第15話 氷の花
イレーナさんは夜の演奏に満足したのか先に部屋へと戻ったが、私と辺境伯は中庭に残っていた。
「まだ寝られないんですか?」
尋ねると、辺境伯はゆっくりと歩きつつ言った。
「ああ、そろそろ寝るよ。というか、そのためにここに来たと言った方が正しいかな?」
「それは……」
どういうことだろう? という私の疑問は、すぐに解消される。
「ああ、やはり今も咲いていたか」
彼は噴水の側面で歩みを止めて、その周辺に生えていた花を一輪摘んだ。
「——なるほど。氷のヘリオトロープですね」
立ち上がって、こちらへと戻ってくる。
「私は昔から、どうも寝つきが悪くてね。だが、この花の香りに包まれながらであれば、ぐっすりと眠ることができるんだ」
氷のヘリオトロープはその美しさから観賞用としての価値を大きく持つが、それとは別に、薬学的価値を持ちあわせてもいる。
「この花を加熱することによって発生する甘い香りには、深い誘眠効果があるのでしたよね?」
そのままでは効果が強すぎるため、十分な水に溶かして薄めて加熱するのが一般的だ。——といっても、氷のヘリオトロープは雪国にしか咲かず、かつ育成が極めて難しいため、市井の民がお目にかかることはまずない。あくまで上流階級にのみよく知られた効能だ。
「その通り。流石に、王女の側付きをしているだけのことはある」
「王女が、花を好むので」
「それはいいことを聞いた。次に王都に参上する際には、是非とも花束を持参しよう」
「一応忠告しておきますが、あの方に手をだすのははやめておいた方がいいと思いますよ?」
「手を出すだなんてとんでもない。女性は皆、愛でるためにあるのだからね」
思わず
そしてその女好きは、決して愛でるだけのものではなく、夜な夜な美女を自室に連れ込んでは寵愛を施すという、極めて肉欲的なものであることも。
どのような行為に及べばそうなるのかは甚だ疑問ではあるが、彼と夜を共にした女性は漏れなく、身体のどこかしらから血を流している代わりに、彼の虜になるのだという。
「まあ、あなたが王都に来ることなど、ありはしないとは思いますが……」
「おや。それはどうかな? 王女の美しさはわが領地にも轟いているからね。一目見たいとは思っているよ?」
にこやかな笑みを絶やさない辺境伯。だが、彼が王都を訪れることはきっとありはしないだろう。
なにせ彼は、先々代のそのまた先代の国王の時代に辺境伯となって以来二百年もの間、一度も王都を訪れたことが無いとされているのだから。
辺境伯は最後まで不敵な笑みを崩すことなく、中庭を去っていった。
私は彼の去り際、一つ質問をしていた。それは、ハープを引く際に付け爪をする文化について。
彼は『そう言った文化があるかどうかは分からないが、吟遊詩人を多く
ベンチに座って中庭を照らす満月を見上げながら、ぼんやりと思考の海に潜る。
イレーナさんのしていた付け爪は確かに、
私のぼんやりとした推測は、徐々に輪郭を獲得して実像を結んでいく。
中庭を去る前。イレーナさんが教えてくれた、あの曲の名前。「双子のための追想曲」。即興にしては弾き慣れているように感じていたあの曲はやはり既存曲で、本来二人以上で演奏する曲だったらしい。しかし彼女は今、それを一人で演奏している。
——だが、彼女の中ではきっと、そうではないのだ。
彼女がハープを、わざわざ付け爪をして演奏する理由。それはきっと、今は無き双子の弟と一緒に、あの曲を演奏するためだったのだろう。
自室へと戻る途中。廊下の突き当たりに、ぼんやりとした灯りが浮かび上がった。
その灯りはこちらへと曲がると、少しずつ近づいてくる。思わず太ももに手をかけるが、そこに短剣は無い。
とはいえ、今この時間に屋敷を見回っている人物など、彼女以外にいないだろう。
灯りが目の前までたどり着いて、ようやく灯りの主の顔が視認できた。予想通り、使用人のアイラだ。
彼女の持つ手燭は変わった形をしていて、蝋燭の周りが包み紙で覆われていて、その中では何かが火に
「眠れませんか?」
「いえ、少し中庭で考え事を。アイラさんは、就寝前の見回りですか?」
「ええ……まあ」
何故だか歯切れが悪い。最後にはうつむいてしまった。流石に眠いのだろうか? そういえば私も、いつの間にか眠気を覚え始めている。
挨拶を済ませて部屋に入ろうと口を開こうとしたところで、アイラが「いいえ、本当は——」と顔を上げた。
だが、次の瞬間。アイラは「うっ」と呻くと、胸元を強く抑えつけた。その拍子に、手燭を覆う包み紙が落ちる。
途端に、甘い香りが周囲に漂った。
「えっ——」
目に映ったのは、手燭の上で蝋燭の火に焙られるように固定された氷のヘリオトロープ。
突然にやってきた眠気は、紙袋からわずかに漏れる香りのせいだったのだ。
気が付けば私は、床に倒れていた。もう、思考もままならない。
(誘眠効果を持つ……氷のヘリオトロープ。水で薄めなかった場合の効能は……到底逆らうことなどできないほどの眠気——)
薄れゆく意識の中。最後に耳に届いたのは、「ごめんなさい」というアイラの悲し気な声だった。
***
暗闇に鎖で繋がれた自分を、
この時点で、私は夢を見ているのだと分かった。鎖で繋がれていたのは、幼い頃の私だったから。
その正面には王女がいて、見とれるほど美しい微笑みと共に言った。
「あなたには、私の探偵になって欲しいのよ」
その言葉が、蝋燭の火が
私と王女が出会った、あの日の記憶。だけどどうして、今更こんな夢を?
……まあ、どうだっていい。今はもう少し、このまま寝ていたい気分だ。
そういえば私はこの時、なんと答えたのだっただろうか。
幼い私は、恐るおそる口を開いた。
「タンテイって、なんですか……?」
そうだ。私はあの時、初めて聞くその言葉の意味を理解できなかった。
尋ねる私に、王女は逆に質問をした。
「この世界には、理不尽なことが多すぎると思わない?」
それでいて彼女は、私の返答は待たない。答えなんて、分かりきっているから。
「きっと、挙げだせばきりがないでしょう。ただ私はその中でも、奴隷制、亜人差別、そして冤罪。この三つが、この国に蔓延る理不尽の最たる例だと考えているの。
……この国は今、大きく変わろうとしている。私が、変えてみせる。亜人差別の根絶、奴隷制復活の阻止、そして冤罪率の低下……。私はこれらを、全て成し遂げるつもりよ。そしてそのためには——」
一度言葉を切って、彼女は檻の中に手を入れる。そして、幼い私の手を強く握った。
「あなたの眼に宿る
「私の……?」
この時私は、妹の言葉を思い出していた。
『お姉ちゃんには、その眼がある』『私やお母さんみたいな人を、助けてあげて』
母は亜人に属する特異体質である〈吸血鬼〉だった。
王都に近づけば近づくほど亜人への差別意識は強くなってゆき、だからこそ母は、私たち姉妹が物心つく前に王都を離れることとなった。
しかし結局母は、冤罪によって。そして亜人として、理不尽に殺された。
妹もそうだ。彼女が殺されていいはずなどなかった。妹の言い分は、全て正しかったのだから。
「『探偵』は、今後この国における犯罪捜査の要となるはずの官職の名前よ。そしてその第一号として、私はあなたを指名したい。そうすればきっと、あなたの目的も果たせるはずだから」
私の、目的……。そうだ。この時、私は王女に、全てを捧げることを誓った。
王女の掲げる絵空事とも言える理想を叶えるために。そして何より、妹との約束を果たすために。
(だけど……)
そこに疑問を覚えた瞬間、世界は途端に輪郭を失って、曖昧になっていく。
王女の探偵として王女に従い続ければ本当に、私の目的を果たすことができるのだろうか?
王女にとって最良の選択が常に、私にとって最良の選択だと言えるのだろうか?
覚醒の間際。私はこれまで無意識に心の底にしまってきた疑念を、ほんの少しだけ自覚した。
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