第9話 桜の花の散る枝の下で

 すべては、無駄なことだった。


 春の陽の散る明るい住宅地の路地を歩きながら、蒼馬は口惜しさに何度も唇をかんだ。


 すべては無駄だった。メールを送り続けたことも。彼女と逢うのを我慢したことも。その寂しさに耐えたことも。何て愚かな自分だろう。彼女の前に立ってやっと気づいた。そんなものはすべてただの自己満足だった。何一つ彼女のためにはなっていなかった。彼女の抱えていたであろう恐怖と辛さは、自分の想像よりはるかに大きかったのだ。


 いったい自分はどうすればよかったのだろう。


 考えても結局、自分にできる有効なことなど何も思い浮かばなかった。

 言葉さえ……。彼女の直面している絶望の前には、かける言葉さえなかった。

 愛桜衣を前にして蒼馬は何も言えなかった。伝えたいことがたくさんあったはずなのに。逢ったら話したいと思っていたことが、いろいろあったはずなのに。絵の感想さえ。何も、言えなかった。


 今さら自分の言葉が、彼女にとって何になるであろう。何を言っても病はとどめようもなく、非情に進行していくというのに。だんだんと色を失ってゆくという事実は覆しようがないというのに。


 歩きながら、蒼馬は強く歯ぎしりをする。腹の下から力が抜けてゆく。無力感が胸に広がる。彼は思う。この現実に対して、愛桜衣の心に自分という存在は何も灯すことができない。


 救うことができるなんて、はじめからそこまでは思っていなかった。自分があまりに非力で、そして不器用なことはわかっていたから。奇跡なんて望んでいない。ただ、彼女の支えになってあげたかった。たとえどんなに小さな力でも、せめて彼女の支えになってあげたい。もう一度彼女の笑顔が見たい。ただ、それだけだったのに。


(ダメなのか。僕では)

 蒼馬は立ち止まってうつむき、目を閉じる。

 水色のチェック柄のワンピースを着た女の人が、暗闇の中を遠ざかってゆく。

 ああ、愛桜衣が、去ってしまう。




 頭上から木々のささやきが降ってきて、蒼馬は目を開けて顔をあげた。その目の前を、一片の薄桃色の花弁が吹きすぎてゆく。ハッとして彼は周囲を見渡した。


 そこは桜の並木道だった。静かな古めかしい住宅街。レンガ畳の細い道に桜の老木が幾本も枝を覆いかぶせ、木漏れ日の上に雪のような花弁を散らしている。


 蒼馬の嫌いな花。彼にいつも別れを告げる花。


「やっぱり、君は別れを連れてきたな」

 蒼馬は肩の力を抜き、苦笑いしながら目の前の桜たちに語り掛けた。


 やっぱり僕は君が嫌いだよ。君はいつも高慢で口うるさくて。ぶっきらぼうでわがままで……。


 ふと、桜の花弁のはざまに愛桜衣の横顔が浮かぶ。彼女の声が遠くから聞こえる。

(い……いいのよ、これで。あんまり違う格好して誰だかわからなかったら、待ち合わせに困るでしょ)

(ちょっと。あんまりくっつかないでよ。このスケベ)

(もっと景色も観ようよ。でないと、絵もうまくならないよー)

 それでいて照れ屋で寂しがり屋で可愛くて……。

(やめてよ……。私、泣いちゃうじゃん)

(紅葉の絵を描くんだ。できたら君にも観せてあげるね)

 哀しくて、美しくて。

(世界はいろんな色であふれている。それを見て)

(桜が大好き。四季の風景の中で一番)

(観たいな。君の描いてくれた絵……)


 愛桜衣のいろんな表情が脳裏を駆け抜けてゆく。紫陽花の横でポーズをとる彼女。カメラを手に口を開けて紅葉の木々を見上げる彼女。花火の色に染まる笑み。夏の海の煌めきに縁どられた輪郭。その頬を伝い落ちる涙。


 風が吹き、一枚の花弁が蒼馬の頬についた。


 その瞬間、彼は駆け出していた。




 愛桜衣を、彼女を連れださなくては。


 蒼馬は息を切らし桜の下を駆けながら、何度もそう心の中で叫んだ。


 連れ出さなくては。カーテンを閉め切った部屋から。彼女はまだ色が分かるんだ。その残り僅かな日々を過ごす場所があんな光のささない部屋の中だなんて許せない。彼女をあそこから連れ出さなくてはいけない。そして彼女に見せてあげたい。彼女は今まで自分にいろんなものを見せてくれた。だから今度は僕がみせてあげるんだ。最後に。彼女の一番好きなものを。桜の花を、桜の花の色を、彼女に見せてあげたい。


 たとえどんなに自分が無力でも、結局彼女の病をいやせないことはわかっていても、でも、これだけはできる。自分が愛桜衣にしてあげられる精一杯のこと。彼女に桜の花をみせる。咲き誇る桜の枝の下に彼女を連れ出して、一緒にみあげるんだ。彼女が一番愛している風景を。


 レンガ畳の道が切れ、大通りの歩道に出た。たくさんの車の流れが目の前にあらわれる。横断歩道まで行くのがもどかしく、蒼馬はそこを渡ろうと流れの切れ間を探して左右に視線を走らせる。


 自分を呼ぶ声がきこえた気がして、蒼馬は正面を向いた。行き過ぎる車の向こうに人影が見え隠れしている。その姿に彼は思わず目を見開いた。


 愛桜衣だ。


 彼女は道の対岸に立って背伸びをし、蒼馬に向けて手をあげていた。髪のお団子はほどけていて、眼鏡もかけていなくて、パジャマにコートをひっかけたようなひどい恰好。でも、それは間違いなく愛桜衣だった。


「危ない。あっち。あっちの横断歩道にまわって」

 蒼馬が横断歩道の方を指さして声をあげると、彼女はうなずいてそちらに足を向ける。蒼馬も彼女に歩調を合わせて横断歩道に向かった。

 お互いが横断歩道の端と端に到着し、信号機が青に変わる。愛桜衣は向こう側でもじもじしている。蒼馬は躊躇なく歩道を渡ってそんな彼女に駆け寄った。


「あの……、さっきはごめんね。私……」

 気まずそうに顔をうつむけて毛先をいじる。愛桜衣のその頭上で早くも信号が点滅しだした。

「話はあとで。さあ、渡りましょう」


 蒼馬の手が愛桜衣の手をつかむ。

 蒼馬が横断歩道を来た方へと引き返し、愛桜衣が彼に引っ張られるようにしてつづく。

 愛桜衣の、お団子にまとめていない髪が風になびき、どこから飛んできたのか桃色の小さな片がそれにかかる。


「それにしても先生の格好。まるで寝起きみたいだ」

 道を渡り終えた蒼馬は歩きながら愛桜衣の姿を改めて見て、笑みをこぼす。

 愛桜衣はまた視線を下げ、そして蒼馬の手を握る指に力を込めた。

「うん。急いで出てきたから。伝えたいことがあったから」

 そして顔をあげて蒼馬を見つめる。あの、光の片を散らした、美しい瞳で。

「あの……おいしかったよ。クッキー。とても、おいしかった。……ありがとう」

「よかった」

 蒼馬が喜びを含んだ声で答えると、彼女はほっと胸をなでおろしたようにその表情をほころばせた。

「もう、間に合わないかと思った。よかった。逢うことができて。君はどうして引き返してくれたの」

「僕も……。先生にみせたいものがあったから」

 そこでようやく足を止めた。


 風が吹き、優しいささやきとともに頭上から小さな花びらが舞い降りてくる。一枚また一枚。それぞれが自由な軌道で、時には孤独に時には寄り集まり、朝の光そのもののように輝きながら。


「ああ。桜!」


 愛桜衣は嬉しそうに声をあげ、口を笑みの形にして開けたまま、体をゆっくりと一回転させる。その大きな瞳の中を、桜並木の枝々が、梢の間を舞う花弁たちが、鮮やかなピンクの光芒をたたえながら流れていく。


「わかりますか。桜」

 きかなくてもわかっていた。その声から、その表情から。愛桜衣には桜が、桜の色がちゃんとみえている。

「うん」

 一つうなずいてから愛桜衣は蒼馬と向き合い、その桜をうつす瞳で彼をじっと見つめた。

「とても綺麗」


 そう答えた愛桜衣の身体を取り巻くように、桜の花びらは煌めきながら幾枚も、幾枚も舞い降りてくる。満開の枝々に取り囲まれて、愛桜衣は顔をくしゃくしゃにして微笑んでいた。これまでに見たこともないくらいうれしそうに。ほつれた髪、部屋着やコートのあちらこちらに桜の花をくっつけて。


 ああ、やはり僕は……。

 愛桜衣の姿を眺めながら、蒼馬は改めて自分の感情をかみしめる。やはり僕はこの人のことが……。


 蒼馬は愛桜衣の両手を握った。

「教えて。先生の故郷の風景を」

 愛桜衣はきょとんとして目をぱちくりさせたが、少し考えこむように頭上の枝を見上げた後、頬にえくぼをつくって目を閉じた。


「私の故郷はね……」

 そして匂いを嗅ぐように大きく息を吸う。

「私の故郷は、雪国だよ。冬はすごくたくさん雪が降るの。寒いし、景色なんか真っ白。だけど、春になるとね……」

 彼女の頬にかかる光が明るさを増す。

「春になると、とっても綺麗なんだ。それまで雪に耐えていた花が一斉に咲く。梅も、こぶしも、桜も……。野にはあらゆる花が咲き乱れて、でも森の木々の葉はまだ芽吹いたばかりで、山々には雪が冠っていて。いろんな色が混ざり合って、とても綺麗なの」

 愛桜衣の声が高く、弾んでゆく。

「次は新緑。水をひいた田んぼの風景って、湖みたいなんだよ。平野が湖に没してしまったみたいになって、所々に散らばる集落がまるで島のようなの。夕暮れ時なんか、オレンジの夕陽に照らされて、平野全体が光ってて。カエルの鳴き声も凄いんだ。夜になると大合唱に包まれて。あと、空気の匂いも違うんだよ。水の匂い。水を含んだ草や土の匂い。風には清涼感があって……」


 愛桜衣は言葉をきり、またゆっくりと息を吸った。

「そして、夏はね……」

 言いかけて、また口を閉じる。

「夏はね……。夏は……。」

 声がだんだん小さくなってゆく。彼女はそこから先がどうして言えないようだった。声が震えている。言葉をだすかわりに何度も鼻をすする。涙が、大粒の涙がその目じりに浮かんでは頬を伝い落ちていった。


「綺麗なところですね。先生の故郷は。とても綺麗なところだ」

 いたわるようにささやいて、蒼馬は愛桜衣の両手を合わせ、それを自分の手で包んだ。

「ねえ、先生。僕も先生の故郷に行こうと思う」


 えっ。と、愛桜衣が目を見開いて蒼馬を見る。蒼馬は彼女から目をそらさずに言葉を続ける。

「来年の春。それまでに先生を描いて。その絵を完成させて。先生のところに行きます。そしたら僕と……」

 蒼馬はいったん口をつぐむ。

 大きく息を吸ってから彼は、意を決してその言葉を吐き出す。

「僕と、一緒に暮らしてくれませんか」


 愛桜衣はあっとわずかに唇を開き、その頬をかすかに染めた。少し視線を下げ、そしてなかなか返事を発しない。


「ごめんなさい先生。突然こんなこと言っちゃって。もし、嫌なら、この手を振りほどいて」


 愛桜衣は顔を伏せるとその手をゆっくり蒼馬の手から引き抜いた。愛桜衣の感触を失った手と手の間の空間。それと同じ隙間が蒼馬の胸の中にもできて、そこにわずかな痛みがはしる。


「そうですよね。こんなお願い。嫌ですよね」

 蒼馬は自嘲しながら手を下ろそうとする。斜め下に視線をおとしながら。その視界を流れてゆく桜の花弁に語りかけながら。やはり君は別れの花だった……。


 その時、下ろしかけた蒼馬の手が突然、暖かいものに包まれて軽くなった。

 顔をあげた彼の瞳に、愛桜衣の笑顔が映り込む。彼の手は、彼女の手によってしっかりと握られていた。


「私、三十二歳だよ。君より七つも年上だよ」

「全く問題ない。僕は年上が好きなんだ」

「私の故郷。冬は大変だよ。雪がたくさん積もるよ」

「へいきさ、そんなもの」

「雪かき、きついよ。雪道の運転も怖いよ」

「望むところだ」


 愛桜衣はこらえるように喉の奥で笑う。目を細めて。頬にえくぼをつくって。目じりにはまだ涙の粒が光っている。ひょっとしたらまだ泣いているのかもしれなかった。泣いているのか笑っているのかわからないその表情を、しかし蒼馬にみせたのは一瞬だった。


「ありがとう」

 そう言うやいなや彼女は蒼馬に抱きついていた。


 愛桜衣の身体のぬくもり。重さ。息遣い。鼓動……。それらを全身で感じながら、蒼馬は頭上を見上げた。

 満開の桜の枝が、その薄桃色の花弁を散らしながら彼らを取り囲んでいる。鶴岡八幡宮の東側。閑静な住宅地の狭い路地には、蒼馬と愛桜衣のふたり以外誰もいない。そこに連なり揺れる桜の木々のすべてが、まるで彼らのために咲いているようだった。


 もう、別れの花じゃない。


 蒼馬はその香りを吸い込みながら、彼らに語りかけた。今まで憎み続けた花たちに。感謝と和解の笑みを向けながら。


 ありがとう。今日ようやく僕は知ることができた。君たちが結びの花でもあることを。

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