第6話 愛桜衣の秘密

 竹の枝が夕陽を散らしながら頭上で揺れている。長寿寺の裏山の散策路。乾いた竹の葉のささやきの下で、愛桜衣は彼女自身のことを蒼馬に話してくれた。


   * * *


 私は、病気なの。

 目の病気。

 色がわからなくなってしまう病気。


 それがわかったのは去年。私は人が苦手で、閉じこもって絵ばかり描いていた。ある日、青色の見え方がおかしいと思って、眼医者に行って検査してもらったの。そしたら、そういう病気だって。

 以来、病気は確実に進行しているの。もう青い色はほとんどわからない。この眼鏡はね、補正眼鏡なんだ。青色が見えない人のための、色を補正する眼鏡。


 ほかの色はまだみえるよ。でも、今だけ。今みえる色もだんだんとわからなくなって、いつかは……。

 完全に色がなくなってしまうのはおそらく来年。夏ごろだろうって、先生は言ってた。来年の夏ごろ。私の見る世界は白黒の、色のない世界になってしまうの。


   * * *


「あなたを執拗に誘っていろんなところに出掛けたのは、今のうちに……色のわかる今のうちに、いろんな景色を観たかったから。いろんな景色のいろんな色彩を心に刻み付けておきたかったから」


 そして愛桜衣は蒼馬と向き合い、ちょっと舌を出して肩をすくめた。お茶目のつもりだったのだろうが、その眼鏡をはずした表情に隠せぬ陰りがかかり、蒼馬は笑うことができなかった。


「ごめんね。今まで付き合わせちゃって」

「でも……。どうして僕だったの」

 蒼馬以外にも人はいた。いや、どうしても風景を刻んでおきたいのなら、人を誘う必要もなかったはずだ。


「それはね……」

 愛桜衣は視線を斜め下に流して毛先をいじる。少しの間言いよどんでから、彼女は遠慮がちに言う。

「あなたの描く絵が、あまりにも灰色だったから」

「灰色?」

「そう。初めて観た時から、あなたの絵はいつも色彩が単調で乏しくて……。この人の見る世界は何て寂しいんだろうって、思ってしまった」

「お……、大きなお世話ですよ」

 蒼馬が弱々しく抗議すると、愛桜衣は顔をあげ、慌てて謝った。

「ごめんね」

 そしてすぐに微笑み、散策路の下にある紅葉に埋め尽くされた庭園の景色を、眩しそうにみやる。


「でも思ったの。そうだ、この人に、色を見せたいって。私がこれから心に焼き付ける色を、この人にも見せたい。私が色を失ってしまうなら、それまでに、その色をこの人に得てもらおう。私が失ってしまう色を、この人の中でよみがえらせてもらおう、って」


 再び自分に向けられた愛桜衣の瞳を、蒼馬は今までとは違う思いで見つめていた。小さな光の片を散らした美しい瞳。今は夕陽の色を受けてか紫に少し橙色がまざっている。この瞳の見る景色は今どんな色なんだろう。そしてこれからどんな風に色あせてしまうのだろう。今まで色彩に満ちていた世界がだんだんと薄れ、近いうちに灰色になってしまう。それは一体、どれだけの恐怖を伴うことだろうか。


「先生は……勝手な人だな」

「ごめんね」

「しかもずっと隠してるなんて、意地悪だ」

「ごめん……」


 また謝って伏せようとした愛桜衣の頬に、蒼馬はそっと手をのばす。初めて触れた彼女の肌は思ったよりも柔らかくて、指に吸い付くようで、そして暖かかった。

「でも、ありがとう。僕に色をくれて。……ありがとう」

 僕を見つけてくれて、ありがとう。僕を誘ってくれて、ありがとう。確かに彼の見る世界は半年前とは全くちがっていた。そしてそれを与えてくれたのは間違いなく、愛桜衣だった。ありがとう。彼は何度もその言葉を口にした。ありがとう愛桜衣。僕に色をくれて。


「やめてよ。そんなに言われたら、私泣いちゃうじゃん」

 目を指でぬぐった愛桜衣は眼鏡をかけると両手をあげて大きく伸びをした。

「私、これから紅葉の絵を描くんだ。大作だよ。できたら君にも観せてあげるね」

 そう言って、下手なスキップをしながら庭園への階段を下っていった。


 愛桜衣の後姿を見送る蒼馬にはもうわかっていた。彼女が描こうとしているその絵は、きっと彼女にとって最後の絵になるのであろう。それが完成した時、彼女はどんな表情をしているのだろうか。それを自分は、どんな気持ちで見つめているのだろう。

 いつしか陽は山の影に姿を隠していた。吹き付ける風の冷たさに気づき、蒼馬は思わず身を震わせた。




 次の週。愛桜衣は絵画教室に姿を見せなかった。彼女の代わりに指導にあたった講師から、彼女が仕事を辞めたということが事務的に告げられ、授業は何事もなかったかのように淡々とすすんだ。


 蒼馬は戸惑っていた。愛桜衣のいない授業のむなしさに。そして彼女が何も言わずに突然辞めてしまったことに。しかし彼は彼女を責める気にはなれなかった。事情を知っている彼には、愛桜衣がこの仕事を続けることができないことが分かっていたから。遅かれ早かれこの日はやってくることが決まっていたのだ。


 教室の帰り道、蒼馬は愛桜衣を訪ねた。


 若宮大路の東側の地区。丘に沿って流れる川のほとりの住宅地の一角。その片隅のアパートの二階に愛桜衣の部屋はある。蒼馬は階段を上り、白いドアの前に立ち、呼び鈴を押す。しばらくしてインターホンから愛桜衣の声がきこえた。


「えっと……。どちらさま?」

「僕ですけど」

「あっ……」


 しばらくの沈黙ののち、彼女は慌てた声ですまなそうに言った。

「ごめんね。今、ちょっと私……、ひどいありさまだから。でられない」

「そうですか。じゃあ、また来ます」

「ま、待って……」


 そしてインターホンがきれる。蒼馬が踵を返そうとすると、カチャリと音がして、ドアがほんの少しだけ開いた。

「絵ができるまでは、来ないでほしいの」


 振り返ると、愛桜衣の姿は見えず、ドアのほんのわずかな隙間からその声だけが流れてきた。


「ごめんね。でも、私……。絵を描いている間はひどいから。髪はぼさぼさだし、化粧もしないし。とても蒼馬君にみせられないから……」


 蒼馬はドアのノブに触れようとして、しかしその手を離した。その姿は見えないが、彼には今の愛桜衣がどんなふうにしているか、容易に想像することができた。きっと彼女は毛先を指でいじりながら斜め下に視線を向けて、困ったように眉をひそめて……。


「わかりました。安心してください。無理に押しかけたりはしないから」

「ごめんね。でも、完成したら観てほしいの。わがままかもしれないけど、完成したらきっと呼ぶから。そしたら、その時は来てくれるかな」

「先生は、本当にわがままだな」

「ごめん……。あ、あと電話もダメ。私、苦手だから。本当にごめんね」


 蒼馬は軽く笑った。いつもの彼女がそこにいる。ドアを隔てているけれど、それで満足だった。逢えなくたって触れ合う方法はいくらでもある。

「じゃあ、約束ですよ。完成したら連絡してください。そしたら、必ずまた来るから」

 そして彼は愛桜衣のアパートをあとにした。


 帰り道、蒼馬は愛桜衣に電話をかけようと思ったが、番号をプッシュしようとして彼女の言葉を思い出し、その手を止めた。かわりにメールの画面を開き、

「絵の制作、頑張ってください。完成を楽しみにしています」

 そう、うって送信した。


 しばらくしてから返ってきた彼女からのメールには、

「ありがとう。わがまま言ってごめんね。でも、本当に絵は観てもらいたいの。春までには、必ず完成させるから」

 そう、つづられていた。

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