第7話 冬

 あっという間に冬がやってきて、木の枝を彩っていた枯れ葉たちはまたたくまに散っていった。


 かつて愛桜衣と並んで歩いた休日の街路を、公園や寺社の境内を、若宮大路の桜並木の裸の枝の下を、蒼馬は独りで巡ってゆく。


 絵画教室をやめてからというもの、蒼馬は愛桜衣と逢うことはなくなった。彼女から連絡してくることもない。以前のようにどこかへ行こうと誘ってくることも。ただ、蒼馬から時々他愛のない内容のメールを送ることがあるだけだった。


『もうすぐクリスマスですね。街のイルミネーションが綺麗です』

『もうクリスマスかあ。こっちは頑張って絵を描いています。なかなか構図が定まらない……』

『本覚寺の境内に提灯棚が飾られました。年末年始が楽しみです』

『色はどうしようかな。紅葉だからって赤系統だけだとつまらないし……』


 愛桜衣からの返事はいつも簡単なもので、その返信がもらえないことも多かった。そのやり取りから蒼馬が彼女の今の生活を……、どんな一日を、どんな表情で過ごしているのか、想像することはできない。ただひとつわかるのは、彼女がその最後の作品となるであろう紅葉の絵を一生懸命描きつづけているということであった。


 愛桜衣の現状を知りたいという思いはある。しかし蒼馬は彼女の部屋を訪ねたり彼女に電話を掛けたりすることはしなかった。

「お前。先生のこと心配じゃないのかよ」

 あんなに仲が良かったのに。と彼をなじる者もあったが、蒼馬はそのたびに相手の言葉を無視して退けた。


 心配でないわけがなかった。

 誰にも言わないが、クリスマスの日、ケーキの箱を携え彼女のアパートの前まで来て、その窓に灯る光をしばらく見上げていたのだ。本覚寺の暗闇に紅く浮かび上がって連なる提灯棚の間を、スマホの画面をにらみながら無為に何往復もしたのだ。


 蒼馬は誰よりも愛桜衣に逢いたかった。そして声を聴きたかった。番号も知っていて、住所も知っているのだから。しかし彼はあえてそれをしなかった。


 約束したから。愛桜衣とのその約束を破りたくなかったから。

 もし約束を破って声をかけてしまったら、自分の姿をみせてしまったら、必死に頑張っている愛桜衣の心を壊してしまうかもしれない。そう思ったから。


 蒼馬は愛桜衣のことが心配だったが、それ以上に彼女のことを信じていた。大丈夫。彼女なら大丈夫。今は絵を描くことに集中していて、そしていつか必ず立派にそれを完成させるだろう。自分が彼女と逢えるのは、話すことができるのはその時だ。それまでは自分も耐えるのだ。彼女が耐えているであろうのと同じように。


 逢わないかわりに蒼馬は愛桜衣にメールを送り続けた。返ってくることを期待しないメールを。

 応援するためでも、励ますためでもない。もちろんそういう気持ちは持っているが、それを言い続けたところできっとプレッシャーになってしまうだけだ。


 蒼馬はただ彼女に寄り添っていようと思った。そのためにメールを送り続けた。彼女の負担にならないように。彼女が寂しくないように。彼女に、彼女がひとりぼっちではないことを伝えるために。


 もちろん寂しさは蒼馬にもあった。メールの返事が返ってこないとき、それはほぼ毎日のことだったが、彼の胸はわずかに痛み締め付けられた。しかし蒼馬は自分の寂しさについては後回しにした。それは我慢しなければならないことだった。我慢しなければならない。愛桜衣はもっとつらいこと、色を失う恐怖を我慢して絵を描いているのだから。




 三月。街の辻々に咲いた梅が散り、こぶしもその盛りを過ぎたころ、愛桜衣から蒼馬にメールが届いた。

『三月×日。うちにきてもらえますか』

 初めて彼女のほうから送られてきたメール。蒼馬は震える指ですぐに返信し、外に飛び出した。

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