第十六章

プロローグ


 人生がそう悪くないものだと思えるようになったのはいつ頃からだろうか。


 窓から入る日差しをまぶしそうにしながら、老婆はそんなことを考えていた。


 ロッキングチェアに座り、ゆらゆらと前後に揺れながら、孫のためにマフラーを編む。得意というわけではない。むしろ下手な方だ。できたものを渡しても不評を買う事は分かっている。それでも何かしてあげたいと思い、不器用な手つきで懸命に編んでいた。


 すこし編み物を進めた後、自問していた内容を思い出し、ああ、そうだ、と答えに至る。


 それはおそらく子供が生まれた時だろう。愛する人と自分の子供、その子供が生まれたときに生きていて良かったと思い、そして感謝した。そして今ではその子にも子供が生まれ、孫がいる。


 孫はひいき目に見ても娘より自分に似ているのではないか、そんな風に思うと編み物をする手が早まった。それが失敗のもとであると分かってはいるが、自分の喜びを抑えることはなかなか難しい。


 ふと、編み物をしていた手を見つめる。しわだらけの手は随分と老け込んだと改めて思う事になった。


 人生の黄昏というにはまだ早い。老婆は六十歳にも満たないのだ。しかし、若い頃の無理がたたり、四十を過ぎたころから急激に老け込んだ。見た目だけなら七十歳を超えているだろう。


 だが、老婆はそれを苦としない。そんなことは老婆にとって大したことではないのだ。娘や孫と一緒に住んでいる。それだけで老婆は十分だった。


 編み物に悪戦苦闘していた老婆の耳に、部屋の扉が開く音が聞こえた。


 老婆がそちらを見ると、小さな女の子が部屋の扉の隙間からこちらを覗いているのが分かる。自分に似ていると断言できるかわいい孫だ。


「あらあら、どうしたの? おばあちゃんに何か用事?」


 老婆は孫に優しく問いかける。正直なところ、用事なんてなくてもよかった。孫と同じ部屋にいる、それだけで心が楽しくなってくる。普段、孫は母親にべったりだ。一人でこの部屋に来ることは珍しい。


 今日は娘婿が仕入れ先へ出かけているため、娘が店の準備をしているはずだ。さきほどからいい匂いがしているし、そろそろお店を開く時間なのかもしれない。忙しくなったから孫に祖母のところへ行くように言ったのだろう。老婆はそう結論付けた。


 老婆が孫の言葉を待っていると、少女は扉を開けて部屋に入って来た。そして上目づかいに老婆を見る。


「おばあちゃん、ご本読んで」


 孫からのお願い、それを断るわけがない。老婆は編み物をテーブルに置いて微笑むと、椅子から立ち上がった。


「もちろん読んであげるわ。どんなご本がいい?」


 老婆の気持ち的にはあらゆる本を読んであげる心づもりだ。たとえこの家になかったとしても人界中を探し出して手に入れて見せる、そんな気持ちでいた。


「おばあちゃんがいつも読んでるご本がいい。あれは面白そう」


「おばあちゃんが? ……ああ、あのご本ね。でも、あれは面白くないわよ?」


 あれは孫に読み聞かせるような本ではない。読んでいる本はただの日記なのだ。書かれている内容も自分以外には興味のないものだろう。そんな考えから別の本を提案しようとした。


「おばあちゃんはいつもあの本を読んで楽しそうにしている。そんな嘘は通用しない」


 孫から嘘つき呼ばわりされた老婆の衝撃は計り知れない。危うく片膝をついてしまうように体をぐらつかせたが、なんとか踏ん張った。そして自分の名誉のために言い訳をしなくてはいけないと老婆は心に決める。


「違うのよ、あれは日記なの。面白いものではないのよ?」


 その言葉に少女は首を横に振る。


「それでもいい。おばあちゃんが楽しそうにしているなら、きっと面白いはず。おばあちゃんと一緒に楽しみたい」


 老婆は何も言わずに少女を抱きしめた。


 日記を楽しそうに読んでいると聞いたのはかなり意外だった。読んでいるのは間違いないが、楽しそうだったとは自分でも初めて知ったのだ。


 そして孫はその楽しさを共有したいと思ってくれたのだろう。なんて可愛い孫なのだろう。目に入れても痛くないと言う比喩は、実は比喩ではないのでは、とそんな風に思った。


 孫の期待に応えなくて、なにがおばあちゃんだ。そんな思いを胸に、孫の頭を優しく撫でた。


「そう、分かったわ。なら読んであげるわね」


 老婆は本棚に近づく。そしてそこから一冊の本を取り出した。


 本にタイトルはない。装飾もなくシンプルなものだ。だが、新品のように綺麗で全く手つかずの本といっても差し支えなかった。


 老婆はその本を持ち、ロッキングチェアに座る。そして老婆の膝に少女が座った。


 老婆は思う。随分と重くなった。これが成長の証であると思うと、たまらなく愛おしくなる。


 その愛おしい孫が背中越しにこちらを見上げた。


「ねえ、おばあちゃん。このご本はどんな内容なの? 日記だって言ってたけど」


「そうね、どんな本と言われると……これはとある魔族の王、魔王の事が書かれている日記なの」


「魔王の事が書かれた日記? 誰が書いたの?」


「さあ、誰かしらね? それは日記を読んでいけば分かると思うわ」


「分かった。ネタバレは厳禁。しっかり聞かせてもらう。準備は整った。おばあちゃん、よろしくお願いします」


「はい、それじゃ読んであげるわね……そうそう、これは日記だけどタイトルがあるのよ」


「タイトル? 日記なのに?」


「そうよ。この本は――最初に書いてあるから、まずは読むわね」


 老婆はそう言いながら、本の表紙をめくった。そして最初のページに書かれている文字を指でなぞりながら読み始める。


『今日から日記を書くことにした。タイトルを付けるなら「魔王様観察日記」だ』


 少女は少し首を傾げたが、老婆に体を預けて聞く姿勢になった。


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