黒歴史イレイサー

北谷 四音

前編

 開け放った窓から夕陽が差し込み、すっかり冷たい秋の風が吹き抜ける。その風が、ソファで微睡む四、五十歳の男の頬を強く撫でていくと、彼は目を覚ました。肌寒い風が再び吹き抜ける。彼は重たい腰を上げ、窓の方へ足早に向かう。力強く窓を閉めようとしたとき、彼の目に映ったのは、赤や黄金色に妖しく染まった夕景。彼の小さな怒りは次第に引っ込んでいった。

 綺麗だなあ。

 彼の独り言が研究室に響く。無造作に積まれた紙、紙、紙。大量の書類や本だけでなく様々な機械たちが彼の研究室を埋め尽くしている。


 コンコンコン――。


 小気味よい音がした。

 夕日に見入っていた彼はそれでふと我に返ったが、果たして何の音か、飲み込めていない。

「どなたかいらっしゃいませんか?」

 木の板一枚向こうから萎縮気味の声が聞こえた。漸く彼はあの音がドアをノックした時のものであったと心得た。

「はい、どうぞ。お入りください」

 彼は古いビルの一室を研究室とし、自宅は別にあるのだが、ここで寝泊まりすることも多い。彼の妻や小学生の娘がたまに来るくらいで、ここへ客が来ることはほとんどない。しかし今訪ねたのは、どうやら客のようであった。

 客は立て付けの悪いドアを徐に開き、彼を見つけると恐る恐る尋ねた。

「すみません、張り紙を見て伺ったのですが……」

 現れたのは若い男。背丈は百七十くらい。黒髪の短髪で黒縁の眼鏡を掛けている。それから彼はどこか物憂げな表情をしていた。

「そうですか、とりあえずお話をお聞きしましょう。どうぞ中へ」

 客は、お邪魔しますと言って靴を脱いだ。

 客の目には研究室というものが珍しく映ったのか、辺りをじろじろと見回している。

 彼は客を奥の部屋に案内し、中身の綿が顔を覗かせたボロいソファへ座るよう促す。「コーヒーでいいですか?」彼は食器棚からカップを取り出しながら聞いた。

「いえ、お構いなく」客は答えた。

 客は、二人分のカップにお湯を注ぐ背中に向かって尋ねる。

「あの。黒歴史が消せるというのは本当でしょうか?」

 彼はカップをテーブルに置いた。どうぞと言って、客に差し出してから答えた。

「まぁ、そんなに焦らないで。まずは軽く自己紹介でもしましょう。私は前野といいます。君は?」

「麻生進です」

 麻生は少し不満そうに名を名乗り、出されたコーヒーに口をつけた。

「どうですか? 私の入れたコーヒーは」

「別に普通です。というか、ただのインスタントコーヒーじゃないですか」

 麻生は前野がコーヒーを淹れていた場所を一瞥し、インスタントコーヒーの瓶を見つけると、呆れたように言った。前野は、これは一本取られましたねと言って笑った。

「ところで、麻生君は今いくつですか?」

「十九です」

「それじゃあ大学生でしょうか?」

「はい、この近くの大学に通っています」

「恋人は、い――」

「前野さん、そろそろ本題に入っていただけないでしょうか」

 麻生は前野の質問攻めが鬱陶しくなり話を遮った。前野は真剣な目になって口を開いた。

「……麻生君、張り紙を見てここへ来たと言いましたね?」

「はい。その張り紙に書いてあった住所を見てこちらへ伺いました。それには『あなたの黒歴史、消します。』と書いてありました。前野さん、それは本当ですか?」

 張り詰めた空気の中、前野は少しの逡巡の後に答えた。

「結論から言えばそれは可能ですが、君には、黒歴史――無かったことにしたい過去や恥ずかしい過去があるのですか?」

「はい。じゃあ早速――」

「麻生君、本当に黒歴史を消すということの意味をわかっているのですか? 君の記憶を消すということです。簡単に決めていいことではありませんよ」

 麻生は前野の鋭い眼差しに耐えかねて、窓の外へと目をそらした。彼がここを訪れた時には西日の眩しかった空が次第に黒く塗りつぶされていく。

 はぁ。

 前野のため息が静寂を破る。

「十分ほど待っていてください。その間、もう一度よく考えておいてください」

 そう言い残して前野は部屋を出て行った。麻生は、言われた通りもう一度考えることにした。彼は自分のこれまでの人生を振り返った。



 小学校高学年頃、僕は非行に走った。万引きは二回した。盗んだものは確かその時に流行っていたカードゲームのカードだったと思う。別にお金が無かったわけではなく、万引きのスリルを楽しんでいたのだった。いじめは何度もやった。僕にとっては遊び感覚だった。いじめた相手の一人は不登校になり暫くして転校していった。その子にはいまだに謝罪も何もできていない。女子には猥褻行為とも呼べるようなことを繰り返した。スカート捲りをしたり胸を触ったり女子トイレに侵入して中を覗いたりした。若気の至りなんて言葉では済まされないようなことをした。どれも僕の黒歴史だが、一番後悔しているのは、やったことをやっていないと言い、それどころか人のせいにしたことだ。僕は保身のために友人を裏切ったのだ。

 そのことがあって中学時代は、自分を変えようと生徒会に入った。けれど、うまくいくはずがなかった。とってつけたような真面目さでは、空回りするだけだった。畢竟人間は変わることのできない存在であって、僕は何一つ成長できなかった。また友人を裏切ってしまうのではないかという恐怖に苛まれ、交友関係には積極的になれなくなっていた。中学時代の黒歴史はなんといっても中二病が発症したことだ。

 高校時代も相変わらず友達は少なかったが、初めての彼女ができた。しかしそこでも黒歴史を作ってしまった。恥ずかしい文面のラインを送りつけ、自撮りを送りつけたこともあった。結局二か月ほどで振られてしまった。考えてみれば、友人関係さえうまくできないのに、恋愛関係なんてなおさらだった。

 僕の黒歴史は人間関係に大きく影響した。他人と親密になろうとする時にこれらの記憶たちが邪魔をしてくる。そのせいで僕は独りぼっちだ。淋しさにひどく震える夜はもう嫌だ。だから、僕はこの過去に終止符を打ちたい。そして、僕は――。

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