もうとっくに字が上手だよ

キジノメ

もうとっくに字が上手だよ

 柚子とは幼馴染ってやつで、幼稚園も小学校も中学校も同じだ。柚子が幼稚園で大泣きしたことも、小学校で給食が食べれなくて泣いていたことも、中学で歌が下手だって泣いてたことも、全部知ってる。ってこんなことを柚子の前で言ってみたら、


「私だって奏都が幼稚園の時にいじめられて泣いて、小学校の時に大繩が飛べなくて泣いて、中学でテストで赤点取ってお母さんに怒られたこと知ってるよ」


 と、悪気なさそうに笑われながら言われるんだと思う。そこでぼくは、うぐ、と黙る。黙ったぼくに、柚子が笑う。

 そんな会話はしたことないけど、多分こんな感じだ。


 ところで柚子って、小学校の時、めちゃくちゃ字が下手だった。本当に、読めないんだ。よくミミズが這ったような字、って言うけれどまさしくその通りで、まっすぐな線は全部よれて、丸いところはぐにゃっと潰れていた。ぼくの方がよっぽど字が上手くて、お母さんたちにはいつも「どうして柚子は女の子なのに奏都より下手なんだろうね?」と笑われていた。苦笑いして誤魔化す柚子が、陰で唇を噛み締めていたのを知っている。だからぼくは、こいつ字が下手だなあ、と思いながらもからかうことはしなかった。むしろ柚子の前で文字を書くことも見せることも嫌いで、習字で銀賞に選ばれた時はこっそり先生のところに行って、賞から外すようお願いしたくらいだ。


「賞をもらえたら嬉しいじゃない。どうしてやなの?」


 先生はそう言った。でも、絶対に本当のことは言いたくなかった。柚子の名前なんてほんの少しも出したくなかったから、なんでもないです、って言って帰ることにした。でも先生は、なにかしら思うことがあったのかもしれない。ぼくの習字の作品は、次の日には銀賞ではなくなっていた。

 縁から銀色の花飾りが外れて、すごくほっとしたのを覚えている。おかげでぼくの習字はみんなと同じように、教室の後ろに貼られたままだった。けれどその並びに、確か柚子の作品は無かったと思う。小学校6年間、柚子が習字の作品を出しているところを見たことがない。たまに先生に呼ばれて叱られているのを見たことがあるけど、多分、ぼくの知らないところで先生には何度も何度も怒られていたんだと思う。それでも柚子は6年間、一度も作品を出さなかった。習字の時間に柚子の顔を見れば、苦しそうに顔が歪んでいたのを覚えている。

 あんまりに辛そうなある日、「保健室に行こう」と柚子の手を引っ張って保健室に行った。ぼくの手は炭で汚れていて、ぺたりとそれが柚子の手にもくっついた。ごめんとは思ったけど、それどころじゃないから気にしないで、保健室に向かった。


「ありがとう」


 泣きそうな声で言われた言葉は、まだはっきり思い出せる。ぼくの手をきつく握りしめていて、後ろから鼻をすする音が聞こえて、授業中だからぼくら以外、廊下に誰もいなくて。

 ぼくは字を書くことは苦手じゃないけど、授業でみんな一緒に文字を書くことは、大嫌いだった。




 そんな柚子がある日、「手紙を書き合おう」と言った。中学1年生の春だった。


「どうしていきなり」


 あんなに書くことが嫌いな柚子がそんな言葉を言うなんて、とびっくりしていたら、だって、とそっぽを向かれる。


「高橋先生に汚い字、見られたくないもの」


 高橋先生、というのはぼくらの国語の担任で、若くて優し気な先生だ。よく通る声なのに静かに喋るから、教室がいつも静かだ。そして先生の字は、とてもきれいだった。読みやすくて、でもなんだかしっかりした、立派っていうか、そんな雰囲気が漂うような、そんな字だった。


「……いいよ」


 じゃあ毎日、学校で手紙を交換しよう。交換日記みたいに、なんでもいいからなにか書こう。ちゃんと毎日、忘れずに。

 顔が歪みそうになるのを抑えながら、ぼくはそう言った。柚子がにっこり笑う。頑張れ、と心のどこかが思っていた。けれど字が上手くなる方法を教えようとは思えなかった。



 柚子は毎日書いた。ぼくも毎日書いた。内容は、近所の猫にお菓子をあげたとか、校庭の隅っこに花が咲いていたとか、プールはまだ寒くて辛いとか、本当に些細なことばかりだった。最初の頃は柚子の字は汚くて、線も無視してがたがたで、本当に続けるのかな、と疑ったくらいだった。

 けれど、半年すぎたころから、読みやすくなってきた。


 しっかりとした、読みやすい、立派っていうか、そんな雰囲気が漂うような、字。


 これは高橋先生の字をまねているんだ、とある日気付いた時、ぼくは思わず手紙を床に叩きつけていた。

 国語の時間は、週に3回。ぼくの手紙は週に4回。黒板の文字なんて、読めるのは授業中の1時間だけ。ぼくの手紙は、ずっと取って置ける。

 だからなんだという話だった。だって柚子は最初に言っていた。高橋先生に汚い字を見られたくない、と言っていた。だから手紙を書き合おうと言っていた。それにいいよと言ったのはぼくだった。誰かに強制されたわけではなかった。

 母さんからもらったクッキーの箱は、手紙でもうぱんぱんだった。机の上に当たり前のようにある便箋は、近くの文房具屋で何回買っただろう。

 初めて、やめようかな、とその時思った。もう手紙を書き合うのは嫌だと言ったら、きっと柚子は目を伏せながら「ごめんね」と言うだろう。それでもうぼくに手紙を渡すことはしないだろう。柚子の文字が見れるのは、テスト前にノートを借りる時になるだけだろう。


 想像をしていたら、手が今日の便箋を取り出した。頬を拭って一文字書く。なんだか文字が歪んでいる。ぼくのほうが字が下手になってしまった気分だった。




 中学2年生の春、高橋先生は転任した。その頃には柚子の字はきれいになっていて、誰に見せても笑われなかった。習字の授業だって普通の顔で受けるようになっていた。

 春の、始業式の日。一日だけ、柚子からの手紙が途絶えた。高橋先生の転任が発表された日だ。

 これで手紙は途切れるのかな、と思った。だってもう、書く理由がきっとない。もう柚子の字はきれいだ。誰に見せてもおかしくないくらい、きれいだ。それに、それに。その文字を見せる人は、もういない。

 でも、次の日にポストを覗いたら、いつもの白い封筒が入っていた。家に入る前にその場で手紙を開けたら、いつものきれいな字で、1枚、今日あった出来事が書かれていた。先生の転任には、一言も触れていなかった。

 だからぼくもなにも触れず、今日あった出来事を、ふきのとうを土手で見つけたっていう淡々とした日常を、書いて、次の日柚子の家のポストに入れた。





 その日は、冷たい雨の次の日だった。

 朝、寝坊をして急いでいたから、柚子の家のポストに手紙を入れることはできなかった。けれど、ぼくらは同じクラスだ。教室で渡せばいいか、と思いながら学校に飛び込んだ。

 結局、柚子は学校を休んだ。風邪を引いたらしい。そういえば昨日の手紙は濡れていた。雨の中、わざわざぼくの家に寄ってポストに入れたのだろう。そんなことせず、今日学校で渡せばよかったのに。

 手紙の交換は続いている。中学3年生の秋だった。柚子の字は、小学生の頃からは考えられないほどきれいになった。この前の習字の大会では、金賞に選ばれていた。渡り廊下に金の花と共に飾ってある柚子の文字を見ながら、小学校の頃を教えたらみんな、びっくりするんだろうな、と笑ってしまった。

 どうして手紙の交換が続いているのだろう。

 たまに、途切れる。でも、続く。ぼくも渡せない日がある。でも、次の日には渡す。

 ぼくの習字の字は、クラス内でちょっと上手い程度だった。けれどぼくは、授業で文字を書くことが嫌ではなくなっていた。柚子の字には金色の花がついた。それを見てたら授業へのもやもやが吹き飛んだ。

 ねえ、柚子。もう、字が上手だよ。

 ずっと思っている。でも、一回も伝えたことが、なかったかもしれない。



 幼馴染だけど、柚子の家は道1本違うから、帰り道に寄り道しないと家にいけない。ぼくは無意識に道を折れて、あ、と立ち止まって、やっぱり柚子の家に行くことにした。

 小学生が道を駆けていく。たった3年前だ、と思った。3年であんなに変わる。たくさん、変わった。ぼくより柚子のほうが字が上手くなった。柚子の頭がぼくよりちょっと下にくるようになった。ふたりでいることが小学校の時より減った。でも、一度に書く手紙の量は増えた。

 たくさん変わった。色々あった。

 右手の手紙をちょっと握りしめながら、柚子の家のピンポンを鳴らした。ノイズのあと、「はい」と柚子のお母さんが出る。「奏都です」とだけ言ったら、あらちょっと待ってね柚子、とスピーカーが切れる直前で柚子の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 ドアが開いて、柚子が出てくる。パジャマだけど顔はすっきりしているし、きっと熱が下がったんだろう。


「大丈夫?」

「わざわざ来てくれたの? ありがとう」

「うん、風邪、ひどくなくてよかった」

「うん」


 会話が途切れて、ぼくは首をかいた。えっと、と言えば、うん、と言われる。えっと、えっとね、柚子。

 手紙を差し出す。ありがとう、と柚子が受け取った。明日でもよかったのに、とは言わなかった。頬を緩めて、受け取ってくれた。


「あのね、柚子」

「うん、なあに」

「あのさ。ずっと言いたかったんだけどさ、字、上手になったね」


 柚子がぱっと目を見開いた。ぼくはその目を見つめる。上手になったよ。本当にきれいになったよ。柚子、もうとっくにきれいなのに。

 それでも手紙の交換を続けるのは、どうして?

 聞けなかった。そこに触れてはいけない気がした。どうして、って言葉は、硝子を割ってしまうような響きがあった。上手になったね、そこから何の言葉を続けられなかった。

 黙って、うつむいてしまう。きれいだよ。先生のためにって言ってたのに、先生、いなくなってしまったよ。それに字が、上手くなったんだよ。もう、手紙は書かなくてもいいと思うんだよ。


 ねえ、柚子。ぼく、なにかを期待してもいいのかな。


「……明日、手紙、渡すね」

「……明日、来れるの」

「絶対に行く。手渡しで、お手紙、渡すね。あとね、奏都」


 名前を呼ばれて、顔をあげた。柚子がちょっと赤い顔で、なんだか変な顔をしていた。


「ほめてくれて、ありがとう。すごく嬉しい」


 昨日冷たい雨が降ったのに、今日の気温は暑すぎる気がする。

 もう柚子の目を見ていられなくて、ぼくは慌てて顔をそむけた。じゃあね、と言って、柚子の家を離れる。また明日ね、と後ろから声がした。ぼくはひらりと手を振った。


 明日も、いつもみたいに出来事の手紙かな。それとも、それか、もしかしたら。

 寄り道と言っても遠い距離じゃない。でも、思わず走ってしまう。まだ夕方なのに、明日が待ち遠しい。明日、柚子から手紙を貰えるのが、もう3年も続いていることなのに、特別に嬉しく感じた。


 何度でも言うよ。柚子があんなに喜ぶなら、何度でも。ぼくの言葉で喜んでくれるなら、何度だって。

 もうとっくに字が上手だよ、柚子。

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