天空橋#3
全長500メートルを超える樹木の橋は、長さに相応の横幅を持つ。
しかし、樹木である以上、その形状は円形であり丸みを帯びたものだ。
故に、人間がまともに立ち上がって歩いて渡れる場所は横幅の半分にも満たない。
概算で10メートルほどの範囲。それが、俺とヴィヴィアンが安定して歩くことの出来る幅である。
「きたきたきた――ッ!」
「――伏せろ!」
ひゃーっ、という悲鳴とも規制とも付かないヴィヴィアンの声と共に俺は身を樹上に投げ出す。
間一髪、背中に触れるか触れないかという位置を通過していくのは、背後から飛翔による体当たりをかましてきた
甲虫は
足の欠損した部分からは、樹液のような体液がしたたり落ちている。無理をして飛翔した結果、溢れだしたのだろう。
その体内に澱んでいる怨嗟のように濁った粘性のある液体。
あるいは、それは、こちらを所望してやまない甲虫が垂らした涎のようにも感じられた。
ヴィヴィアンに腕を貸して立ち上がりながら、今度は、進行方向に居る甲虫に2人で身構える。
「どうするの?」
フルフェイスのマスク越し、ヴィヴィアンは瞳と言葉で問いかけてくる。
このまま進行方向に居座られるだけで俺たちは詰みに等しい。
まして、体当たりを交わし続けるにも限度がある。
先ほどと同じ高さを甲虫が飛び交っている限りは、体当たりも
だが、それは現状の甲虫が距離感を掴みきれていないだけに過ぎない。
幾度かの体当たりの末、感覚のズレを修正されれば甲虫は樹皮のすれすれを滑空するようになるだろう。
まして、樹皮に降り立たれた日には最悪だ。その足で追い回されるだけで俺たちは挽き潰される。
森を逃げ回っていたときは、それでも建造物やビルを利用して時間を稼ぐことが出来た。
樹皮の上では、所々に自生している宿り木があるが、甲虫の体当たりを止められるかは心細い。
「戻る?」
ヴィヴィアンの言葉に背後、
進むよりは、戻った方が遙かに短い道のりで済むのは確かだ。
現在のように薄氷の上を歩むような試みを繰り返すのであれば、戻った方が遙かに利口だろう。
だが、それでは袋小路だ。
あの
俺が数日戻らないとして、追加で送られてくる救助は果たして何日後の話になるだろうか。
まして、俺がこの場所にたどり着いたのですらかなりの偶然が重なった結果である。
「――いや、進むしかない」
それ以外に俺たちが生き残れる選択肢はここに残されてない。
目の前の甲虫を越えて、この橋を渡りきる以外に方法はないのだ。
「そう――」
俺の言葉に、ヴィヴィアンは少しだけ俯いて何かを考えている様子だ。
長々と考えているようにも感じられたが、その実、時間にしてみれば3秒にも満たない黙考。
その僅かな時間を経て考えをまとめたのか、再び上がったヴィヴィアンの顔に迷いの表情は見当たらなかった。
「なら、進みましょう」
告げられた言葉は力強く。陰りのない、真っ直ぐとした宣言だった。
視線は再び甲虫へと向けられる。
空中で獲物の出方を伺っていたのか、甲虫はその場での
お互いの距離は30メートルもあるかないか。大人が駆け出せば5秒もかからないその距離間。
双方が距離を詰め合えば、時間はさらに半分以下。おそらくは1秒と少しで再び生死を賭けた交錯がなされるだろう。
避けられる屈辱をこれ以上負いたくない甲虫と、1度でもしくじれば跡のない木っ葉の命。
じりじりとした緊迫感を、豪快に踏み抜いたのは――やはりと言うべきか、宣言通り。
俺も慌ててその後に続く。
三歩、四歩。
その歩みが重ねられるごとに速度は上がり、その様はランナーも斯くやと言う疾走である。
五歩、六歩。
既に甲虫までの距離は数メートルにも満たない至近。
虚を突かれたのは甲虫だ。
まさか、獲物の方から躊躇いのない全速力で迫ってくるとは夢にも思わなかったのだろう。
身じろぎのような動作を見せたのは、ヴィヴィアンどころが俺も通り過ぎた後の話。
全速力で駆け抜けながら背後を振り向けば、その場に放置された怒りに翅音をより一層高く鳴らした甲虫が天高く飛翔している。
弧を描くような旋回の後、1度背面になった姿勢を正せば再びこちらへと体当たりをする構えを見せる。
目算ながら、それは一度目の突撃よりもなお鋭い角度。
ギリギリで樹皮を削らんばかりの進入角に、甲虫側の覚悟が見え隠れしている。
「――、――来るぞッ」
全力で走りながら、前方を行くヴィヴィアンに警告を投げかける。
彼女も背後から甲虫が迫り来るのは重々承知だったのだろう、半分だけ首を振り向かせると甲虫の位置を確認しつつ短い頷きを返す。
時刻はもうじき太陽の輪郭が確認できようかという
紫色に染まる明け空を切り裂くように、甲虫は再度の突撃を敢行した。
炸裂する巨体。飛散する樹皮。
あまりの威力に大樹すら震動する有様。
その結果は
樹上でバランスを崩した俺とヴィヴィアンは、あっけなく。
先ほどのように避ける暇すら与えられずに、甲虫の角によって空中に放り投げられた――。
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