後編
「おーい、麻生君」
遠い目をしていた麻生を前野は現実に引き戻した。いつの間にか戻ってきていた彼は紙とペンと、それから消しゴム――それにしては妙に大きいと思った――を持っていた。先ほど見せたひどく神妙な面持ちとはうってかわって、相好を崩した彼がいた。
「前野さん、それは何ですか?」
「黒歴史イレイサ~~~」
彼は某青狸風に言った。麻生のポカンとした顔に気付いているのかいないのか、彼はさらに続けた。
「ここに紙とペンがありますね。紙にペンで黒歴史を書きます。――できるだけ詳細にね。あとはこの『黒歴史イレイサー』で消しゴムみたいに文字を消すだけです!」
遠くでカラスが素っ頓狂な声で鳴いた。
「……ふざけているんですか?」
先ほどまでポカンとしていた麻生の顔はどこか色をなしていた。
「あんな胡散臭い張り紙に騙された私が馬鹿でしたよ。もっとなんかこう、脳を刺激するような大掛かりな機械を想像していました。……もし本当に黒歴史を消す魔法のような道具があるとしても、こんなさびれた所にはないでしょうし、あったらあったで、きっとニュースになっているはずですね」
麻生は自嘲するような笑みを浮かべると、立ち上がって小さく呟く。
「もう帰ります」
前野は、歩き出した麻生の腕を掴んで引き留めた。彼が掴んだのは手首の少し上辺り、そこには妙なざらついた感触があった。幾筋の切り裂いたような線が彼の目に留まった。
「ちゃんと家に帰りますか?」
前野は、まるで麻生の全てを見透かしているかのような目で彼を見つめた。しかし彼は一瞥もくれなかった。
「ところで、張り紙はどこで見つけましたか?」
「普通に道端ですよ。人通りの少ない路地裏でしたが、壁に貼ってありました」
麻生の語気は心なしかか細かったが、それは自身の唐突な質問のせいではないと前野は悟った。
「実は、高い建物の屋上にしかそれを貼っていないんです。なぜ君はそんな所に用が――いえ、単刀直入に聞きましょう」
麻生君、自殺しようとしたのですね?
麻生は俯いたままで暫く答えなかった。前野は彼をじっと見守った。彼は諦めたような顔をすると、先ほどまで座っていたソファに再び腰を掛けた。彼は俯いたまま声を振り絞った。
「……その通りです。私は自殺しようと思い、ビルの屋上へ行きました。生きていてもまた黒歴史を作るだけだと思ったからです。しかし、いざ飛ぼうと地上を見ると足がすくみました。怖かったのです。その時でした、あの張り紙を見つけたのは」
前野は、そうでしたかと言って同じくソファに腰を掛けた。窓の外を見るともうすっかり暗くなっていた。
「私も君に黙っていたことがあります」
重苦しい空気を取っ払うように言った。
「実は、黒歴史イレイサーなんてありません。騙してすみません。……なぜ嘘をついたかというと、黒歴史を消せるといえば、君のように自殺しようとする人を一人でも救えるかもしれないと思ったからです。――かつての私のように」
「……えっ?」
思わず声をあげた麻生は、顔を仰向かせ、前野を見つめた。
「私もちょうど君くらいの頃、過去や黒歴史に悩んで自殺しようとしました。けれど、これも君と同じように死ぬ勇気は出ませんでした。ぼんやりと日々を過ごしていたある時、黒歴史イレイサーを作ることを思いつきました。それからは研究の毎日でした」
前野の意外な過去を聞いた麻生は二の句が継げなかった。前野はさらに続けた。
「実は、黒歴史イレイサーは完成に近いところまでできていたんです。しかし研究に明け暮れる日々の中で私は気づきました。黒歴史なんか消しても無意味だと。……人間は失敗を経験して、学習する。どんなに恥ずかしい過去だろうと、きっとどこかで自身の役に立つでしょう。寧ろ黒歴史があるからこそ同じ過ちを繰り返さずに済むのです。消してもいい記憶や過去なんて、ないんです」
麻生は戸惑っていた。彼は今まで黒歴史が自分を苦しめていると思っていた。生きづらさを感じていた。だから前野の言葉には納得できずにいた。――いや、納得したくなかったのかもしれない。そうしてしまったら、過去に悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてしまうからだ。
「考え方次第では、黒歴史は笑い話にもできますよ。過去にとらわれすぎてはいけません。大切なのは、現在、それから未来です。そして、どうかそれと同じくらい自分を大切にしてください」
前野は柔らかな表情をして言ったが、黙ったままの麻生は窓の外の深い暗闇へと目を向ける。暫くの間そのままだった。
「もう帰ります」
「ちょっと――」
前野は立ち上がって、部屋から出ようとする麻生を再び引き留めようとした。
「ちゃんと家に帰ります。……明日までに提出しなきゃいけない大学のレポートがありますし」
麻生の目には先ほどまでとは違う、何か力強いものが宿っているようだった。前野はそんな彼の様子を見て愁眉を開いた。
「よかったらまたコーヒーでも飲みに来てください。といっても、ただのインスタントのしか出せませんが」
前野は玄関前まで麻生を見送ると、屈託のない笑顔で言った。麻生も彼に応えるように少し照れた笑顔を見せる。
「前野さん、今日は突然お邪魔してすみませんでした。……もしどうしたらいいか分からなくなったら、その時はまた、コーヒー飲みに来ます」
麻生はそう言って立て付けの悪いドアを閉めた。バタン、という音が研究室に響いた。
満天の星の下、麻生は帰路に就いていた。
――死ぬにしても、未来へ一歩踏み出すにしても、僕には勇気が足りない。前野さんは、過去と向き合うという選択をした。彼なりの勇気をもって。――
「……もう少し頑張ってみようかな」
白く輝く光の粒たちは、そう呟いた彼をより一層明るく照らした。
黒歴史イレイサー 北谷 四音 @kitaya_shion
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます