第10話 愛桜衣

 バスを降りると私は目を閉じ、鼻から息を吸いこんだ。


 花の香りだ。


 なんという名前か、小鳥の鳴き声もきこえる。

 風は南から吹く緩い風。ちょっと湿り気を含んでいて、まだ冷気を残しているけれど、頬を優しくなでてゆく。

 肌にあたる陽の光は暖かくて……。


 私はゆっくりと目を開いた。


 満開の桜の木々が視界にひろがっている。今は公園になっている城跡の、お堀のほとりをめぐる道。その道に沿って延々と桜の並木がつづいていた。お堀の向こう岸も桜。その間にはられた水面には春の光が反射して眩しくきらめいている。


 お堀のほとりの、桜並木の下を歩く私は、とまどいながらあたりの景色を見渡した。

(なんだか、不思議な感じだな)

 自分の見る世界から色が失われて初めて迎える春。覚悟はしていた。冬の景色を思えばいい。雪に閉ざされてしまえばどうせ九割がた見える色は白黒だ。あんなものだと思えばいい。


 でも今改めて感じる。白黒と思っているものが白黒なのと、そうでないものが白黒なのとは違う。青だと思うものが青くない。ピンクだったものがピンクではない。私が見慣れた風景はもうここにはない。私がそれを見ることはもう永遠にない。そしてしだいにそれに慣れてゆくのだろう。


 でも……。と、私は思う。自分が戸惑っているのは、自分の世界は本当にもうずっと白黒なんだという、その事実を確認したからではない。それを知ってもなお、自分の心が春を喜ぼうとしていることだった。


 私は並木道の途中にある、桜に囲まれた水辺の東屋で足を休めた。バッグから小さな紙袋を取り出し、中に入っていたクッキーを一枚口に入れる。甘みとかすかな桜の風味が口の中に広がる。


 色がなくても、やっぱり春は嬉しい。小鳥の鳴き声をきけば気持ちが弾むし、風の暖かさもわかる。空気の緩みに季節の変化を感じることができる。木々のさざめき。花の香り。みんな私に語りかけてくる。春ですよ。春が来ましたよ。色を失ってもいろいろなことを感じることができる。たとえ色が分からなくても、目が見えなかったとしても、人間は決して無感覚ではないんだ。


(きっと、それを最初に教えてくれたのは……)

 想い出を手繰るように目を閉じ、私はクッキーを飲み込む。体内へと流れ込んでいく、その茶色いしずくは胸の中で綿あめのようにふわりと広がって、弾んで、あたたかくなって……。


 色鮮やかな、閑静な住宅街の狭いレンガ道を覆う、桜並木の光景がよみがえる。


 あの日。あの人を追いかけたあの春の日。私はそれを教えてもらった。七歳年下のあの人に。あの人がつくってくれたクッキーに。あの鎌倉のカーテンを閉め切った灰色の部屋の底で。メッセージカードに書いてあった言葉が、あの味が、飲み込んだ後胸にこみあげた感動が、私をよみがえらせてくれた。当時絶望に打ちひしがれていた私は、あの人が出ていった後の薄暗い部屋の窓際でやっと気づかされたのだ。私はまだ感じることができる。味も、人の気持ちも。私は無感覚ではないんだということを。


(私は彼を救っているつもりだった。でも、救われていたのは私自身だった。彼に。そして彼の作ってくれた、これと同じ味のクッキーに)


 私は目を開け、クッキーの袋の中から一枚の紙を取り出した。微笑みながらそこに書かれている文字を読む。もう何度も読み返して覚えてしまった文章。でも、何度でも読みたい。彼の近況を伝える手紙。私の肖像画を描き上げて、今日ここで待ち合わせようと知らせてきた手紙。


 そのとき、草を踏む音がして、私は顔をあげた。そこには一人の青年の姿がある。白い桜の花びらを浴びながら、私を見つめ照れくさそうに笑っている。四角い布の包みを抱えて、片手で首の後ろをかいて……。一年ぶりにみる、懐かしい彼の姿が。


「蒼馬君」

 私は彼の名を呼ぶと思わず立ち上がり、彼のもとへと駆け寄った。

「お久しぶりです。先生。元気でしたか」

「うん。なんとかね。お久しぶり。よかった、また逢えて。うれしい」


 久しぶりなのに言葉がポンポン出てくる。春の空気に触れて弾む心が、まるで羽をもったように。それが蒼馬君と接したことで生命を得たかのように。


「僕も先生に逢えてうれしいです」

「その、先生って呼び方、もうやめてよ」

 私が腰に手を当てて頬を膨らますと、蒼馬君はぷっとふきだした。

「何よ」

「いや……。先生かわらないなって。ちょっとうれしかった」

「あ、あら、よかったわ。ところで……」


 私は蒼馬君の抱える包みに一瞥をくれる。それはアレだよね。君の約束してくれた、例のアレだよねと、語りかけるように。


 蒼馬君はにこやかな表情でうなずき、包みを解いてそれを私の前に差し出した。


 そこには女の人が描かれている。

 横を向いた女の人の姿。グレーのスーツを着て、黒ぶちの眼鏡をかけて、髪をお団子にして……。彼女の深い紫色の瞳には細かな光の片が散っていて。


 私は思わず苦笑する。これって、私なの? いやだなあ。私は、こんなに綺麗じゃないよ。


 絵の中の彼女はその目を細め、ちょっと顎をあげている。彼女が見上げているのは……。

 重たげな花びらのかたまりに埋め尽くされた枝々。

 桜だ!

 彼女の見上げる先で、また彼女の上身を取り囲むようにして、あるいは背景で、無数の花びらの重なりが、淡いピンクの光芒を放っている。その色彩のきらめきは彼女を包み込み、花弁の一枚一枚となって降り注いで……。


(え? ちょっと待って。私、どうして……)

 私は目をこすった。私、どうして淡いピンクだって、わかるんだろう。


 何度も瞬きしてから、再度よく絵を覗きこむ。錯覚かもしれない。記憶が、色を補正しているだけなのかもしれない。

 何度瞬きしても、どれだけ目を凝らしても、やっぱり間違いはなかった。気のせいじゃない。錯覚でもない。色が……。


 私はため息のように声を漏らす。

 私はこの色が、ちゃんとみえる!


 その瞬間、画面のピンクの花々がふわりと浮き上がり、一斉に飛び立った。私はそれを追うようにして顔をあげ、あたりを見渡す。


 風が吹いて桜の林がさざめく。

 淡い桃色の花びらが一斉に舞って私の身体に輝きながら降り注ぐ。色が、色彩の波紋があっという間に視界に広がり、光とともにあふれだす。

 浅緑の草原、そこに散り積もる花弁のピンク。桜の木の幹の、いろんな茶色の織り成す模様。家々の屋根の色。道路標識。薄い水色の空。


 みんな、みんなわかる!


 私は目をぬぐいながら蒼馬君に視線を向ける。ああ、わかる。彼の髪の色も、肌の色も、眼の色も。羽織っているコートの色も、ズボンの色も、靴の色も。


「出来栄えはどう? 先生」

 蒼馬君が柔らかくほほ笑みながら問いかける。私はうまく言葉にできずに、ただただ彼にうなずいてみせる。

「どうしたの?」

「私……。みえるの」

「えっ?」


 もしかして……と、蒼馬君が言葉をだしかける。それと同時に私は彼の胸に顔をうずめた。


 私は泣いた。声を出して。我慢しようと思ったが、涙も感情も次から次へとこみあげてこらえることができなかった。

「みえるの。私……。みえるの」

 蒼馬君の身体にしがみついて涙を流す私の髪に、頬に、肩に、淡いピンクの花びらが優しく降りかかる。泣きながら私は、声にならない声で蒼馬君に何度も語りかけた。


 桜の花の散る枝の下で。


 私に色を取り戻してくれて、ありがとう、と。




  おわり

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桜の花の散る枝の下 一柳すこし @kubotasukoshi

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