天空橋#4

 回転する世界。

 衝撃に回る視界。

 巨体によって引き起こされた体当たりは、わずか数十キロの矮躯わいくを宙へと容易たやすく浮かび上がらせる。

 吹き飛ばされた身体は天空に架けられた橋からいとも簡単に舞い落ちる。

 まるで木の葉のようなあっけなさ。

 強烈な風が走り抜けただけで飛び散ってしまう、その儚さを己に幻想する。


 意識すら定かでなくなるほどの衝撃の中、どうにか周囲を把握しようと視界と体勢の把握に努める。

 きりもみするような身体の回転。

 高速で過ぎ去っていくあらゆる風景。

 四肢がバラバラになっていないのが奇跡のような有様の中、辛うじて捉えたその光景に俺は目を見張る。

 空を切り裂くようにして、宙を奔る一筋の黒影。

 身動きの取れない獲物に確かなとどめを刺そうとする甲虫の姿だ。

 胸をよぎるのは幽かな絶望だ。

 この状況では為す術がない。抵抗しようにも、人体というのは空中で活動するようには出来ていない。その為の道具もない。

 人類は叡智があってこそあらゆるものに対抗できる万敵パブリックエネミー足りうる存在である。

 個人ではどうの使用もない苦境を、人類は知識を積み重ねるための技術ツールを開発することで乗り越えてきた。

 歴史の重なり。工夫のくり返し。

 生命の継承の果てに遺伝子以外の知識を残すという生物史上類を見ない試みがあってこそ、人間は空も宇宙も思うままに出来たのだ。

 その用意周到さ。あらゆる苦難に備える群体としての価値こそが人類史であるならば、こと、なんの備えも出来ていない空中にいる個人などまさしく塵芥に等しい。

 つまるところは限りのない無力。

 自分には、あの甲虫の攻撃に対処しうる手段がない。

 カナリアと言う名前を与えられているにしろ、自分には、この星を自由に飛び回る翼すら与えられていないのだから。


 じわじわと胸に染み入る絶望と諦観。

 心臓の繊維1枚1枚をつまびらかにされ、冷水を流し込まれているかの如き凍てついた感触。

 芯で凍り付きそうな状況に瞳を閉じかけた時、


「――――、ッ!」


 ありえない、声が聞こえた気がした。

 目の前にはどんどん大きくなる甲虫の巨影がある。


「――、?」


 だが、その巨影に違和感がある。

 蛇行して飛ぶその姿。嫌がりながらも無理矢理、軌道を修正されているかの如きその様相。

 乱高下をくり返しながら迫る、その黒影の先端には傷つきながらも変わらない大角の偉容がある。

 その先端、あろうことか、こちらへ向かい、叫び声を上げているのは――


「――捕まって!」


 ――甲虫の角にしがみつくソラの女である。


 舞い戻ってきた甲虫の上からヴィヴィアンがこちらに向かって手を差し伸べている。

 角に片手でしがみつきながら、彼女は力任せに引っ張ったり、押したりをする事で軌道の微調整をしているらしい。

 こちらを仕留めんとする甲虫の軌道をそらしながら、彼女は目一杯手を伸ばしている。

 俺は、身体が回転する中、彼女に向かい手を伸ばした。


 1度、2度。

 掌が擦れ、弾け、捕まえるも勢いまかせに振りほどける。


 3度、4度。

 回転は接触により不規則になり、甲虫の起こす風もあってか益々姿勢は不安定だ。

 三半規管は等に限界を告げている。瞳に血流が上がったことで、視界は最早、霞んでいる。


 5度、6度。

 それでも、幾度かの接触を経て回転は収まりを見せる。

 触れあう掌。幾度となく弾かれるそれを、必死に視界の中心に捉え続ける。

 高度は――既に、50メートルもない!


「捕まえ――たっ!」


 手首がぐっと引き絞られるような感触。

 聞こえたのは快哉をあげるヴィヴィアンの声。

 人のものとは思えない機械じみた握力で掴み上げられると、そのままぐいっと浮かび上がる感覚が訪れる。


「――ッ、――ハ」


 落下の衝撃。極度の緊張。

 刹那の集中に、止まっていた呼吸を慌てて再開させつつ状況を認識し直せば。

 俺は、高速で飛翔する甲虫の角にヴィヴィアンと2人でしがみついていた。


「なん、――て」


 事をしているんだ、という抗議の声は荒い呼吸と風圧によって途切れ途切れに発せられた。


「なんて――、聞こえないんだけど――ッ!」 


 角を操作してどうにかこの巨大生物を御そうとしているヴィヴィアンは、こちらを降ろすと今度は両手で角に挑みかかっている。

 甲虫からしてみれば屈辱の上に、更なる屈辱を上乗せされた状況だろう。

 その暴れ方たるや必死の一語である。

 身体をよじり、乱高下をくり返し、回転すらも加える様は古い映像作品に見た飛行曲芸アクロバットさながらだ。

 しかし、こちらを振り落とすために行われているあらゆる所行は、ヴィヴィアンが角を強引に操ることで全て阻止されている。


「――、――ぁ」


 荒い呼吸を整えながら、何故、ヴィヴィアンの細腕でそんな荒技が可能なのかを考え、一つ思い当たることがあった。

 そういえば。

 世界樹タワーの中を歩くとき、彼女は妙に軽やかな足取りでいた。

 完全に宇宙服を着込んでいるとなれば、その重量はかなりのものだ。

 低重力化ならまだしも、1G以上の環境に置かれればまともに歩くだけでもかなりの筋力を必要とする。

 ヴィヴィアンがその手の訓練を積んでいるならまだしも、そんな様子は露程もうかがえなかった。

 その様子から、自分は宇宙服にパワーアシストが組み込まれているのではないかと考えた。


(――なるほど、機械補助パワーアシストがあるなら可能か)


 人間の膂力の足りない部分を、機械動力で強引に補う。

 この場所を未探索の惑星に例えたのは彼女自身だ。

 あらゆる状況、あらゆる苦難。おそらくは、こうした危険生物とのバッティングすらも彼女はある程度を想定していたのだろう。


(その為に、宇宙服には糸目をつけなかったのか)


 機械補助パワーアシスト入りの宇宙服ともなればそれなりに値段も張る。

 私物と称してそれを着回すなど、ただの学生が背伸びしてどうにかなるような額じゃない。

 なにしろ、この星に生きる人間の時間通貨に換算すれば軽く20年は持って行かれるような高級品だ。

 通貨の算出基準は宇宙で暮らす人々の平均年収に等しい事を考えると、このぶっ飛んだ備えっぷりに平伏する思いすら抱く。


 事、ここにいたって訂正しよう。

 このソラ の女、ただの学生ではあるものの、どうやら人生を賭けてこの森に挑んだらしい。


 ただ、そんな彼女にしてもさすがにこの状況は誤算だったのだろう。

 だれが巨大な甲虫の背に乗って空中曲芸アクロバットする想定を行うというのか。

 その点に関して、彼女の想像力不足を咎める者は誰も居まい。


「ええい、――いい加減、言うこと聞けっての!」


 上昇し、今度は背面飛行で振り落とそうと暴れる甲虫の角に、あろうことか蹴りを放って強引に頭を下げさせるヴィヴィアン。

 もう一つ、付け加えるならば。

 彼女の想像力不足を咎める者は居なかろうが、――窮地を脱するために、甲虫にぶら下がる道を選んだのもまた彼女である。

 まるで、ロケットのような創造性の瞬発力。

 その発想の荒唐無稽さは、ここにいたって文字通り。

 彼女自身を惑星のソラに飛ばすに至ったのだ。

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花の星 古癒瑠璃 @koyururi

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