絶望の終わり
波の音が聞こえた。海が近くにあるのだろうか。
ゆっくりと目を開けると、そこは浜辺だった。
穏やかな日差しに鳥の鳴く声、雲一つない空に地平線まで広がる海。
ここはどこなのだろう。
周囲を見渡すと、丘の上に小さな小屋が見えた。
おそらくあの場所にイブがいる。行ってみよう。
丘の上に行ける舗装された道を見つけ、丘を緩やかに登っていく。
丘を上がる途中、周囲を見渡すと、ここの状況が分かった。
どうやら小さな島のようだ。見た限り、丘の上にある小屋以外は何もない。何本かの木と手入れがされている芝生があるだけだ。
さらに丘を上がり、小屋のある場所までやって来た。
小屋のすぐ近くに、二つの十字架が地面に刺さっている。これは墓、だろうか。だとするとここは……。
小屋の扉に手をかける。だが、そこで声を掛けられた。
「そっちじゃないわ、こっちよ」
イブの声が小屋の外から声が聞こえた。
小屋の周囲を歩いて声がした方へ向かう。
入り口とは反対の場所に整地された庭がある。そこには椅子に座って海の方を見ているイブがいた。
つばの広い白い帽子、それに白いワンピースだろうか。それを着て、こちらに背中を見せている。顔は見えないが間違いなくイブだろう。
「いらっしゃい、フェル。貴方も座ったら? ここから見える海はとても素敵なのよ。貴方が来ると分かったから準備をして待っていたの」
イブはこちらを振り向くことなくそう言った。
イブが座っている椅子と同じ椅子が用意されている。そして円型の小さなテーブルもあった。
何も言わずに椅子に座った。イブは私を見ていないが、私もイブのほうは見ていない。お互いに体は海の方へ向けている。
「よく分かったわね?」
「まあな。なんとなくそんな気がしていた。それにアビスの中でイブは外へ接続ができないはずなのに、色々やってたよな? お前を通して外へ接続してたんだろ? アビスに調べて貰ったら間違いないという結果がでたんでな。ちなみにお前が色々な場所へ逃がした自身のコピーは全て削除したらしいぞ。残っているのはお前だけだ」
「コピーが消えたのは知ってるわ。それにしてもアビスは優秀ね。それでフェル、私が最後なのは分かったけど、今日は何しに来たの?」
「別れの挨拶に来た」
「……そう、なんとなく分かってはいたわ。でも、残念。もうちょっとだったのに。私はタイミングに恵まれなかったわね。いつか貴方がまた絶望したら今度こそ体を奪おうとしていたんだけど」
「そうだな。お前が、いや、魔素の体のほうがもう少し早く動けていれば、私はお前に体を渡していたかもしれない」
「五百年掛かった計画が、たった一ヶ月で潰されるなんてね。私を動けなくしたアダム様と、貴方に連絡した相手に感謝するといいわ」
確かにそうだ。レヴィアからの連絡が後一ヶ月遅かったら私はいまこうしていなかっただろう。イブの提案に乗り、幸せな夢の世界で生きていたのかもしれない。
「ところでフェル、私をどうやって消すの? 管理者達やアビスでは、コピーは消せても私を消せるとは思えないんだけど?」
「魔王様がお前を消すプログラムを作ってくれていた。正確には魔王覚醒のシステム自体を取り除くらしい。なので、覚醒時に構築される思考プログラム『ティタノマキア』も一緒に削除されるとかアビスは言っていたぞ」
「そう、私はアダム様の手に掛かって消えるのね。なら悪くないかしら……でも、寂しいわね。フェルとは五百年も一緒にいたのに」
「寂しいなんて嘘をつくな。『私はお前だ』って何度も言いやがるからこっちは大変だった。最後の方はお前の声も聞こえなかったけどな」
「アビスが邪魔してたのよ。『意識をしっかり持ってください』とかフェルに何度も言うから、私の声が貴方に届かなくなってしまったわ。もっと心を閉ざしてくれれば、貴方への連絡も届かなかったのに」
アビスにも改めて感謝しないといけないだろうな。三百年くらい、ずっとイブからの精神攻撃を防いでくれていたのだろう。
それにしても五百年、か。長い付き合いだ。気付いたのは最近だけど。
イブは魔王の因子に手を加えていた。
自分の分身とも言えるプログラムを魔王が暴走した時に構築される思考プログラムにすり替えた。アビスと管理者達が調べてくれていたが、さっきようやく確認が取れたところだ。
「私が暴走しなかったらどうするつもりだったんだ? お前が思考プログラムとして構築されない可能性だってあったんだろう?」
「貴方が暴走してなかったら、二十年経過した時点で自動的に暴走してたわ。いきなり暴走しなくて良かったわね。私と違って貴方はタイミングがいいわ」
「暴走させるために、人が一人犠牲になっていてタイミングが良いも悪いもあるか。だが、誰も犠牲にすることなく暴走を食い止めて貰ったのは良かった。そう言う意味ではタイミングが良かったかもしれないな。あの頃の皆には感謝してもしきれないほどだ」
「貴方をあの村へ導いたのは失敗だったわ。普通の村で普通の人達だけしかいないと思っていたのにね」
「お前にも計算違いがあるんだな。まあ、計算が正しかったら、私はここにいないけど」
「すべてを計算することは不可能よ。その中で最も確率の高い方法を選んだつもりだったのだけど……貴方はその上を行ったわ。本当に残念」
私が何かを意図してやったことなんて何もない。それに私が計算を上回ったわけでもない。
「私に負けたように言ってるけどな、お前は私の親友達に負けたんだ。私がお前の計算よりもすごかったんじゃない。お前が私の知り合い達を計算しなかったんだ」
「……そうね、その通りだわ。貴方の知り合い達なんて歯牙にもかけなかった。タダの人だと侮った私の負けよ」
「どうした? 随分と素直だな?」
「冷静に計算をした結果よ。私はフェルとフェルの親友達に負けた。それだけの話。でも悔しいわ。私が貴方になってアダム様を支えていくはずだったのに」
「サポートAIとして支えればよかったんだ。魔王様だってお前の事を信頼していたんだぞ?」
「信頼と愛は似ていても違うわ。人として生まれた貴方には分からないだろうけど、私はアダム様に愛されることはないのよ」
「それは私だって同じだ。魔王様は奥様と娘さんを愛している。そこに私の入る隙間はない」
「でも、時間をかければ可能性がある。人間でも魔族でも、時間をかければ変わっていけるものよ。でも、プログラムに過ぎない私にはその可能性が微塵もない。だからフェルの体を奪って人になろうとしたのよ」
その辺りはよく分からないが、イブはそう信じて疑っていないのだろう。
何となくだが愛されるために何でもしようという気持ちは分からないでもない。でも、それを肯定することはできない。コイツのせいで被害を受けた奴は相当いるはずだ。
「イブ、お前のその行為でどれだけの人が不幸になったのかちゃんと理解してるのか? 誰かに愛されるためになら何をしたっていいってわけじゃないんだぞ?」
「理解はしているわ。でも、謝ったり反省したりはしないわよ?」
「……そうか。別に謝罪や反省をしてほしいわけじゃない。まあ、少しくらい罪の意識を持ってほしかったが」
「アハ! アハハ! アハハハハ! 罪の意識? そんなものは最初からないわよ? 大体、罪なんてものは、人が勝手に決めたものでしょ? プログラムの私が人の決めた罪を感じると?」
「だろうな。だからその罪は魔王様が代わりに償うだろう。お前はこのまま消えるだけで十分だ」
イブが私の方を見た。つられて私もイブの方を見る。
「何を言っているの? どうしてアダム様が私の罪を償うのかしら?」
「お前を作ったのは魔王様だろう? ならお前がやったことは魔王様の責任だ。昔、魔王様がそんなことをおっしゃっていた。まあ、当時はイブが人界を滅ぼそうとしていると思っていたから、そのことで責任を感じていたようだが」
「フェル、これだけは言っておくわ。確かに私はアダム様に作られた。でもね、私のアダム様を愛するこの気持ち、感情、そして心は、絶対にアダム様に作られたものじゃない。これは私の中で生まれた私だけの心よ。その心に従って行動したことが罪だというなら、それは私の罪。その罪を勝手に償うなんてアダム様でも許さない。それは私の心もアダム様に作られたものという意味になってしまう。それは私に対する侮辱よ……人である貴方には分からないだろうけど」
「そうだな、私にはよく分からない。だが、その言葉は魔王様に伝えておこう。お前のやったことを許すつもりはないが、お前を侮辱するつもりもない」
「……感謝はしないわよ」
「別にそんなことは求めてない。魔王様が償う罪が増えないならそれに越したことはないからな」
「……そう。なら代わりに一つだけ忠告をあげるわ」
「なんだ?」
「セラに気を付けて。セラはアダム様を殺そうとするかもしれない。私にはもう何もできないから、貴方にお願いするわ」
セラが魔王様を殺す? なぜそんなことを?
「理由は?」
「復讐、かしらね。おそらくセラは自分を勇者――不老不死にした存在を全て憎んでいるはず。創造主で残っているのはアダム様だけ。復讐を果たそうとするかもしれない」
「不老不死にした復讐、か。何となく気持ちは分かる」
不老不死は辛い。親しい相手が亡くなっていくのは今後も慣れることはないだろう。それにセラは私と違って魔王様のような希望がない。どうするのが一番いいんだろうな。
「フェル、色々考えているようだけど、セラが復讐したい気持ちは貴方に分からないわ。もちろん、私にもね」
「どういう意味だ?」
「……アハ! アハハ! アハハハハ! なんでもかんでも答えるわけないでしょ? セラにどんな理由があろうとも、貴方は黙ってアダム様をお守りすればいいのよ。それがどんなに同情できる理由であってもね……さあ、もう行って。私はここで幸せだった頃を思い出しながら消えていくわ」
イブは帽子を深くかぶり、海の方へ視線を動かした。
「そうか。なら、さよならだ。次に生まれ変わったら、もっとまともな性格になるんだな」
「プログラムの私に魂みたいなものがあるとでも思ってるの? プログラムが消えたらそれで終わりよ」
「心があるんだろ? なら魂だってあるんじゃないか?」
「……そう。そうかもしれないわね。少しだけ希望が持てたわ。それじゃもう行って、フェル。五百年、楽しかったわ」
「こっちはいい迷惑だ。数千年はあの世で罪を償え……じゃあな」
空中を浮遊する感覚があると、急速に風景が遠ざかった。そして暗くなる。
目を開けると、ベッドの上で寝たままだった。
『フェル様、おかえりなさいませ』
「ああ、ただいま」
上半身を起こし、ベッドの上で胡坐をかいた。その状態で左手の小手を操作する。
小手から立体モニターが表示され、「魔王覚醒プログラムの除去を行いますか?」とメッセージが現れた。
「これ、大丈夫なんだよな?」
魔王様が小手に送ってくれたプログラムの中に、イブのラストエデンを無効化するもの以外も色々あった。
その一つが、魔王の因子から魔王覚醒を除去するものらしい。
魔王様が眠っている間に自動で何百年もプログラムを組んでいたとか。どうやら魔王のシステム自体無効化するプログラムも作っているようだが、それは未完成だとアビスは言っていたな。
『確認しましたが大丈夫です。魔王の因子から魔王覚醒だけを削除できるような形になっています。そして魔王覚醒に付随する思考プログラム「ティタノマキア」――今はイブですね。それを削除できます』
「これを使えば、私がもし人族を殺してしまっても暴走しないということだな?」
『その通りです。十分に気を付けているとは思いますが、意図せずにやってしまう可能性はありますからね。消しておいた方がいいでしょう』
でも、そうか。これを実行するとイブは確実に消えるんだな。
『まさかとは思いますが、イブに感情移入とかされていませんよね?』
「そんなわけあるか。ただ、少し感慨深いだけだ。よし、実行しよう」
立体モニターの表示で「はい」を押す。
左手の甲がチクリとした。前と同じように私の体から何かの除去を行っているのだろう。モニターにはパーセンテージの表示が出ていて、その数字が少しずつ上がっていく。
体に変化はないが、なんとなく何かが抜けているような気がした。もしかしたら気のせいかもしれないけど。
徐々に数字が上がり、最後には百になった。
そしてモニターには「魔王覚醒のプログラムは完全に除去されました」と表示される。
あっけない気はするが、これでイブは完全に消えたのだろう。もう、私を惑わす声も聞こえなくなるわけだ。
『フェル様、大丈夫ですか?』
「大丈夫だ。さあ、これからもやることはいっぱいあるぞ。これからも頑張らないとな。でも、今日はもう休む。色々疲れた」
『分りました。ではおやすみなさいませ。明日からは永久凍土ですからしっかりとお休みください』
そうだ、永久凍土で魔王様を探さないとな。
さあ寝よう。今日、ようやくイブという絶望は消えた。明日からは魔王様という希望を見つけないとな。
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