ミュゲ書房

オレンジ11

第1話 さよなら、じいちゃん

 徹夜明けのその日、同じく朝まで残っていた後藤編集長が喫煙室に入っていくのを見ると、俺はデスクにしのばせていた退職願を手に後を追った。ドアを開けると、編集長はライターで火をつけようとしていた手を止め、煙草をくわえたままこちらをにらんだ。


「どうした」


 鋭い眼光に気圧されそうになりながらも、握りしめていた退職願を差し出して頭を下げる。


「辞めさせてください」


「理由は」


「向いていないので」


「それはないだろ。宮本はいい編集者だ。実務書もライトノベルも、成果を上げてきたじゃないか」


「買いかぶりです」


「広川蒼汰のこと、気にしてるのか」


 一瞬、否定したい衝動にかられた。青臭いと思われるのが癪だったから。だがどうせもう辞めるのだ、どう思われようが知ったことではない。


「――はい」


「あいつは商業出版には向いてなかったんだ。ウェブで書いているのがせいぜいだった。気にするな。お前のせいじゃ――」


「いえ、僕のせいです」


「……勝手にしろ」


 編集長は俺の手から退職願をもぎ取ってぐしゃりとジャケットの内ポケットに突っ込むと、乱暴な足取りで喫煙室を出て行った。


 これまで六年間がむしゃらに働いてきたこと、さらにいえば業界最大手の丸山出版に入社するために学生時代にした努力、すべてがこの瞬間に水の泡になった。


 母から電話があったのはその一か月後、引継ぎを終え、有休消化期間に入って間もなくのことだった。


「おじいちゃんの容態が急変したの。できるだけ早く、こっちに来なさい」


「そんなに悪いの?」


 なんて間抜けな質問だ。信じたくない、という気持ちが言わせたのだろうか。


「父さんは?」


「明日の始発で来るって。チケットが取れたら章も一緒の便で」


「わかった」


 北海道で一人暮らしをしているじいちゃんが風邪をこじらせて入院し、母が看病のために仕事を休んでA市に滞在しているのは聞いていたが、まさかこんなことになるとは――。



 翌日の午後、父さんと俺が病室に駆けつけると、じいちゃんは母さん、医師、看護師に見守られて静かにベッドに横たわっていた。深い、深い呼吸。このまま逝ってしまうのだろうか。そう思った時かすかに唇が動き、その場にいた全員が息を詰めた。


文子ふみこ誠一せいいちさん。あきら


 小さくかすれた声。


「来てくれてありがとう。会えて良かった。店のことは、お前たちに任せる――楽しかったなあ――」


 それが最期の言葉だった。 



 じいちゃんは司書として定年まで働いたのち、小さな書店を開業した。ばあちゃんとアイディアを出し合い仲睦まじく準備を進めること二年、俺が八歳の頃にミュゲ書房は誕生した。今から二十年前のことだ。「ミュゲ」はフランス語でスズラン。ばあちゃんが大好きだった花だ。


 中学に上がるまで、俺は毎年夏休みになると祖父母の家に預けられていた。内向的で、学童や塾で子ども同士の人間関係にもまれて過ごすのが苦手だったからだ。


 この町で過ごす夏休みは、宿題、祖父母の手伝い、あとの時間はほぼ読書。読みたい本があれば店の棚から抜き取って、じいちゃんの定位置だったレジ横の書斎机に持っていく。すると蔵書印を押してくれその本は俺のものになる、という仕組みだった。


「素敵でしょう、アンティークなの。マホガニーよ」


 ばあちゃんが机を磨きながらよく言っていたっけ。艶のある濃い飴色は、いまだにあの頃のまま。机だけじゃない、店の中もだ。とても八十二歳の老人が一人で切り盛りしていたとは思えないほど、ミュゲ書房の店内は整っている。もっともその様子は、一般的な書店とはまったく異なるのだが。


「イメージは大正ロマン」


 これもばあちゃんの口癖だったが、実際、ミュゲ書房は大正末期に建てられた洋館を改装した建物で、一階が店舗、二階が住居になっている。二人はこの洋館を購入したのち、一階にあった五部屋を仕切っていた壁を可能な限り取り除き、フロア全体を緩やかに一体化させた。そして残った壁のほぼ全面に書棚を作り付け、フロアには低めの棚、その間に布張りの椅子やソファ、小さめのテーブルを配置した。


 百年近い時を経た無垢材の床と腰壁は深みのある茶色、そこから天井へとつながる漆喰の壁は白。そして青緑色のステンドグラスで幾何学模様をあしらった磨りガラスから差し込む柔らかい光。


 店の奥まったところにある間口をくぐると、そこには塔のようになっている部分があり、二階まで吹き抜けになっている。円筒の壁にぐるりと沿った棚に天井の高さまで本が並び、二階部分は、手すり柵のついた通路がドーナツ状に本棚を取り巻く。その様は、まさに壮観。北国の小さな本屋の中にこんな空間が存在するとは、奇跡のようだ。


 サンルームの戸、閉めないとな――。


 頬をなでたひんやりとした風に、一階に降りてきた目的を思い出した。サンルームは三面がガラス張りで、庭を見渡す位置に突き出ている居心地のいい部屋だ。


 ありし日のばあちゃんが丹精していた庭には、桑やブルーベリーなどの果樹、四季折々の植物が植えられており、今時期は満開のスズランとライラックが清涼感のある香りを漂わせている。もう六月になるのに肌寒く、「リラ冷え」という言葉がぴったりだなと思う。


「これでよし、と」


 すべての戸締りを終えて灯りを消すと、店内は薄暗がりに包まれた。

 


 じいちゃんの葬儀はその遺言により、近親者とごく親しい人たちのみで営まれた。取り仕切ってくれたのは山田さんで、A市の副市長。この地方都市で最大の勢力を誇るK党の実力者であり、浅黒い肌に白髪、小柄ながらがっしりした体格に鋭い眼光は迫力満点だ。


 実際その政治手腕はかなり強引で時に汚いこともしてきたらしいが、意外なことにじいちゃんとは本の趣味がよく合って、じいちゃんがまだ図書館にいた頃から二人は親しくしていたそうだ。ミュゲ書房にもよく顔を出してくれ、俺も何度も会ったことがある。


 山田さんは、じいちゃんが亡くなったと電話で知らせた三十分後には駆けつけ、その人脈を生かして見事な手際で葬儀の段取りを整えてくれた。父と母は「副市長に葬儀の手伝いをしてもらうなんて申し訳ない」と恐縮しきりだったが、山田さんは、「敏夫さんは人生の先輩であり数十年来の大切な友人です。ここでお役に立たないでどうしますか」と譲らなかった。


「葬儀に参列する側の手間など考えて家族葬という選択をしたんだろうが、まったく、水臭い。社交的なあんたが最後にこういうことをすると、みんなが戸惑うじゃないか」


 棺に横たわるじいちゃんに語りかける山田さんの肩は、震えていた。

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