第8話
夢の中で昂雅は八ヶ月ぶりに自宅二階の自室に戻っていた。
なんだ俺の部屋か……。
久しぶりだと思ったが、懐かしいとは感じなかった。
ボンヤリとした意識で自室のベッドに横たわる己の両足を確認するとオーダーで支給されたブーツを履いたままだったがそこは気にならなかった。
とにかく体がくたびれていた。
ベッド脇の窓からは夕日が差し込んでいる。
何故自分は部屋で寝ているのか? いつベッドに入ったのか? ボンヤリとした頭で記憶を手繰るが思い出せなかった。
くたびれた体は酷く重く、動かすことができなかった。また動かそうとすることが億劫だった。
遠い階下から掃除機の音が、窓の外からは野太い男達の歌声が聞こえてきた。微妙にタイミングのずれた大合唱。オーダーの仲間達が歌いながらランニングしているのだろう。
遅刻したか――彼らの歌声を聞きながらそんなことを思った。
昂雅もこういったオーダーの訓練には極力参加するようにしていた。銃の扱い方や格闘術を教わっていたからだ。
なのに、寝過ごしてしまったことに焦りは無かった。
重い体はひたすら休息を求めており、体を動かしたくなかった。起き上がりたくなかった。もう少し眠っていたかった。
うるさいな……。
窓から聞こえる男達の歌声よりもなぜか掃除機の音の方がうるさく感じられた。
その掃除機の音の向こうから女の子の声が聞こえてくる。
「でも……だ…………しょう?」
「そ……けど……見たのは…………」
「わか……リル……よう」
隣の部屋からだ。妹の友達が遊びに来ているのだろう。
聞いたことのあるような声と全く聞き覚えの無い声、そして何やらお婆さんの声が入り混じっている気がするが――まあいいか。
昂雅はもう一度眠ろうと目を閉じた。そこから少しまどろみ、覚醒が不意に訪れた。
体をビクリと震わせて昂雅は瞼を開けた。
寝起きにも関わらず頭はすこぶるハッキリしていた。昂雅は素早く目を動かし周囲の様子を確認する。
当然、夢で見た自室ではなく、古く粗末な木造の小屋の中でベッドの上に寝かされているようだ。左側の開け放たれた窓から差し込む光も夕日ではなく昼の強い日差しだった。
当然、昂雅はこんな小屋を見たことがないし、横たわるベッドと固い枕も同様だ。
「夢か……」
そりゃそうだ。自分の部屋のベッドで寝ているなんて。自分のベッドなど部屋ごと、いや家ごと町ごと八ヶ月前に吹き飛んでいる。
「疲れてたのかな」と昂雅は口元だけで笑った。
笑いながら自分の身に起きた事を頭の中で再確認する。真っ先に思い出したのは気を失う直前にみた自分の左手だ。
昂雅が左手を眼前にかざすと何の変哲も無い見慣れた手がそこにあった。
小学二年生の頃、カッターで切りつけた中指付け根の傷跡も見受けられる。注入された七千億のナノマシンでも修復してくれなかった古傷だ。
どういうことだ? 急に体調を崩し気絶する――体内のナノマシンに異常が発生したのかと思ったが、今頭はハッキリしており五感も研ぎ澄まされている。ナノマシンが体の調子を整えてくれているのだ。
念のためにと自分が横たわっていたベッド――材木を釘打ちしただけの粗末な作りだ――の端を片手でつかみ二十センチほど持ち上げてみた。重みを感じながらも軽々と持ち上げることができた。
ナノマシンが強化してくれた身体能力は健在だ。
七千億の群体が無事だったことに昂雅は胸をなでおろした。
しかしそうなると気絶したのは一体何だったのだろうか?
昂雅は自分の体を調べてみたが、着ている服はそのままで穴が開いている様子もなかった。
頭をどれだけ捻ろうが、今更考えても正解など分かりようが無い。
昂雅は改めて自分が寝かされていた部屋を見回した。
改めて見渡した部屋は薄暗く、いつか見た祖父の家のある田舎の畑の隅に立てられていた物置小屋にそっくりだった。
広さは四畳ほどで間違いなく昂雅の部屋よりも狭い。
壁や屋根が木材で作られ、床は土がむき出しでベッドから部屋の出入り口まで木の板が並べられている。
祖父の物置小屋もこのように地面に板が敷かれていた。
物置小屋との違いは窓が二つあること、それがガラス窓ではなく木の戸がついた窓だということ、鍬や草刈り機が無くベッドや衣装箪笥が置かれていることだ。
衣装箪笥は引き出しが二つだけついた背の低い物で、その上には消えた蝋燭を三本のせた小皿が置かれている。
これがゲームなら薬草でもないかと物色しているところだろうが、当然そんなことはしなかった。昂雅の興味は隣の部屋から聞こえてくる話し声に移っていた。
不明瞭な会話だがその中に聞き覚えのある声がいくつか混じっていた。あの出会った三人の声だ。気絶した自分をここまで運び介抱してくれたのだろう。
となるとここはあの子達の家なのだろうか。
言葉は通じないまでも介抱してくれたのだから礼くらいは言った方が良いのだろうが……。
隣の部屋に行くか昂雅が迷った瞬間、ラジオのチューニングがピタリと合ったように聞こえていた不明瞭な会話が日本語に変化した。
ナノマシンが最低限の仕事をいま終えたのだ。
「大したものだ」と、七千億の同胞に賞賛を送りながら昂雅は隣の部屋へ足を踏み入れた。
隣の部屋も壁、天井、床と全てが黒ずんだ木材で造られており、入って右側の壁に並んだ木窓からは森の樹々が見えた。
部屋の広さは学校の教室ほど。清掃は徹底されているようで、床に塵一つ無く、上に見える屋根の入組んだ木組みにも蜘蛛の巣一つ見当たらない。香油で磨きこまれた壁や床からは鈍い光沢と柔らかな香りが漂っている。
その広い部屋の中央に会話の主達がいた。人数は五人で皆が昂雅に目を向けていた。
昂雅の見知った顔が三人。見知らぬ顔が二人。
知った顔は森で出会った三人で、知らぬ顔は輪の中心にいる椅子に腰かけた老婦人とその傍らに立つ長身の少女だった。
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