第8話 愛桜衣のアパートにて
指定された日。蒼馬は小さな紙袋を手に下げて愛桜衣のアパートを訪ねた。紙袋には、クッキーが入っている。愛桜衣へのお祝いの品。初めて自分で作ったクッキー。不格好だが、しかし自分でも驚くほどに香りも味も抜群の出来だ。喜んでもらえるかはわからない。でも是非食べてほしいと思う。彼女のために心を込めて作ったものだから。
蒼馬はいつかと同じように階段を上り、白いドアの前に立ち、呼び鈴を押した。インターホンから応答があるまでに、あの時よりも長い時間がかかった。
「えっと……。蒼馬君?」
ああ、先生の声だ。久しぶりに聞く彼女の声。冷静で、澄んでいて、ちょっと不愛想なその声。以前と変わらぬその声音。
「ええ。来ましたよ」
返事をする声が少しかすれた。
「どうぞ。今開けるね」
カギを回す音がし、ドアが開く。
そこには懐かしい人の姿がある。
お団子ヘアー。黒ぶち眼鏡。紫の瞳……。
変わらぬ彼女のトレードマークとその容姿。瞳には相変わらず小さな光の片が散っていてやつれた様子もない。むしろ頬はわずかに紅く染まっていて、目の表情はどこか夢うつつで……。
「ようこそ。入って」
中へといざなう彼女の、玄関に残した香水の香りの中には、アルコールの匂いが隠しようもなく澱んでいた。
通された部屋はカーテンが閉められていて薄暗い。わずかに薄桃色の明かりをたたえてゆれるそのカーテンの隙間から、一筋の光が差し込んでいる。
「あ、そうだ。これ、完成祝い」
クッキーの紙袋を渡したとき、細い光に半分だけ照らし出された愛桜衣の口の端が、ほんの少しほころんだ。彼女は「ありがとう」とささやいてそれを受け取り、暗いキッチンへと足を向けた。
お茶の準備をしているらしい。水をポットに入れる音、ガスの音が流れてくる。
蒼馬は部屋の窓際にぼんやり立ち、所在なくあたりを見まわす。ありきたりな家具が整然と置かれている。本棚、テレビ、ローテーブル、ソファ……。ソファの向こうに作業スペースか物置だろうか、画板やバケツが乱雑に置かれ、その片隅に新聞紙ほどの大きさのキャンバスが立てかけられてあった。
近づいてみるとそれは紅葉の絵だった。燃えるような真紅のカエデの葉が、寄り合い重なり合いながら画面の上を流れていく。しかし、不思議なことに塗られているのは紅葉の色だけで、あとは全くの白であった。
「それ、今回私が描いた絵」
振り返るとマグカップを手にした愛桜衣が彼と絵を見つめていた。彼女はすぐに視線を下げ、マグカップをローテーブルに置き、床に座って膝を抱える。しばらく物憂げな表情で虚空に目を向けていたが、やがて顔を伏せその額を膝に押し付けた。
「駄目なんだ。塗れないの。それ以外の色が。青も、それから黄色も、もうわからない。怖くて塗れないの」
カーテンから漏れる光の筋が、彼女の背に当たっている。彼女の羽織るカーディガンの色は黄色で、その色が薄暗がりの中に細く浮かんでいる。彼女にはもう見えない色の一つが。
蒼馬は呆然としてそんな愛桜衣と彼女の部屋を見つめた。薄暗い部屋の中は灰色だった。その中で彼女の背と彼女の描いた絵に流れる紅葉が、細い光の当たる部分だけほのかな色彩を残しているように見えた。彼女のもう見えない色と、彼女がまだわかる色……。
蒼馬はカーテンをつかみ、開けようとした。
「開けないで」
愛桜衣の鋭い声で彼は手を止める。
愛桜衣は顔を伏せたまま弱々しく首を振った。
「外の景色なんか見たくない」
部屋がしんと静まり返る。しばらくして顔をあげた彼女は目の前に置かれたマグカップをとり、口まで持っていった。しかしそれに口をつけずカップの中の水面をじっと見つめたまま、ため息を吐くようにつぶやいた。
「私……、実家にもどるんだ。来月」
「えっ?」
「ごめんね、今まで。ありがとう。……でも、もういいの」
そしてマグカップをローテーブルに戻し、また己が膝の間に顔をうずめた。
「……さようなら」
部屋の中に再び静けさが降り注ぐ。
蒼馬は彼女に話しかけようとして口を開きかけ、しかし何も言えずに黙り込んだ。ただ、なすすべなく愛桜衣の背を見下ろしている。何者をも拒絶したようなその背。もう声を発することもなく、動くこともない。そんな彼女の姿を見つめていると、どうしようもない虚しさと怒りが、蒼馬の胸にわいてきた。
「さようなら」
蒼馬は抑えながらも乱暴な口調で言って、部屋から出ていった。
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