第14話 ハープの音色

 前庭とは対照的に、中庭の草木はよく手入れが行き届いている。中庭の中央には、色とりどりの草花に囲まれる噴水。その周りに設けられたベンチに、彼女は座っていた。

 煌々こうこうと輝く満月が、彼女の姿をぼんやりと青白く照らしている。かくも幻想的なその光景に、私は静かに息を呑んだ。

 彼女の近くまで歩いて、その演奏にただ耳を傾ける。演奏に夢中になる彼女は目を閉じていて、私が近くにいることには気づいていないかもしれない。

 ——彼女が今演奏しているのは、私が昼間に聴かせてもらったのと同じ曲だ。

 そして近づいたことで、もう一つ気づいたことがあった。

 彼女の左手。その小指にだけ、付け爪がなされていないのだ。昼間に聴かせてもらったときは、全ての指に付け爪をしていたのを覚えている。

 そもそもハープを付け爪をして演奏するというのが珍しいので、あっても無くてもさほど演奏自体に影響は無いと思うのだが——、単純に付け忘れたのだろうか?

 ほんの少しの違和感に首を傾げていると、不意に耳元で、後ろから小さく声がかかった。


「素敵な演奏だね」

「ひゃっ……!」


 驚きつつもなんとかボリュームを抑えて叫び声を上げるという自分でもなかなかに器用だと思う芸当を披露しつつ振り返ると、そこには声の主であるグーダルク辺境伯がいた。ほとんど顔と顔が触れ合うほどの距離だ。

 私は条件反射的に一歩飛びのいて、国の英雄をめつける。


「おっと失礼。驚かせてしまったかな?」

「……近づきすぎですよ」


 先は耳元での囁きによって情けなくも嬌声きょうせいを上げてしまったが、今はこれだけの距離まで接近を許してしまったことに対して純粋に驚きを感じていた。


(まったく気づかなかった……)


 厳しい訓練を積んで、不意打ちを避けるために気配を察知するすべも身体に叩き込んだつもりだったが——、まだまだ甘いらしい。

 もちろん私だって大抵の相手には負けるつもりはないが、この世界には私を凌ぐ強者などごまんといるだろう。

 そして目の前にいるこの飄々ひょうひょうとした態度の美丈夫もまた間違いなく、そんな強者の一人だ。なにせ彼は、この国の英雄なのだから。


「いや失敬しっけい。きみのようにいつでも冷静で美しい女性の嬌声を、どうしても聴きたくなってしまってね?」

「シンプルに最低だ……」


 もはやなんの言い訳にもなっていない。それに——


「というか、貴方は最初、私のことを男だと思っていましたよね? それが今になって『美しい女性』だなんて、都合がよすぎませんかね」

「ん……? なんのことだい?」

「いやいや、私は覚えていますよ。貴方は先ほど、この宿に泊まる女性を『二人』と仰った。ですがこの宿泊まる女性は、女給のアイラさんを除いたとしても、セニスさん、イレーナさん、そして私の三人です。私はよく男性と間違えられますからね。貴方も最初は、私のことを男だと勘違いされていたのでしょう?」


 しらばっくれられて、私は思わず語調を荒くしてしまう。——なんだかこれまで受けた男扱いの鬱憤まで辺境伯にぶつけてしまっている感じもするが、もはやそんなことはどうだっていい。

 だが辺境伯は、「おや……」と少し考えるそぶりを見せて、「ああ、なるほど!」と一人勝手に得心したように頷いた。


「君はいつでも冷静沈着で優秀な人物だと聞いていたし、今もその認識に間違いはないと思っているが——、一つ欠点を付け加えるとすれば、どうやら君は、自分自身が絡むこととなると少々判断能力がにぶってしまうらしい」

「……どういうことですか?」

「うぅむ、悩ましいな……。現時点で私の口から言えるのは、今日この宿に泊まる女性は、女給のアイラくんを除いても、間違いなく『二人』だということ。そして、私は最初から、その二人に君のことを含めていたということだけだ。これ以上は、今日この宿に泊まる誰かの極めて個人的な情報に関わることだからね。言及は控えさせてもらうよ」


 辺境伯が言ったことは、私の認識とは明確に乖離していた。


(今日この宿に泊まる女性は、アイラさんを除いても、私を含めて二人……)


 だが、やはり私の見立てではどう考えても一人足りないのだ。

 つまり、こういうことになる。私の見立てが間違っていて、イレーナさんか、セニスさん。このどちらかは、女性ではない。

 ——いや、可能性だけで言えば両方女性ではなく、タグくんかグーダルク卿自身が実は女性であるという可能性だって……とここまで考えて、いや、流石にそれはないなと首を振る。

 グーダルク辺境伯が自身のことを含めて「二人」というのはどう考えてもおかしいし、そうでないなら仮にタグくんが女性だった場合、私は都合3名もの性別を見誤っているということになる。

 私の目がどれだけ節穴だったとしても、絶対にそれだけは無いと断言できる。考えうる可能性の検討は大切だが、かといって明らかに見当違いな可能性まで考慮していてはきりがない。論理的思考にも、ある程度の感覚的取捨選択は必要だろう。

 ——それに、だ。


「そうですね。私も、今はそれ以上は知る必要はありません。私の勘違いだったのであれば、申し訳ありませんでした」


 小さく頭を下げると、辺境伯は「いやいや、いいんだよ」と満足そうに笑った。

 考えすぎるのは探偵となった私に根付いた悪い癖だが、イレーナさんとセニスさんのどちらかが女性ではなかったとしても、そのことを突き止めることには、少なくとも現時点では私の知識欲を満たす以外の意味合いは無い。

 秘密は、あばかれたくないから秘密にされているのだ。だったら、暴く必要のない秘密は、暴くべき時が来るまでは秘密のままにしておいた方がいい。



 と、そんなことを考えていたところで、イレーナさんの演奏が終わった。

 辺境伯と話しつつも耳に届いていた彼女の演奏は、やはり私の心を揺さぶるものだった。

 私はイレーナさんに向かって、惜しみない拍手を送った。隣では、辺境伯もゆったりと手を叩いている。

 ゆっくりと目を開けたイレーナさんは、私たち二人のことを認め、目を丸くした。

 多少離れているし会話のボリュームも意識的に控えていたとはいえ、どうやら本当に気づいていなかったらしい。


「いやあ、素晴らしい演奏だった。どうかな? 声を取り戻した暁には、是非我が屋敷で専属の吟遊詩人になるというのは」


 辺境伯が問うと、イレーナさんは恐れ多いと言わんばかりに首をぶんぶんと振った。私はにやりと片方の口の端を上げて隣を見やる。


「おっと、二度もふられましたね?」

「おいおい、アイラくんのことを言っているのなら、あれはグラムル氏が拒否しただけでアイラくんにふられたわけではないぞ?」

「いえいえ、この地の領主でありこの国の英雄でもあるグーダルク様にグラムル氏が本当に逆らえるはずがありませんし、あの場でアイラさんが首を縦に振れば、アイラさんはグーダルク様のもとへと行くことができたはず。そうしなかったということは、アイラさんはグーダルク様ではなくグラムル氏を選んだということでしょう」

「いや、確かにそうではあるが……君はなかなかに意地悪だな?」

「おや、失礼しました。グーダルク様がいち宿泊客としての扱いを求められておいでだったもので、つい」

「ぐぬぬ……!」


 先ほどのからかいの意趣返しだ。英雄の心底悔しそうな表情を見て、イレーナさんは可笑しそうに、決して声が漏れることの無い口をおさえていた。

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