シャノワール

シデーノ

始まりの物語

 村はずれの大きな木。その下に座って、ボクは思いっきり伸びをした。

蒸し暑い空気が肌に貼り付き、ちょっと気持ち悪い。

 どこまでも焼き付くそうとする太陽を、巨大な木は防いでくれる。この町で一番大きな木の根本は本当に便りがいがあった。

 ボクの視界を覆う緑の葉っぱに、手を伸ばしてみた。もちろん、届くはずなんてないけど。

「さーてっ」

 ボクは土を払いながら、立ち上がった。ズボンについた土を払う。

 手のひらを上に向け、ボクは小さくつぶやいた。

「アクア」

 その声を合図に、ボクの手のひらに水が染み出てきた。いくつもの水の塊になり、それがつながってもっと大きな水の球になる。

 手のひらで転がすと、水の球がぽよぽよと転がる。透明な水の向こうから、どこまでも広がる草原が逆さに映り込んでいた。

「ケビン、練習してるのか」

 声がして、ボクは振り返った。同じくらいの年ごろの少年だ。汗だくで、カールした黒髪が額にベッタリとついている。

 見知った顔に、思わず顔がほころんだ。

「ヴィンセントか」

「ほんと、どうしたらそんなことができるんだ?」

 笑みを浮かべたまま、ボクの横にドンと座り込んだ。

「イメージするんだよ。そうすれば、きっちりと形になるんだ」

「ケビンすごいなー。俺には無理だ。そういうの」

それから、彼は肩からかけていた鞄から、白いキャンパスと金属の箱を取り出した。

 ヴィンセントは、宝物を開けるように箱のカギを外す。横目に覗き込めば、七色の色鉛筆か入っていた。どれも使い古されて、みじかくなっていた。

「絵、書くの好きなんだね」

「もちろん」

 ヴィンセントはおもむろに、緑色を取り出すと、キャンバスに描き始めた。目の前には、風で波打つ草原が広がるだけ。ボクだったら、多分緑一色になってしまうだろう。

ヴィンセントは濃い緑や茶色を混ぜながら、何でもない景色を色鮮やかに描いていく。

 ボクは、彼が絵を描く工程をじっと眺めていた。何でもない白に、本物そっくりな、いやそれ以上に鮮やかな景色が描かれるのは、まるで魔法のようだった。

 ボクの使う魔法みたいな、魔法のようなことだ。

 ヴィンセントはご機嫌のようで、ついには鼻歌なんて歌い始めている。

 やっぱり、彼はすごい。

 ボクは、手のひらの水の球に息を吹きかけた。さざ波を立てながら、水の球が細かく分裂していく。

水滴は日光を受け、キラキラと小さな虹を生み出した。

「ヴィンセントはおうち帰らなくていいの? 領主様の跡取り息子だろ?」

「へーき、へーき」

 ボクの方なんて見向きもせず、彼はそう答えた。

 ただ黙々と、白いキャンバスに色を付けていく。

「ヴィンセント」

 こう声をかけると、ヴィンセントは「んー?」と声を出す。

 たぶん、聞いちゃいない。それが、逆にありがたい。少しズルいと思いながら、ボクは続けた。

「春から、首都の魔導学園に通うことになった」

「へー」

ヴィンセントは空に色を塗り始めた。青色を覆うような、灰色の雲が描かれる。

「だからね」

彼がまじめに聞いていないうちに、ことを終わらせよう。

「この町を出るよ」

 その瞬間、ヴィンセントの手が、止まった。 

「え?」

 彼の額には、ハの字の眉毛が刻まれていた。

 戸惑いを浮かべ、まっすぐにボクを見つめていた。むしろ、ちゃんと聞いていたことに、ボクは困ってしまった。

「だから、首都の学校に」

「なんで?」

「なんでって、勉強がしたいからで―――」

「じゃなくて」

 ヴィンセントが色鉛筆の箱を閉じた。そして、ボクの方をしっかりと向いた。ハの字眉毛だが、眉間にはしわが寄っている。

怒っているようだ。

両膝に置いた手が、ギュッとズボンの裾を掴む。ヴィンセントは、ボクをにらみつけて口を開いた。

「なんで、もっと早くに相談しなかったんだ?」

「だって、ヴィンセント付いてきそうだったから……」

「もちろん、ついてく気だ。いけないか?」

「いいよ、そういうの!!」

 もちろん、ヴィンセントは聞く耳を持たない。グッと顔をボクに近づけてきた。いつもなら顔を反らしてしまうが、今日はじっとヴィンセントを睨み付けた。

 ヴィンセントも、じっとボクを見返してきた。

 そのまま、数秒。どちらもしゃべらなかった。わずかにも顔をそらさず、ただただ睨み合っていた。

「ふーん」

どれくらいか。ヴィンセントがやっと口を開いた。

「本気なんだー」

 ヴィンセントは、ニッと笑って、顔を引っ込めた。

「冗談だと思ってたの!!」

 ボクは声を荒らげた。

「あぁ。また、一人で意地張って、『ボクは凄いんだ!』的なこ見栄を張ってるのかと思ったんだ」

 ボクは笑みを顔に張り付けた。

 君が今バカにしたことは、ボクにとってとっても重要なこと。でも、君には絶対にわかるわけないよね。

 ボクが今まで、どんな気持ちで君と一緒にいたか。どんな気持ちで、君の横に立っていたのか。

「なんでもお見通しなんだね。天才さま」

 『本当の』天才さまに、この苦労がわかるわけない。

 ヴィンセントはそんなことお構いなしに、空を見上げる。

 いつしか、絵の中の青い空はなく、灰色の雲が覆い隠す空になっていた。

「雨、降るかもね」

「かもね」

 ヴィンセントは、急いで鞄の中にキャンバスと色鉛筆を突っ込んだ。

「絵が濡れると困るから、俺帰るな」

 ボクは静かにうなづいた。

 去っていくその背中に、何もできずに、ただ見送った。

 今にも、雨が降りだしそうだった。



 ボクの部屋は、荷物なんてほとんどない。荷物は、学校に送ってしまった。だから、あとはボク自身が出ていくだけだった。白い壁に白い天井、板張りの床。何年も過ごしたはずの部屋が、今日は妙によそよそしかった。

「しっかりと、勉強してくるんだ」

 突然の声がして、ボクは振り返った。

 灰色のスーツに身を包んだ男の人だ。

「父上」

 ボクのお父さん。あまり、会いたくなかった。

「自分で言い出したことだ。立派な成果を残して帰ってくるんだ」

 お父さんは、何もない部屋に入ると、ボクの横を通過した。

 何もない部屋だが、何か見えるかのように、辺りをジロジロと見渡している。それが、奇妙で、不気味だった。

 まるで、ボクはここの場にいないかのようだ。

 そんなところをみないで、ボクを見てよ。

「お前はシュノンソー家の者だ。たとえ『次男』だとしても、立派なシュノンソー家の一員だ。それを忘れずに、しっかりと勉強してくるんだ。いいな? しっかりと結果を残して、帰って来るんだぞ?」

 窓の外w眺め、そう言った。

 ボクは、小さくうなづくことしかできなかった。

「…返事は?」

 ボクが見えていない父さんは、こう続けた。

「はい」

 それを聞くと、お父さんはクルリと体の向きを変えた。足早にボクの横を通過する。背筋を伸ばして、まっすぐ前を見ているから、身長が小さいボクなんて見えていないだろう。

 アンドゥリュー・シュノンソー。シュノンソー貿易会社の社長。

 娘のリリアは魔道学校を首席で卒業し、今では先生をしている。

 息子のニコラスも、学校を首席で卒業し、今は王宮で大臣をしている。

 じゃ、ボクは?

 今まで、ボクは何かを成し遂げてきたのか。彼らの経歴を聞いた人々は口を揃えて、「さぞすごい人なのでしょう」と言う。でも、ボクには何もない。

 何も、何も、ない。

「はやく、出発してはどうだ? 乗合馬車は多少前後することもあるぞ?」

 お父さんに促され、足元の鞄を拾った。片手で持つには少し重い荷物を、両手で持ちながら階段を降りた。

 ガツン、と荷物が階段にぶつかる音が妙に大きく響く。

 それでも、誰も顔を上げない。ボクを見ない。

 一階に降りると、母さんは窓際で本を読んでいた。

「…行ってきます」

 精一杯出したつもりで、声は消え入りそうだった。

「立派になって、帰ってきなさいよ」

 本から顔も上げずに、彼女はそう言った。

 父さんと似たような言葉だった。

 ボクは彼女の横を通過した。すると、仄かな花の匂いがした。懐かしい、と思うと共に胸が締め付けられる気がした。

ボクは唇をかみしめながら、玄関を出た。相変わらず、空をどんよりとしている。微妙に蒸し暑いのは、雨が近いからだろうか?

 道にはこんな天気だからか、人はいない。

 一人歩く道は、こんなに広かっただろうか?

 町の外れには、乗り合い馬車の乗り場がある。午後のこの時間に、やってくる。それに乗れば、首都まで一本。

案の定早く着いたので、手持無沙汰でぼんやりと街を眺めていた。

 けれども、あまり懐かしいとは思わない。高い教会の塔も、おそろいの煉瓦の家々も。ただ、一番奥に見える巨大な木だけが、懐かしい。

 いつも、そこへ逃げるように隠れていた。

「あ」

 額に、冷たい水滴が落ちる。地面に黒いしみができている。それは、瞬く間に数を増やす。慌てて近くの木に身を寄せた。細く、何とも頼りない木だった。荷物はずぶ濡れ。自分の頭を守るので精一杯だ。

 滝のような雨だった。

「傘、持ってくればよかった」

 誰に言うわけでもない。そう毒づいた。

 ゴロゴロと、遠くから雷の音がする。こりゃ、中々止まないかもしれない。ボクはため息をついた。

 雨を避けるように下を向く。

 舗装されていない道に、みるみる水が溜まっていく。不安げなボクの顔が、止めどない雨粒で揺れる。

 自分の影がかき消されたことに、少し安堵した。

 何もできないボクの顔なんて見たくない。

「早く、馬車が来ないかな」

何度目かの独り言。

なんとか顔を上げ、遠くを見やった。

 雨で白くかすんでいるから、よくわからない。

 ボクが住んでいた町も、白くかすんでいる。

 雨が強くなったのかもしれない。自分の体を、木の幹に押し当てた。どうせ、荷物なんて大したものは入っていないから、濡れても平気だ。

 雨を防ぐように、ボクはもう一度舌を向いた。

 水溜りの波紋に目を落とし、ただただ波紋の広がりを眺めていた。浮かんでは消える波紋が、ボクの姿をバラバラにするのを、じっと眺めていた。

 遠くから鳴り響く雷鳴の音に、ぼんやりと聞き入っていた。

「やっぱり、傘忘れたんだなー」

 そんな声と共に、雨粒が止まった。こもったぽつぽつという音がした。見上げれば、黒い傘がボクの頭上を覆っていた。

 すぐ横には、ヴィンセントの姿。

「学校に入学する前から、風邪ひくぞ?」

「なんで来たんだよ」

 そう吐き捨てて、ボクは彼から目線を落とした。足元の水溜りから、不安そうなボクの顔が見返してきた。

 それが嫌で、すぐにボクは顔を横に向けた。

「まぁまぁ。しばらく会えないんだろ? なら、お別れくらい言っときたいしさ」

「好きにしなよ」

 ボクは、ヴィンセントを見ない。

 ヴィンセントは、それでもボクに傘を差し続ける。

 眩い光が、瞬く。

「雷かー。もしかして、近づいてるかもな?」

「そうかもね」

「馬車、ちゃんと来るといいな」

「来なかったら、また明日行くから」

「父さんに頼んで、送ってやるよ」

 ボクは思わずため息をついた。

 ヴィンセントは、どこまでお節介なんだ。

「な、そうしろよ?」

「あのね……」

 ボクは口を開いた。

 それよりも早く、眩い光がボクの目を射った。間髪入れずに、轟音が響く。

 少し遅れて、ボクは理解した。

 落雷だ。しかも、すぐそこで。

「そんな…」

 すぐ横のヴィンセントが、消え入りそうな声を出した。

 彼の目線の先を見た。

 声が、出なかった。

 町はずれの大きな木。そこから、真っ赤な炎が噴き出ていたのだ。こんな雨すらものともせず、囂々と燃えていた。

「雷が落ちたんだ」

 なんてことだ。よりにもよって、あの木に落ちるなんて。

 いつしか、ヴィンセントは走りだしていた。

「待てよ! 何ができるっていうんだよ!!」

 彼の後を追って、ボクも走り始めた。

 荷物を木の根元においてきてしまった。それでも、気にしない。

 だって、ボクもそれどころじゃない。あの木が、燃えている。

 いつも、ボク達を守ってくれた木が、囂々と燃えているんだから。街中よりも、わずかにボク達のいる場所の方が、大樹に近い。

 目の前のヴィンセントを見失わないように、ボクは一生懸命走った。

 早くしないと、手遅れになる。

 がむしゃらに走れば、目の前に燃え盛る木があった。雨なんてもろともせず、囂々と燃え上がる炎に、ボクは思わずたじろいでしまった。

 熱い。雨に濡れた体には、あまりに熱い炎だった。

「ケビン。魔法だ。魔法を使うんだ!」

 ヴィンセントに諭され、やっとの思いでボクは顔を上げた。

 すっと手を前に出した。魔法は使ったことがない。でも、大体の理論は知っている。

「ケビンが炎の勢いを止めるんだ。ボクは、町のみんなを呼んでくるから」

「わかった」

 それから、ボクはそっと目を閉じた。

 イメージしよう。自分の手の中に力が集まっているのを。

 イメージする。自分の手から水があふれ出るのを。

 イメージしろ。その水が、炎を消しているのを。

 ボクは、大樹をぎろりとにらみつけた。大丈夫。いつもここで練習した。あれを思い出せば、何も問題ない。

「アクア! 炎を消せ!!」

 両手から、水がほとばしる。きれいな弧を描きながら、水の流れが炎に吸い込まれていく。

 ジュッ、と水の燃える音がした。白い煙が立ち上る。

それだけだった。

 思わず、目を疑った。それだけのわけないじゃないか。

 ボクはもう一度、両手を前に突き出した。

「アクア! 炎を消せ!」

 すると、先ほどよりも細い水の流れが手からほとばしる。

 あっという間に、炎に飲み込まれて消えていった。歯が立つ、どころの問題ではない。

「アクア…!」

 己に命じて魔力を使えば使うほど、その威力は目に見えて少なくなっていった。

 ついには、指先から水が滴る程度にしか、水を生み出せなくなった。その間にも、炎は確実に樹を燃やしていく。

 なんでだ? ボクは、なんでこんなに何もできないんだ?

―ご家族に似て、さぞ素晴らしいお子様なんでしょうね?―

 そういって、落胆の目でボクを見てきた親戚の顔が、炎に浮かんでは消える。ただの幻覚なのを分かっていても、体が動かなくなる。

 ボクは、足に力が入らない。立っていることが、不思議なくらいだ

「ケビン!!」

 ヴィンセントの声がした。その声を聞いて、ボクはへたり込んでいた。

「ケビン!」

半ば転がるように、ヴィンセントがボクに駆け寄る。

「大丈夫か? けがはないか?」

止まらない言葉に、ボクは何もしゃべれなかった。

止めてくれ。

「大丈夫だ。おれも、手伝う」

 ヴィンセントが、ギッと炎をにらみつけた。

「させるかっ!」

 ヴィンセントが悲鳴に近い声を出した。手に持ったバケツから、大量の水が投げ出された。だが、それだけの水で何ができるのだろうか。

 雨に打たれても消えない炎は、そんな彼を嘲笑っているかのようだ。チロチロと樹をいたぶり、目の前で燃やしていく。

 ボクはその場にへたり込んだままだった。全身が震える。寒くないのに、震えが止まらない。

 だって、ボクの魔法が通用しなかったんだよ? それなのに、次は敵うはずがない。結局は、役立たずなんた。

 ヴィンセントは必至だが、ボクは何もできずにいた。

「おい、ケビン! 何をしてんだよ! 手伝え! 村のみんなが来る前に、少しでも止めないと」

 ボクは何も返事をしなかった。できなかった。

「なんで」ヴィンセントの顔に始めて、不安の色が浮かんだ。「一生懸命止めないんだよ」

「無理だよ」

 ボクには力がないから。ヴィンセントも知ってるだろ。無理なんだよ。ボクは天才でもない。普通の魔法使いなんだ。

 ただ、努力することですごく見えるだけなんだ。

 だからこれ以上ボクを頼らないでほしい。

「やめてくれよ」

 絞り出した声は、炎の燃え盛る音にかき消された。

 ボクは自分の惨めさを感じたくないんだ。

 ヴィンセントの顔が歪んでいる。炎の光の加減か、ひどく歪んで見えた。

 ボクは、何もできないんだ。

「あきらめてんじゃねぇよ!!」

 彼はボクの胸倉をつかんだ。いつもおとなしくて冷静な彼が、初めてボクに振るった暴力だ。目元に涙を浮かべ、彼の顔はぐしゃぐしゃだった。

「ケビンは何をしてたんだ? 魔術を使ったのか?」

 ボクは静かに一回頷いた。

 ヴィンセントは、顔をもっとゆがめた。

「なら、なんで今も使わないんだ」

「だって、歯が立たないから」

「それだけであきらめるのか?」

「あきらめてない。無駄だと判断したんだ」

 だから、ヴィンセント。ボクのことは放っておいてほしい

 しかし、ボクの言葉は消えるわけもない。ヴィンセントは、ボクから離れなかった。

「ケビン。ケビンはいつもあきらめてる。自分の全力も出さずにあきらめてるだろ!?」

 お前に何がわかるんだ。

 そう叫ぼうとしたが。かろうじて唇が震えるだけだった。

「ボクは…天才じゃない」

 全力なんて、出せるわけないじゃないか。だって、それがボクの全力で限界だろ? それが大したことなかったら、どうするんだ?

 そうだったら、ボクはきっと二度と立ち上がれない。

 しばらく、ボクとヴィンセントはにらみあっていた。しかし、ヴィンセントが先に顔をそらせた。ボクの胸倉から手荒く手を放す。

 立つ力もなく、ボクはその場に座り込んだ。

「俺がやる」

 ヴィンセントがボクを見下ろしてきた。そして、何もない宙に手を伸ばした。

「はっ!」

 そう叫んで、彼は勢いよく腕を突き出した。

 もちろん、何かがおこるわけがない。そのままだった。

よくあることだ。

それでも、ヴィンセントはあきらめずに腕を突き出し、水を生み出そうとしている。

その姿は、無様だ。

あの天才ですら、どうにもできないことがある。

その事実に、頬が緩んでいた。なんで笑っているのか、ボク自身もわからない。

「やめなよ」

 さっきよりも、声がしっかりと出た。

「やめるかよ!!」

 ヴィンセントは、幾度も幾度も手を突き出した。

 彼の黒髪も、立派な服も、雨と泥でぐしゃぐしゃ。

ボクの魔法は効きやしない。嘲笑うように燃え上がり、ボクの肌をチロチロ焦がす。

ヴィンセントが、必死に手を突き出しているけど、彼に何かできる訳じゃない。

「ねぇ、何でそんなに頑張れるんだ?」

ボクはへたり込んだまま尋ねた。

「諦めたら、俺じゃなくなるから」

そう呟いて、彼は笑った。だご、そこにあるのはいつもの笑みではなかった。空っぽで、今にも崩れてしまいそうな笑みだった。

「優等生ぶってんのが、おれだからね」

手を突き出す。すると、ピカピカと光る欠片が手から放たれた。ボクは、思わず目を疑った。正直信じられるものではない。

だって、普通の人が何もないところから水を産み出すことができるわけがない。

その光を嬉しそうに眺めながら、ヴィンセントは手を払った。

透明な光は放射線状に広がる。激しく燃える炎を、光が包み込む。パチパチと燃え盛る炎の音が、少しずつ聞こえなくなる。

透明なベールに包まれ、炎の勢いは衰えていく。

断末魔のように、上方にスッと手をあげ、炎は消え失せてしまった。

ヴィンセントが手を叩く。甲高い音に震え、水のベールが崩れさった。ザッと地面に落ちた水が飛び散り、ボクの頬を濡らした。

目の前の大木は、真っ黒だった。

天からはいる長いヒビが、妙に痛々しかった。

「なんとか火を消したけど、遅かったかもしれない……」

ヴィンセントが幹に手を当てる。手を離した彼の手は、黒く汚れていた。

それから、彼はボクを見た。

「ごめんね。俺の力不足だ」

「何が力不足だ」

ボクの言葉に、ヴィンセントが顔をあげた。

そのまっすぐな瞳に見つめられ、ボクはしまったと思った。言わなきゃ、よかった。

「ケビン……? どういうことだ?」

「どーもこーも、そのままだよ」

ヴィンセントみたいな人のことを天才と言うのだろう。己の力に無関心。その手の中にあるのがどんな力かも知らず、いとも「普通」だと振る舞う。

「ケビン、辛そうだぞ? どこか、怪我でもしたのか?」

その力が、どれほど他人を傷つけているのかもしらずに。

ヴィンセントが手を伸ばす。

「!!」

反射的だった。パチンと音をたてて、ボクはヴィンセントの手を振り払っていた。

ヴィンセントが固まった。目を大きく見開き、ボクを見つめてくる。

一瞬、これは夢なんじゃないかと思った。けど、掌がジンジン痛み始めた。これは、夢ではない。

ボクは、ヴィンセントの手を叩いたのだ。

ボクは、その場から立ち去った。後ろから、ケビンと呼ぶ声がしたが、振り返らなかった。

街の方から、人々が走ってくるのも見えた。その中に、父さんや母さんを見た気がしたけど。ボクはその横を通過した。

頬を伝う涙の意味もよくわからず、ボクは走り続けた。いつしか、雨は止んでいる。それども、ボクはびしょ濡れだった。

いつしか、馬車の待合所まで戻っていた。そこには相変わらず、ボクのカバンが落ちていた。泥にまみれ、ずぶ濡れの鞄だった。

泥だらけの道には、深い轍の跡。

多分、もう馬車は行っているだろう。けれども、とてもでもないけど明日まで待ってられない。

明日まで待てばいいや。そんなことを思ったのは一瞬だけ。

ボクは鞄を手に取った。重くて、持つのが辛かったが、ボクは両手で持ち上げた。

どこかで馬車でも拾えばいい。

そう呟いて、見知らぬ道を歩き始めた。

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シャノワール シデーノ @SideeeNo

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