第6話 ざんげの塔

6 ざんげの塔




「ちょっとちゃんとついてきて欲しいのだけれど」


 坂の上でモヨコが振り返る。


 よたよたと後ろをついていく絢香はもたついている。


 額には汗も浮かんで息もすでに荒い。


「ぜぇぜぇ…」


 モヨコは自転車を止める。


「運動不足なんじゃないの?」


「るっさい!っていうかあれよ明らかに自転車のスペックちがうじゃない!」


 キィキィと錆付いた軋みを上げる絢香ののる自転車はボロボロのママチャリ。もちろん可変ギアなんて立派なものはなく上り坂はきつく下り坂ブレーキが超音波を発するようなシロモノだ。


 それに比べるとモヨコのはそんなにたくさんギアついても使いこなせるのかというような前に3つ後ろに5つつの合計15段変速。おかげでこの程度の坂道ならこぐのに苦労はしない。


「借りといて文句言うなんて親御さんはどんな教育してるのかしら。顔が見てみたいわね」


「顔なら今日うちで見たでしょ」


「嫌味を素で返されても困るわ」


「モヨコにはこうやってスルーして返した方がダメージ少ないのに気付いたからね!変にうろたえたり弱み見せたらすーぐ追い打ちかけてくるんだから」


「そうかしら?わたしは平穏主義よ。死体を足蹴にするなんてそんな非人道的な行為、お兄様が許すはずがないもの」


「何をおっしゃっているのやら…」


「煽るわね」


「どっちが」


 青い空には白い雲が浮き、路肩の防風林も緑色の葉を揺らしている。一見してみれば絶好のサイクリング日和でもある。


「っていうか本当にこっちであってるの?」


「どうして?」


「いやだって明らかに家がなくなってきてるし」


 最初のうちはちらほらと民家も見えていたのだがいつの間にかそれは殆ど消え、あたりにはビニールハウスや果樹園のような畑ばかりになっていっている。道路も片道一車線を示す白線が消えてしまってひび割れやでこぼこが増えていき、その裂け目からは雑草が顔をのぞかせていたりと荒れていっているのが一目で分かった。


「そりゃ坂下にあるのは分校だけだしこんな過疎った田舎のさらに過疎を集めたような飛び地だからしょうがないのじゃないのかしら」


「さらっとひどいこと言うねモヨコ」


「いやだって坂下遠すぎるって理由で中学上がるときは全員もれなく寮に入ってるのよ」


「え…?中学で寮とかなんか私立の厳しい学校とかでしかきいたことないんだけど」


「つまりあとは考えれば分かるでしょってことよ」


「まぁ…それにしても自販機ぐらいないのかしら…喉乾いた」


「自販機が成り立つほど」


「人が通らないってね、わかってるわよ」


 坂を登り切ると今までと比べれば平坦な道が広がっていて絢香はほっと胸をなでおろした。このまま上り道が続ければ女子力が疑われるぐらい汗まみれになってしまっていたのは想像に難くない。


 そして10分ほどさらに自転車を漕ぎ続けると民家が見えてきた。モヨコたちがすむ南上よりも更に古い、黒ずんだような木造建築。トタンの日除け。絢香からしてみれば廃墟や幽霊屋敷の類にしか見えないのだが本当に人が住んでいるのだろうか。


「なんていうか未開の地にたどり着いたというか近代都市日本にもまだこんなおとぎ話みたいな場所があるのね」


「…シティーガールアピールうざい」


「え、ちょ、なんでそんなに怒ってるのよ」


「ふん、都会に生まれただけで偉いとか思ってるんじゃないのよ」


「え、えー?」


 絢香としてはなんかすごい理不尽な目にあってるとしか思えないのだが、モヨコにしてみれば絢香に負けないように服装とか気を使ってみてもいろいろと都会生まれとの違いを感じさせられてちょっと気が沈むのだ。


「で、この家でいいの?」


「そのへんの電柱見てみてくれるかしら」


「?」


「いや、電柱にはだいたい住所とか番地が書いてあるでしょ」


「モヨコって変な知識いっぱいあるよね」


「井ノ口さんがなにも知らなすぎなだけなのよ」


 ということで二人で手近な電柱を確認。


「ん、さっきの電柱の下一桁が4で今のが5だからもうちょっと奥のほうに進んで行ったら正木家にたどり着けるみたいね」


「さっすがモヨコ!わたし達にできないことを」


「そういう調子のいい褒め言葉は別に必要じゃないわ」


「あ、はい」


 すっかりしょげてしまった絢香はそのままずんずんと進むモヨコのあとをひょこひょことついていく。


 そしてついにたどり着いた。隣には他の住宅はなくポツン佇むここはきっと正木邸に間違いないのだろう。ただその正木邸は廃墟でもあれば少しは雰囲気もあるし新築でもあれば周りの風景から浮き上がる不気味さを演出したのであろうが結局はこのあたりにある他の家と大差ない。同じく黒ずんだ木造建築である。


 とりあえず最終確認のために表札を探しておきたいのだが、そのためには庭に踏み込まなければならない。流石に知らない家に入るのは人見知りの気もあるモヨコはためらう。


「まぁひょっとしたらここがあのノートの正木とは全く関係ない可能性もあるけれど」


「今思ったんだけど、モヨコ、最初に電話かけて幽霊のことをなにかしっているかか確認すればよかったんじゃ?」


「……」


「あれ、モヨコ?」


「な、なによっそんな事思いつくんだったら自分でさっさと電話かけていればよかったじゃない!」


「えっと別に責めてるわけじゃないから落ち着いて」


「あったりまえじゃない!わたしは付き合ってあげてるんだからね!


 それに今思いついたわけじゃないけど変に警戒されてガチャ切りされる可能性だってあったからわざわざ直接出向いてるのよ!」


「いや、それは感謝してるよ、じゃあどうする?突撃してみる?」


 思ったよりも取り乱すモヨコになんとか話をそらそうとする。


「……井ノ口さんがいけば?」


「怒んないでよ。まぁわたしの問題だから行くけどさ」


 ただ気が抜けるようほど空が青く高くて、悪魔祈祷書を見つけたような不穏さがこの家には全く感じられなかった。


 本当に正解だったのかと不安がわいてくるが確認するしかない。


 このあたりの山側の斜面に面した畑はほとんどが砂利まみれの荒れ地と化している。そこで思い出した。2年前の大きな豪雨があったあの日、町中のほとんどが停電と道路に迫る勢いまで水位が上がった川に恐怖を覚えていた。そんな中で唯一土砂崩れが起きたのがこの坂下地区だったのだ。


 本来ならそれを教訓に斜面をコンクリートで固めたり、あるいは最低限の安全策としての土嚢を積み上げたりとあるべきなのだがいかんせん人口が少ないこの町ではすっかり土砂や流木の片付け以降の対策までは予算がないと言って事実上凍結していた。


 何しろこの坂下地区は坂下に住む人以外が道路を使うこともないのだ。もちろんこの道をずっと上がっていけば隣の市にたどり着きはするのだがここから先は狭い、携帯の電波も入らない、車一台通るのが精いっぱいといったぐねった道をそろそろと進む、というこんなところを通るのはもの好きは暇を持て余した若者ぐらいなのだから。


 番地通りにいけばここが正木邸で間違いない。ほかにもいくつか家はあったがそのどれもが引っ越してしまったのか住んでいた主が亡くなったのか、売り出しの看板があればましな方で割れたガラスのまま明らかに放置されている家が数件ある。


「ねーモヨコーここやっぱり正木さんちで間違いないみたい」


「わたしが道案内で間違えるわけないじゃない。生まれてからこの方ずっとこの町に住んでるのよ、△△町ガチ勢なんだから」


「ガチ勢って何よ…原住民でいいじゃん」


「原住民…?そこは地元民でいいでしょ、やっぱり都会の民ってナチュラルにマウント取ってくれるよね」


「それは言葉遣い悪かったわ、ごめんね」


 絢香はそして正木邸の玄関に目を向けた。


「ちょっと誰かいないか確認したいんだけどチャイムってどこに」


「こんな家にあるわけ無いでしょ普通に玄関開けて呼ぶのが田舎の常識じゃない」


「む…でも鍵が」


「かかってる可能性なんてほぼ0だから安心しなさい」


「えー」


 なんて言いながら引き戸に手をかけるがガタっとつんのめる。


「うそつき!鍵かかってるじゃない!」


「え、こんなところで鍵かけるのなんてよそからやってきた井ノ口さんの家ぐらいだと思ったのだけれど…」


 引き戸は立て付けが悪くなって力の入れ具合によっては開かないこともよくある。モヨコも手をかけてみるのだががたがた揺れるだけで開かない。


「マジね、鍵がかかっているわ」


 引き戸の隙間からも黒い靄は見えない。この家も空き家なのだろうか。


「けれど誰かが住んでいるとしたら壊すわけにもいかないしね…どうしたものかしら」


 モヨコは生活の痕跡を探してみるが車はない、洗濯物はない、となるとあとは電気は来ているかどうかなのだがそんなのは外見から判断できない。


「おーい!だれかーいませんかー!」


 頭をひねるモヨコをしり目に絢香はガンガンノックしている。


「そういう物おじしないところ、憧れるわ」


「モヨコも手伝ってよ」


「これだけ呼んでなんの反応もないなんて留守か、空き家なのかもしれないわね」


「ここまで来て…はぁ」


 二人で大きく肩を落としたと、同時に身を震わせる。ガタン、ガタガタ。


 ずっずるっ。


 家の中から何かを引きずるような音が聞こえてくる。


「ひっ」


 小さな悲鳴を上げる絢香、これにはさすがにモヨコも息をのんだ。


「誰か…いますか?」


 家の中からはやはり返事はなかった。代わりに何かが引きずられる音が相変わらず続いている。


 モヨコの手が握られた。振り返ると絢香は青い顔をして震えている。頭上に浮かんでいる呪いの塊も揺らいでいるように見えた。


 何度目かの問いかけにも返事はなくそのうち引きずる音も消えてしまった。


 お互いなにか言いだそうものの黙って手を握っているだけだったところでモヨコは決心した。


「井ノ口さん、裏から回りましょう。もしかしたら裏側だったら家の中の様子を窺えるかもしれないわ」


「…え、モヨコ本気で言ってるの?」


「これだけ怪しいのに怖い、って理由だけで帰るの?あなたの事件なのよ」


「…わかった、行く、行くよ!行けばいいんでしょっ!」


 半ば自棄になった絢香の手をモヨコは引いていく。


「とりあえずもう少し先まで行きましょうか、あそこの斜面ならそこまで苦労せずに上ることができそうだわ」


 ガードレールもない道のわきはそのまま山の斜面になっている。


「え…でもこの靴、テストで頑張ってやっとでパパに買ってもらえたお気に入りなのに」


「そんな靴でおしゃれさんぶるからこういう目に合うのよ。靴より命のほうが大事でしょ」


 対してモヨコの足元は学校指定の体育用の運動靴なのでそんなにためらいはない。自転車での移動となった時点で履き替えている、抜かりがない系女子なのだ。


「うえぇ、滑りそう…」


 二人はそのまま道路わきに自転車を停めると林の中に押し入る。靴が汚れるのを気にしてつま先立ちで進む絢香に対してモヨコは枯葉で滑らないようにしっかりと足を着いてずんずんと進む。


 木がまばらなおかげであまり服を汚さずに済みそうなのが唯一の救いだ。


 セミの鳴き声が山の中で反響している。


「ねーモヨコ、早いってば」


「わたしの肩に手を置くのはやめてくれる?重いのだけれど。大体そうやって靴を気にするからまともに歩けないんじゃない」


「ヤバそうになったらちゃんと足ついて歩くって」


「そうなったときはもうわたしも巻き添え喰らってるじゃないの…」


 まずは100メートル程奥に進む。さいわい正木邸はこの位置からも屋根が見えた。それに向かって歩きやすい道を選ぶと自然と遠回りになってしまう。二人は枯葉を踏みながら進む。歩いている間に絢香もだいぶ持ち直したようでだんだん口調がいつもの調子に戻ってくる。


 正木邸の裏側は斜面に面しているため、そこから二メートルほどの隙間を開けてでブロック塀が地面より少し高い、モヨコたちの胸の位置まで積み上げられている。土砂崩れなどを防ぐ役割でもあるのだろう。


 目の前にはちょうど2階の屋根が、下をのぞき込むと家と塀の間のスペースは物置代わりにされているのか古びたバケツやぼろぼろになったソファ、農作業に使うであろうポリタンクなどが枯葉にまみれて粗大ごみのように放置されている。あまざらしのせいかそのどれもが変色してしまっている。


 2階の窓はこの辺では台風対策でよく取り付けられている木製の覆いで完全にふさがれていた。


「下の方はカーテンもかかっていないみたいだけどこの角度じゃ中の様子まではっきりは見えないわね」


「それで素直に帰るっていう思う?こんな汗かいてお気に入りの靴まで汚してきたのに手がかりゼロは納得できないよ」


「どうするの?なにかアイデアでもあるってわけ?」


「ふふん、わたしたちにはこれがあるじゃない!近代科学が生んだ至高のマルチメディアツール、その名もー!すーまーほっ!!」


「わたしガラケーだし。それにしても井ノ口さんもだんだん愛さんに毒されてきてるわね。なかなかに近代科学だとか思考だとかいう言葉が知性を失う宣言だったと思うわ。


 で、それをどうするわけ」


「わたしはここ数日のモヨコの辛辣の加速がとどまることを知らない方が怖いよ。


 とりあえずあんまり触りたくないんだけど…」


 といいながら絢香はその辺の木に絡まったツタをほどいていく。


「き、切れない」


 ほどいたツタを引っ張ったり折り曲げたりしてみるもののうまくいかない。


「はぁ。なにやってるのよ、貸しなさい」


 モヨコは足で枯葉を散らすと適当な石を探し出す。つま先でほじくり返した石をもってツタを挟んでごりごりごり。表皮が剥げ中の繊維がほぐれやがて切れる。


「どうぞ」


 受け取る絢香はそれをスマホに結ぶ。が、それだと斜めに傾くし右へ左へ気ままにくるくると回りだす。


「うーん一本じゃ固定がやっぱり弱いかなぁ。モヨコ、もう一本お願いしていい?」


「やり方見てたでしょ。次は自分でやりなさい」


「ちぇー」


 絢香はモヨコの使って大使を受け取ると二本目のツタを切る。


「じゃじゃーん!どう?あとはこれを垂らして…」


「中の様子を撮影するってわけね」


「その通り!」


「ではどうぞ」


「え、なんか冷たくない?まぁやるけどさ」


 絢香はブロック塀まで近づき録画モードにしたスマホを結んだツタを垂らす。一本から二本に増やしたのは滑り落ちるのを防ぐ以外にもカメラをしっかり正面に向けることにも役に立つ。


 塀の下をのぞき込みながら左右の手それぞれでツタを握ってバランスを取りながらカニ歩きする絢香。


「それにしても後ろから見ているとめっちゃくちゃに間抜けで笑えるわ。お似合いの姿ね」


「モヨコ、あとでゲンコツするからね」


「…モヨゥ」


「かわい子ぶってもだめ!絶対やる!」


 そして撮影終了後ゲンコツはしっかりと実行された。しかもつむじのど真ん中、いな中(田舎の中学生)におなじみの通称ゲリツボにだ。


「あなた…よりによってゲリツボなんて…もしこれでお兄様の前でトイレに行くことになったらどうするのよ」


 頭をさすりながら非難の目を向けるモヨコ。


「別にトイレぐらい行けばいいじゃない」


「知らないの?本当にかわいい妹はトイレになんていったりしない。常識でしょ」


「じゃあ本当はかわいくなんてなかったんだね…かわいそかわいそ」


「な、かわいいわよ!かわいいに決まっている…かわいい、わたしはかわいい…かわいいとは何ぞや…知ったところでなんになる…カワイイメイクイマイデイ…?カワイイインマイブラッド…?」


「あーもうそんなので落ち込まないでよ。モヨコはちょっと暗く見えるけどクラスでもかわいい方だってわたしは思ってるよ。ま、一番かわいいのはわたしだけど」


「…本当に?」


「ウソついてどうするのよ」


「なるほど、わたしはクラスで二番目にかわいい…そしてお兄様の前では一番かわいい!なら何も問題ないわね」


「元気出た?」


 絢香は一言も二番目にかわいいなどとは言ってないのになかなかの自惚れだなぁとは思ったけどもう一度落ち込まれても困るのでスルーした。


「そもそも落ち込んでなどいないわ」


 黒髪ふぁさっ。


「あ、そう。それなら」


「ええ、なにが映っているか見てみましょう。それでここはもうハズレ、そうわかってしまえばいいのだけれど」


 二人はスマホの画面をのぞき込んだ。まずは白がくすんだ漆喰塗りの壁が見える。そのまま映像は少しずつスライドしていく。手振れ補正が効いているのか画面の揺れは少ない。


 木枠のガラス戸から室内が映し出され始めた。畳の部屋。年代物の大きな本棚が映っている。とても農家には似つかわしくない。背表紙だけでタイトルは判然としないが古い学術書のように思えるものがたくさん収められている。


 部屋の真ん中には布団が敷いてある。ちょうど足元から映し出されたそれはふくらみから誰かが寝ているのが見て取れる。また少しずつ画面は動いていき、そこには少年と見間違うほど髪が短く切られた少女が映っていた。同い年のように見える。いやもっと老け込んでいるのかもしれない。年齢を絞り込むことができない。


 落ち窪んだ眼窩、頬骨の形がわかるほどやせこけ顔色も土気色をしており髑髏を彷彿とさせる。


「ひっ」


 絢香はスマホを取り落とす。枯葉の上で映像は続く。


 こっちに向き直った。カメラに気づいている!濁った眼を見開き口を吊り上げ、大きく開くと黄ばんだ歯をカチカチと鳴らす。いや笑っている。ゲラゲラゲラゲラと声が聞こえたような気さえするが実際はセミの鳴き声だけが響いている。


 カメラのスライドに合わせて同じく骨の形が見えるほど痩せた腕を伸ばす。手のひらだけが映っている。


 枯れ枝のような指が次々に形を変えていく。初めに握りこぶし。次は9本の指を立たせる。数字だ。子供が年齢を示す時に見せるあれだ。


 最初は何かの数を数える、カウントダウンのようなものかと思ったが違う。両手を合わせていろいろと指の本数を変えていく。そしてまた部屋のわきに置かれた本棚が映り、漆喰の壁に戻った。


「なんなのよこれ…なんなの…?」


「本人に直接聞いてみる?」


「モヨコ、本気で言っているの!?」


「だって今回は初めての残された情報ではなくリアルタイムで与えられている情報よ。その映像の主は今そこで寝てるのだから」


「で、でも絶対あれはヤバい、ヤバいやつだよ」


「案外病気で寝てるだけの人のいたずらという可能性もあるわ。わたしたちはここで随分と大きな声を出していたのだから気づいたのかもしれない」


「それ本気で言ってるの?」


「そうであってほしいという希望よ。わたしだって」


 モヨコは言葉を続けなかったが手が震えているのに絢香は気づいた。


 何かと先立っていろいろと動いてくれていても同じ中学生なのだ。だからその先は聞かない。


「じゃあここから降りるってこと?」


「降りるのは簡単だわ。痛いのも汚れるのも気にしなければどうとでもなる。3メートルぐらいはありそうだけどあの汚いソファーに突っ込むとかすればね。問題は登れないことよ。退路も確保せず挑むのは馬鹿のやることだわ」


「じゃあどうするっていうの?」


「もう一度スマホで撮影するというのもあるかもしれないけれど堂々巡りになりそうね」


「あ、それなら画面に文字を打って見せるっていうのは?」


「あの距離で字が見えると思うならご自由に。それに向こう側はどうやってレスポンスをするってわけ?多分立って歩くのもままならないのは見て取れるわよね」


「じゃあやっぱり直接…?」


「そう、確実に結果を残すのは一次接触しかないわね。だからまずは安全に上り下りできる場所がないかもう少しこのあたりを調べる必要があるわ」


 塀に沿って歩いてみるものの正木邸はほぼコの字型で囲まれている。正面から回ればおばさんの索敵範囲。先ほどの態度を思い出せば二度目がただで済むわけがない。これが法的整備をされた現代社会でなければ文字通り取って食われてもおかしくない剣幕だったのだ。ましてや立ち寄るものもいないこんな場所ではもしかして、と恐怖をあおる。


 抜け道を探そうと再び塀に沿って歩いても都合よく斜めに崩れている場所などもあるはずがない。


「やっぱりあの塀を登る方法を考えるしかないか、どうする?うーん、ツタを垂らしてロープの代わりにする…とか?」


「正気の沙汰じゃないわ。支え切れるかどうかもわからないものを試す気なんてないわね」


 二人とも何となく道徳の授業で読んだ蜘蛛の糸のことを思い出していた。プチっと切れて堕ちていくアレだ。


「モヨコさっきから否定ばっかり!ダメな傾向だよ!そこまで言うならなんかアイデアちょうだいよ!!」


「うるさいわね。わたしだって今考えてるところだわ。階段状に動かせそうなものはないかとか」


「どっちかが下りてあのソファーの上に乗ればギリギリ引っ張り上げられないかな?」


「え…わたし力仕事なんて無理よ」


「おうち農家なのにそれはないでしょ。田舎って手伝いとかで基本的に体力ある」


 その言葉、最後まで言わせないよ、とモヨコはまくしたてる。


「偏見はやめてくださる?わたしは日に焼けたり手が荒れたりするようなことはしないわ。いつもいつでもお兄様に愛される妹でいたいからね。それにあなた、自分の体重がどれだけかわかっていってるの」


「どういう意味よ!デブじゃないし!平均だし!むしろちょっと軽いし!何なら呪われてちょっと体調崩してる分もっと軽くなったかも!モヨコこそどうなのよ!」


「わたしなんてあまりの軽さに天使の羽根でも生えているかのようとお兄様からの定評があるわ」


「いみわかんない!羽根がある分普通の人より重いってことじゃないの」


「な…!いっていいことと悪いことがあるわ!」


「それはこっちだって同じだっての!」


 しばし二人はにらみ合いを続け先に折れたのはモヨコだった。


「…この話はやめましょう。立場は違えどわたしたちはうら若き、乙女。体重なんて地雷を踏みぬく話に触れるべきではなかったわ」


「そ、そうね…登る方法を考えないといけないのに無駄な力を使ってちゃだめだよね」


「妥当なところでは準備をしてもう一度ってところだけど」


「正直もう一度あの寝てる人を見て正気でいられる自信がない」


「けれど引くわけにもいかないわ。ところで井ノ口さん、あなたには手を汚す覚悟はあるかしら」


「さっきツタ握って十分汚してるよ…」


「言語能力が低いわね。悪いことしても平気かって聞いているのよ」


「な、犯罪…それはさすがに…でも…」


「そんな重く考えることではないわ…とわたしは思うけれどシティーガールのあなたも同じ感覚になるか一応確認しておこうと思って」


「内容によるけどモヨコは何考えてるの?」


「道沿いに畑が広がっていたでしょう?あの中でも作業してないところから古いコンテナをいくつか頂いて足場の代わりにしようかと思って」


 ここでモヨコのさすコンテナは農作業用のプラスチック製の小さなものだ。大きさでいえば高さは30センチほどで横幅は50センチ程度。幼稚園児でも持てる軽い品物だ。


「でもよそのおうちのものなんだよね」


「畑に置きっぱなしの時点で古くなって捨ててるのかどうか区別もつかないような品物よ。そもそもちゃんと使っていればあんなに日焼けして色あせるなんてことほとんどないもの。だから困るってことにもならないと思うのだけれど」


「ほかに方法もなさそうだししょうがないか…」


 幸い林から道路に戻るとちょうど目の前の畑にはコンテナがいくつか放置されていた。モヨコと綾香はその中でも特に色あせた、ほんとはあんまり触りたくないような古いやつをピックアップする。理想としては4個もあれば十分なので二人で二つずつ持つと正木邸の裏に戻る。


「さてこれで退路は一応確保できたもののどっちが下りるか、だよね」


「わたしが下りるからいいわ。だからそのスマホの録画とか録音のやり方を教えなさい」


「え、モヨコいいの?」


「怖いわよ。でもあなたよりは平静を保とうとは思っているわ。それに多分、わたしの方が適任だと思う」


「え、ほんとうに?いいの?」


「しつこいわね、いいって言ってるじゃない。冥府魔道を一緒に歩くのが友人としての務めだといってるでしょう」


「ありがとう!もうわたしたちは一生の友達だよ!やったぁモヨコ好き!」


「抱きつかないで。わたしは身体を許すのはお兄様だけだと生まれた時から決めているの」


「だってうれしいし!」


「そんな外人的コミュニケーションハグなんてほんとうざったいだけだわ。現金なものね。厄介事代わってあげるだけで好きだとか」


「それがなくてもわたしはモヨコのこと好きだよ」


「…まったくうれしくないわ。最初に言ったはずよね。わたしに百合属性はないって」


「わたしもないよ。友達としてなんだからっ」


「ああそう、なら素直に受け止めておきましょう。代わってあげた甲斐があるってものだわ」


 ソファーに向かってコンテナを落とす。音らしい音を上げずにコンテナは転がって落ちる。


 絢香もそれに倣う。


 そしていよいよモヨコが下りる番だ。といっても勢いよく飛び降りるほどモヨコは運動神経も度胸もない。せめてジャージで来ればよかったという後悔を抱えながらとりあえず塀にぶら下がる。これでソファーとの距離は50cmよりちょっとあるかなぁという感じなのであとは手を放しても安心だろう。


 ソファーの色からびっちょびちょだったらどうしようという不安はあったが連日の晴れのおかげか靴底から伝わる感触は問題ない。


 先に上るための階段をコンテナを積み上げただけのものだが作る。一つはそのまま、残りの三つは向かい合わせにしたコンテナ二つの中に補強のためにもう一つのコンテナを入れたものだ。


 ちょうどソファーは背もたれが家側に向いているのがよかった。ソファーに乗せたコンテナを塀と背もたれで挟むことでぐらつきを回避。


 そのままだと乗るのが大変だから余ったひとつは踏み台にして、コンテナ→背もたれ→コンテナの簡易階段が出来上がった。乗ってみて塀の上に肩まで出ることを確認する。これなら絢香のお手伝いもあれば何とか登れるだろう。お洋服が汚れてしまうのは避けられないがそこは泣いて背に腹は代えられぬ。対抗してお兄様用のとっておきを着てこなくてよかったのが唯一の慰めだ。近所のおばさんからもらった服は犠牲になるのだ。


「じゃあ行ってくるわね」


「無理しないでね。本当はわたしが行くべきなのに、ごめん」


「謝罪も感謝も一度でいいわ」


 そして件の部屋をのぞき込んだ。モヨコが下りたのは絢香の精神にあまり負担をかけたくないというのもあったがこの前からちらついている、この呉モヨコにうってつけといわんばかりにお膳立てされた事件。ならば降りた時にいつもの黒い靄を捉えるこの視界にも何か映るはずだ。


 今までたくさんとは言わないけれど写真は雑誌なんかも合わせるといくらでも見たしテレビだって毎日見ている。だけど黒い靄はその中に一度も現れたことはない。


 それはカメラのレンズ越しには見ることはできないもの、とモヨコは確信している。


 この呉モヨコにうってつけの事件、ならばやはり直接見なければ新たな情報は得られないのだ。あのノートを見つけた時みたいに。が、今のところそこにあるのは映像に映っていた通りの畳敷きの部屋と本棚、そして敷かれた布団。


 寝ている人物も消えるようなことはなくちゃんとそこにいる。


 モヨコの予想と違って黒い靄は見えるところにはどこにもない。が、その代わりにその布団には白く、大人の腕ほどもありそうなものがぐるぐると巻き付いていた。それは白い蛇のようにも見えるが頭も尻尾も床下にめり込んでいて本当にそれが蛇を模しているのかもわからない。


 布団で寝ている少女を締め上げる、あるいは縛り付けているように見える。


 モヨコは身をかがめる。家の裏側だから立ってようが座ってようがあまり関係はないと思うのだけれどやましいことをしているという心持がどうしても身を隠す動きに出てしまう。


 それに寝ている人物と目線の位置を合わすという意味もある。


 降りた場所は足元側だったのでここからは顔が見えない。身をかがめたまま顔が見えるところへと移動する。


 髑髏のようにやせこけた少女はやはりモヨコに気づいていた。


 目と目が合っている。


 虚勢は平静を装うことで示す。きわめてクールに、きわめて不遜に。


 笑いだしそうな足の震えを止めるために膝の上には握った拳を重ねている。


「こんにちは」


 けれど口をついて出たのは場違いに間抜けな言葉だ。でも他に何といっていいのかもわからない。


 少女は応えずに布団の中から枯れ木のような腕を伸ばすと一点に向けて指を差した。


 それはたぶんこの引き戸の鍵のことを示している。


 くるくると指を回して横にひく動作。


 鍵はかかっていないから開けろということだろうか。


 戸に手をかけるとしばらく開けていなかったのかずりずりと引きずる感触が重い。


 モヨコの力では厳しいが開けられないというほどでもない。


「これはお招きしていただいているということで良いのかしら」


「その通り、吾輩が招き入れているのだ」


 明日も知れなさそうな身に見えて少女の喉から漏れる声は力強くまるで残りかすのような命を燃やしているかのようだ。


 そして芝居がかったような口調。まるで年配の男性のようなしゃべり方をする。


「どうした、上がってこないのかね?」


「ええ。あまり真っ当な方法でここにいるわけではないのでね」


「ふん、裏口から降りてくる時点でだいたいは察しておるよ。ただ吾輩もこうやって伏せているだけの身、時間を持て余しておるのだ。あわれと思うなら多少付き合ってくれてもよいのではないかね?」


「お話に付き合ってもらいたいのはこちらもそうだから問題ないわ。ただ上がるのは少し遠慮させていただいてよろしいかしら?」


「ふむ、ならば好きにしたまえ。客人に立ち話を強要するなど吾輩の流儀ではないのだがそういわれては仕方あるまい」


「失礼ついでに一つお願いがあるのだけれど聞いていただける?」


「吾輩にできることはこの通り少ないぞ」


「はいと答えてくれるだけでいいのよ。今からの会話、録音させていただきたくて」


「そんなものいちいち許可を取らずに黙ってやればよろしい。馬鹿正直に聞いてもし吾輩が断ったらどうするつもりなのかね?」


「その時はその時よ。諦めるしかないわ」


「ハッハッハいさぎのよいことだ。構わぬ。そのレコーダーとやらを起動して存分に録音してくれたまえ。ここでのやり取りが君たちに示唆を与えてくれることを吾輩も祈らせてもらおうとも」


 濁った眼はらんらんと輝きモヨコ、そして塀の上で不安そうにしている絢香に視線を向ける。


 屋根越しで絢香は見えないはずなのだが少女はまるでお見通しだ、と言わんばかりだ。


「ではそうさせていただくわ。まず最初にあなたの名前を教えていただきたいのだけれど」


 絢香にスタンバイしてもらっていた録音アプリをモヨコは起動させる。


「なるほど、吾輩の名を知りたいと!が、それにはまず自らの名を名乗るべきではないのかね?貴姉たちが客人になるか無礼な闖入者になるかもそこにかかっておると思うがね」


 モヨコは少し目を伏せた。正直に名乗るべきなのだろうか?少女の目はさらに血走りモヨコを見ている。。


 それはモヨコの目、口、鼻、指先、肩、胸すべてから感情を読み取ろうとしているように思えて、視線がぬめるように全身を這うように感じてくる。すでに自分は蜘蛛の巣にとらえられているのではないかという錯覚さえ感じる。


 そんな中で抗うことはより悪い結果を生み出すように思えた。


「呉、モヨコ。わたしの名はそういうわ。改めて伺わせていただきたいのだけれどあなたの名前は何というのかしら?」


「ほう、呉モヨコ。なるほどなるほど。さて、吾輩の名であったな。といってもわざわざこんなところまで出向いたのだ。もう吾輩の名に見当はついておるのではないのかね?」


「ここが正木邸であるならば、あなたの苗字は正木になる。わたしに分かるのはそれだけよ」


「ふむ、では吾輩が何ものかもわからずここに訪ねてきたというのかね?」


「そうね、あなたを探していたわけではないわ。わたしたちは見つけたノートの名前からここを訪ねてきたの。だからあなたがノートと何の関係もない正木さんなら素直に帰ることにするわ」


「そうか、吾輩の名を知らぬのか。吾輩の名は正木敬子という。


 次の質問だが貴姉たちが言うノートがまずは何かわからぬから答えようがない。ノートなどいくらでも書いておる。そのうちのいくらかが吾輩のあずかり知らぬところで誰かの目に触れたところで応えようがない」


「ノートなんて普通はすべて自分のところにあるものと思うのだけれど、どうして自分の知らないところに存在しているなんて思うのかしら?」


「吾輩は生涯をかけた研究その全てをノートに記していた。そしてそれはとある日すっからかんになっておったのだ。


 まぁ吾輩の研究を狙うものなど見当はついておるがね。とにかくそういうわけで吾輩のノートのほとんどすべてはどこかに持ち去られてしまったのだ」


「研究…?あなたはどこかの学生だったりするの?」


「研究するのに肩書なぞどうでもよろしい。知識を求めるのに理由も身分も必要なのかね?


 性欲、食欲、睡眠欲、吾輩はそれに並んで知識欲があっただけにすぎぬ。吾輩は吾輩の脳髄の渇きを癒すために研究が必要だっただけなのだ」


「研究の内容を教えていただくことはできる?」


「吾輩の研究はだれもかれもが理解できるようなものではない。というよりも実際誰も吾輩の研究などまともに相手にせぬ。皆が皆科学という迷信を疑わなくなったこの時代ではなおさらのことだ。


 もし吾輩のノートを貴姉たちが手に入れていたとしてもそれを見て理解しようとしないようであればここでの言葉も無駄だ」


「質問を変えましょう。悪魔祈祷書、この名前に聞き覚えは」


「フーン、貴姉たちはその表題をどこで知ったのかね?」


「もしあなたが無関係ならそうやすやすと教えるわけにはいかないわ」


「そうか、ならば吾輩が当てて見せてやろうか。それは今は空き家であろう、若林家から見つけたのではないかね?」


「…ッ」


 ごくりとつばを飲み込んだ。その様子に横たわったままの正木敬子は愉快そうに笑う。


「隠しているつもりならそれは大根が過ぎる。肯定のサインがそこかしこから漏れておるよ。なるほど吾輩のノートはやはりそこにあったか」


「一つ訂正があるのだけれど、もうあの家は空き家ではないわ。今はあの子が住んでいるのだもの」


「ホウ、塀の上のあの少女かね。よくもまああんな家に住む気になったものだ。見たところ舶来の少女と見えるがやはり彼らには日本古来の因縁怨霊といったものを微塵も信じていないのかね。


 近代科学の光というのは吾輩たちの歴史と慣習をかき消してしまうものだろうか」


「ああ見えてあの子は日本人よ。国籍も、生まれ育った歴史も」


「ハハハ、愉快なことを言う。日本人、日本人の魂は環境にのみ左右されるものではない。吾輩たちの身体に何千年と綿々と流れてきた血が一滴も無くしていったい何をもって日本人と定義しているのかね?


 ラベルを張り替えただけの偽物と全く同じではないか。鍍金ですらないひどい代物だ」


 モヨコは不快さを隠さずに眉を顰める。


「あなたとこの話を続けるのは無意味のようね。話を戻すわ。あなたはノートがやはりそこにあった、といったわ。つまりあのノートはあなたがあそこ…元若林さんの家に隠したということかしら?だったらその目的も教えていただきたいものね」


「フム、まず貴姉は吾輩があそこまで歩いて出かけることができると思うかね?吾輩が立ち上がっているところを想像してみたまえ。そして我が身と比べてみればよろしい。


 吾輩にとっては布団を動かすことですら山を押すかのような重労働なのだということも付け足しておこう。自ずと答えは導かれるであろう」


「あなたは自らの虚弱さをそうやって主張するし実際のところその顔色や体つきを見ればそれは嘘ではないと思えるわ。


 けれどそれと全く似つかわしくないほどにあなたの言葉は淀みなくつらつらと紡がれている。音だけで言えばだれもあなたが虚弱などと思わないでしょう。


 その矛盾が解消されない限りあなたのそれが演技だという可能性を検討するわ」


「ホウ!なるほどなるほど、つまり貴姉は吾輩を観察し、思考した結果吾輩のこの身を疑っておるというわけだ!


 観察と思考、それをないがしろにしない知性がある。大変スバラしい。


 観察も思考も研究、そして探偵には必要とされるものである。


 ただ残念なるかな、吾輩は本当にこの身を起こすこともままならぬのだ。賞賛の拍手を送ることもできぬ吾輩をゆるしてくれたまえ」


「ではあのノートはあなたが隠したものではないと?」


「その通りだとも!なぜ吾輩が若林の家に隠す必要がある?吾輩はむしろ若林から隠しておきたかったのだ」


「どういうこと?」


「決まっておろう、吾輩の研究を若林は狙っていたのだよ。凡百どもにとっては価値のない世迷言でも若林にとっては舶来の宝石よりも価値あるものであったのだから」


「その、若林っていうのはもしかして、愛さん?」


「そう、若林愛だ。魑魅魍魎の王といっても差し支えのない手練手管を駆使する異形の天才だよ」


「あなたと若林さんはいったいどういう」


「かつては教授と先生と呼び合うような間柄だった。彼女とはこの部屋でよく議論を交わしたものだ。懐かしい。吾輩の黄金期、振り返ってもその時間を超える経験はもう訪れないであろう。


 ゆえに吾輩はこのまま朽ちていくこと恐怖も後悔も感じないのだ。吾輩は彼女に憧れ、尊敬し、妬み、恨み、そして自らの矮小さを知らしめられたのだ。


 吾輩はただただ面白おかしく研究を続けられていられれば良かったのだ。机上で理屈をこねくり回す自慰に浸っていられれば充分だったのに若林愛の示す実証主義を初めて見せられた時吾輩はついその誘いに乗ってしまった。


 その時はそれがコンナにオソロシイことになるとは思ってはいなかった。全く持って吾輩は軽率だったのだ。


 それでも若林愛が次々と示す悪魔的誘惑には逆らい難くついに戻るための梯子は外されていた。


 気が付けば吾輩は平凡へと戻るには失敗を重ねすぎていた。アハハ自らの自惚れが招いた結果だ。


 …そこで初めて吾輩は怯えたのだ。若林愛に。


 そんな彼女も死んでしまったがね」


 正木敬子の目はモヨコから離れていた。過去の記憶に若林愛の姿を浮かべているのだろうか。


 モヨコたちの前に姿を現している『若林愛』と彼女が語る『若林愛』の姿はとても重なるようには思えなかった。


「ところでモヨコ君、貴姉は科学を志す者かね?」


「そういう風に見えるかしら?」


「ならば探偵を志す者かね?」


「探偵と呼ばれたことはあるわ。でもわたしはそれでもない。友達を助けたいだけの女子中学生よ」


「ただの女子中学生か、随分と頑張るものだな。そうか、ならば頑張りたまえ」


「そんな言葉よりも役に立ちそうなことを全部教えてくれた方が嬉しいわ。例えばあの悪魔祈祷書、その一ページ目の絵のこととか。あなたは何か知っているのでしょう」


「吾輩の研究はあのノートに詰まっておる。それを理解できなければここで吾輩が何を言っても意味はない。それとも貴姉は吾輩の言葉全て信じているのかね?貴姉はどうやら思考だけですべてを導けるような探偵ではないようだ。


 では足で稼ぎたまえ。なに、あのノートにも、そして吾輩自身も情報は与えている。


 この実験は吾輩たちの悲願であり、そして吾輩たちの自惚れでもあるのだ」




 絢香の手を借りて塀に上る。ひどく憔悴していた。


 正木敬子とかわす言葉の一つ一つがモヨコの脳髄に絡まって食らいつくそうとしているかのようだった。。


「どうやら愛さんとノートが無関係、ということはないみたいね」


 絢香は渡されたスマホを受け取ると先ほどのモヨコと正木敬子の会話を再生した。


「先に一応聞いておくけど…怖い話?」


「心配するような内容はないわ。なんだか思わせぶりなことばっかり言っていたけれどここで得られた情報なんて一つよ。


 愛さんは悪魔祈祷書について知らないふりをしている可能性が高い」


 モヨコの懸念が当たっていると知って絢香は口をつぐんだ。


 単純になんとか犯人を探せばいい、と思っていたのだが幽霊に実際別の目的があったとしたらどうだろうか。


 もちろん犯人探しが容易だとは言っていない。ただ目的がはぐらかされてしまったような。しらみつぶしにゴールを探していたのが今までだとするなら今はゴールがあるのかすらわからなくなってしまった。


 音声がすべて終わってしまうとモヨコはお聴きの通りよ、とため息をついて携帯を取り出した。


「…4時にそろそろなりそうだから帰りましょうか」


「え、もうそんな時間?」


「なんだかんだでここに来るまで時間かかったしね。今日の調査はこのあたりが限界なんじゃないかしら。とりあえずこの悪魔祈祷書について調べるのが今のところ最も正解に近いのかもしれないわね」


「む…それはそうだけど…」


 なんだかんだで中学生である二人にとって一日の時間を目一杯使う、なんてことができない。日が沈む前には家に帰らないといけないというのがこの辺りでの中学生にとっては暗黙のルールなのだ。


 18時のエーデルワイスが流れるころを夕ご飯の時間にしてる家も多い。この辺りは時報なのか朝6時、12時、17時、18時にはそれぞれメロディーやサイレンが鳴り響くのである。


 思ったような成果につながらず絢香はしょんぼりと肩を落として自転車を漕いだ。それを横目に見ているモヨコはいたたまれなさに顔をそむける。


 家に近づく頃には夕暮れが山の端を赤く染めている。モヨコの家の前で自転車を止めてありがとうという絢香はとぼとぼと家路をたどる。


 その背中を見送りながらモヨコも果たして今自分たちは解決に近づいているのか、それともいたづらに風呂敷を広げすぎてしまっているのか区別がつかない。


 とりあえず次は一体なにを頼りに捜査を調べてみたらいいものか、悪魔祈祷書しか思いつかない。あの時はサラリと眺めただけのノートではあったのだが色々と謎が散りばめられたというか思わせぶりなノートにそれなりの意味を見つけ出すしかないのだ。


 それはまるで正木敬子からの挑戦状だった。彼女は凡百が理解できない世迷言、というものの理解者をなんだかんだで欲しがっていたのであろう。


 いくら口ぶりでは興味がないように装っていても己の研究理論を理解してもらい、世に知らしめたい、いうなれば名声を求める気持ちは誰にでもある。そうでもなければ若林愛に研究を教えることもなかったはずだ。


 正木敬子の研究が何かわかればこの描かれた球体そのものが一体何なのかにつながるだろう。そうれば多少事態は好転する。そうでなくともともかく先には進むはずなのだが。


 モヨコの頭の中には幽霊を殺した犯人を探す、ということはもう完全に外に追いやられていた。


 警察にすら見つけられないものを女子中学生がどうやって見つけられるというのだ。だとすれば多少幽霊に対して不憫ではあるけれど直接呪いを解いてしまったほうがよっぽどいい。幸いにしてヒントは与えられている、はずなのだから。


 モヨコが部屋に戻ると机の上には悪魔祈祷書が置かれている。


「…井ノ口さん、押し付けていったわね」


 机に座ってノートを眺めていても結局昼間以上のことはわからない。書き連ねられた文字の羅列から意味を見出すための法則なんて見出すこともできないし。


 結局ノートを手にとったままゴロン、とベッドに仰向けになる。

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絶対探偵 呉 モヨコ @zeroitikinngu

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