶しか飲まなかったはずだが、誰かにもらったのだろうか。
「それで章、いいのか。店じまいをお前に任せて」
「うん。出版関係のことをわかっていた方がいいから、俺がやるのがいいだろ」
「でも会社は? そんなに長く休めないでしょう?」
「辞めたんだ」
「え……?」
「辞めた、ってお前……。次は決まってるのか?」
「まだ」
「なぜそんな急に……何かあったの?」
「ちょっと思うところがあって。話すほどのことじゃないんだけど。……そろそろシャワー浴びるよ」
俺は強引に話を打ち切ると、心配そうな顔をしている両親を残して席を立った。
退職理由を話さないのは、それが社会人として未熟なように思えるからだ。自分の決断が間違っていたとは思わないが、編集者なら当たり前に流すべきところをそうできなかったのは、否定しようのない事実だ。
翌日から早速、俺は閉店準備を始めた。
いくつもある作業のうち特に手間がかかるのは返本で、取次や出版社から送ってもらったリストをもとに本を集めて箱詰めし、取次に集荷に来てもらうか宅急便で版元に送る。在庫は約二万冊。一人でもなんとかなるだろう、そう高をくくっていたのだが――作業を始めて一時間後、読みの甘さを痛感した。
リストの一冊目、『アルジャーノンに花束を (※)』が見つからない。あちこち探したがだめ。本の森で迷子だ。この調子では、すべての返本を探し出すのに一体何日かかるのだろうか。
なぜこんなに苦労するかといえば、ミュゲ書房の本の並びには規則性がないからで、出版社別でもなければ著者名順でもない。あちこちの棚にてんでばらばらに(というのは俺から見た場合で、じいちゃんばあちゃんなりの法則はある)収められている。
「宝さがしみたいで楽しいだろ?」
「そうそう。意外な発見もあるしね。お客さんがいつも楽しめるように、しょっちゅう並べ替えているのよ」
じいちゃんとばあちゃんは茶目っ気たっぷりに話していたっけ。
「参ったな」
外気を吸って気分転換しようとサンルームの扉を開けた。快晴の空にふさわしい軽やかな空気が入ってくる。少し潮の匂いが混ざっているのは、昨日までと風向きが変わったからか――そんなことを考えていると、視界の端で何かが動いたような気配がし、俺は芍薬の茂みの方を見た。するとそこには一人の少女が立っていて、小鹿のように動きを止めてこちらを見つめていた。
意志の強そうな切れ長の瞳、透き通るような白い肌に艶のある真っすぐな黒髪。やや小柄だがきれいな子だ。あの制服はたしか、市内の進学校のものだ。
「本のことでしょうか? 申し訳ないんですが、この店はもう」
営業しないんです、といおうとした時だった。庭と通りを隔てるイチイの生垣の向こうから、迫力のあるだみ声が響いた。
「桃ちゃん! 早かったな! 章君もここにいたのか。二人はもう話したか!?」
山田さんだ。
「一人で店の片づけをするのは大変だろうと思ってな。 勝手ながら桃ちゃん――永瀬桃さん――に声をかけさせてもらった。C高校の二年生。敏夫さんの手伝いをよくしていたんだ。どうだろう章君。桃ちゃんに手伝ってもらっては」
「それはありがたいですけど……大丈夫ですか? その、俺と二人で」
女子高生と二十八歳が人気のない店内で二人きりは、まずいのではないか。
「うん? ああ、なるほど。それは気にしなくていい。池田君と菅沼さんも来るといっていたし」
池田君? 菅沼さん?
「二人とも敏雄さんと親しくしていてね。まあ、そういうことだから。じゃ、私は市議会があるからこれで」
立ち去ろうとした山田さんを俺は焦って引き留めた。
「ちょっと待ってください。永瀬さんに手伝いをお願いするとは決めていません。仮にそうするとして、バイト代はいくらにしたら……」
「いりません」
永瀬桃が口を開いた。静かだが、よくとおる透き通った声。
「そのかわり、ここで勉強させてもらえたらうれしいです」
切れ長の瞳で真っすぐ俺を見て無表情に淡々と話す様子は、ずいぶん大人びて見える。
「勉強?」
「トラちゃんが――うちの猫なんですけど――私の邪魔ばかりして。勉強してると机に乗ってきて、いたずらするんです。それで部屋から出すと、今度はドアの前でずっと鳴き続けてガリガリ引っ掻くし。その話をしたら敏夫さんが『ここで勉強していいよ』って」
「トラちゃんは、まだ子猫だった時にこの店の前に捨てられていてな。引き取ってくれたのが桃ちゃんなんだ。敏夫さんは責任を感じたんだろう。それはともかく、桃ちゃんはほとんどの本の配置を覚えている。一日一時間手伝ってもらえば、かなり作業ははかどると思うが――それ、返本リストか?」
山田さんは俺が持っていたリストを目ざとく見つけてひょいと取り上げると、永瀬桃に渡した。すると永瀬桃はリストを見ながら本棚の間をすたすたと躊躇なく行ったり来たりし、最初の二十冊を十五分ほどで棚から抜き出した。
「お見事」
山田さんがポンポンと拍手をすると、永瀬桃は「やめてください」と、居心地の悪そうな様子を見せた。照れ隠しだろうか。
「な、章君。悪いことは言わん、手伝ってもらいなさい。じゃあ私はこれで失礼するよ」
俺は永瀬桃と二人で店に取り残された。気まずい沈黙――と思ったが、彼女は気にするふうもなく再びリストを手にし、「じゃあ今から一時間、お手伝いしますね」と店の奥に消えていった。
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※ダニエル・キイス著 ; 小尾芙佐訳『アルジャーノンに花束を』(早川書房、1978.7)
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