第166戦:植ゑし松の木 君を待ち出でむ

 暗闇の下、どこまでも続いている白い平行線を前にして。牡丹は何度も瞬きを繰り返させ。



「あの。この塀で囲まれている所全部、豊島家のお屋敷なんですか……?」



 おずおずと訊ねる牡丹とは裏腹、陽斗はけろっとした顔で。



「はい、そうですよ」



 きっぱりとそう答える。


 誰もが半ば呆然とその白い線の果てを追っている中、道松は一人だけ車から降り。



「お前達はそこで待っていろ。

 おい、陽斗。とっととジジイの所へ連れて行け」


「かしこまりました、道松坊ちゃま」


「だから、坊ちゃまって言うのは止めろ」



 半歩先行く彼の背中を道松は軽く小突きながら、二人は重々しい扉の向こうへと消えて行き。






 暗転。






 長い廊下をひたすら突き進み。とある部屋を前にして漸く立ち止まると、陽斗は中に向かって声を掛ける。返答を確認してから、彼はゆっくりと襖を開かせていき。



「こんな夜中に押し掛けて来るとは……」



 一歩足を踏み入れるなり、皺枯れた声が耳を掠めさせ。その声の重さは、ただでさえ厳かな部屋の雰囲気により厳重さを色濃くさせる。


 かつん――と庭先から鹿威しの清涼な音が響いて来る中、切れ長の瞳が怪しく光り。その閃光の名残を見つめたまま、道松はゆっくりと口角を上げさせていき。



「取引に来た」


「……取引だと?」


「ああ。この血を売りに――」



 そう言うや、道松はポケットからカッターを取り出し。カチカチと、静かに刃を出していく。そして、鋭利なそれを手の甲へと押し付け。すうと一本、真っ直ぐな線を描くと同時、彼の皮膚にはじわりと真っ赤な直線が浮かび上がる。


 その線は次第に広がりを見せ。指先を伝い、ぽたぽたと貧相な音を立ててテーブルの上へと落ちていく。一滴、また一滴と滴る度に、深紅色の小さな池は波紋を描きながらも大きくなっていき。


 それをじっと見つめたまま、老人は重々しい口先から一つ乾いた息を吐き出させ。



「……いくらだ? 一体いくら欲しいんだ?」


「さあ。金額はそっちで決めてくれ。生憎俺には、この血の価値が全く分からん。

 それで、どうするんだ? いるのか、いらないのか、さっさと決めろ。でないと、体から全部抜けちまうぞ。そしたらお前達は、永遠に手に入れられなくなる。俺はせっかちなんだ」



 道松は、瞳に宿した刃を決して緩めさせることはなく。「どうするんだ?」と、もう一度。朱色に染まる手を突き付けながら問い掛けた。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 一方、その頃。牡丹等はと言うと。


 車の中で、ただ徒に時間を過ごしており。



「道松兄さん、大丈夫ですかね。ちっとも戻って来ませんが……」



 薄ぼんやりと窓越しに遠くの景色を眺めていた牡丹だが、そんな彼に梅吉は自分のスマホの画面を見せ付け。



「見ろよ、牡丹。道松のじいさん、アイツにそっくりだぞ。この目付きの悪さなんか、まんまじゃないか」


「梅吉兄さんってば、こんな時に……」


「だって、待っているだけなんて。暇でしょうがねえもん。この歳なのに髪の毛がふさふさなのは、やっぱり金の力かねえ」



 くすくすと小さな笑みを漏らしている梅吉に、その能天気さが羨ましいと。呆れがちな牡丹であったが、屋敷の門から出て来る人影を捉え。



「あっ。戻って来たみたいです……って、道松兄さん!? どうしたんですか、その流血は。あっ、もしかして……!」



 ひと悶着あったのではと、牡丹は思わずバイオレンスな映像を想像してしまい。さっと顔を蒼褪めさせる。


 おそらく彼の考えが分かったのだろう。道松は跋の悪い顔を浮かばせ。



「そうじゃないが、ちょっとな。

 くそっ、思ったより深く入れちまったか」


「もう、一体何をしたの? タオル貸して。俺が押さえるから」



 藤助は、半ば無理矢理道松の手からタオルを引っ手繰り。彼の代わりに、傷口にそれを押さえ付ける。


 その様子を遠目に眺めながら、梅吉は口を開かせ。



「それで。今度はどこに向かっているんだ? お兄ちゃん」


「お兄ちゃんって言うな。ったく、どいつもこいつも。ホテルだ、ホテル」


「えっ。ホテルですか?」


「ああ。俺達の家の権利書は、あの男が持っているからな。いくら金があった所で簡単には取り返せない。そうなると当分の間、住む所が必要になるだろうが」


「ふうん。復縁したからと言って、さすがに直ぐにあのお屋敷には入れてくれないか。おまけに俺達は、招かれざる客。大事な一人娘を奪った憎き男の腹違いの子供なんて尚更だよな」


「いえ、そんなことは。奥様は許可して下さったのに、道松様がどうしても嫌だと仰るので」



 まるで幼子をあやすような陽斗の口振りに、道松は鼻息荒く。



「当たり前だ。あんな息苦しい所で休める訳ないだろうが」


「まあ、俺達も。あの屋敷に足を踏み入れる勇気なんてなかったよね?」



 寧ろその方が有り難いと思うも、数十分後――……。


 停車すると彼等は揃って車から降りるが、またもや目を点にさせ。それを直す暇もなく陽斗の案内に従って付いて行くが、煌びやかな光景に牡丹等の身は小さく縮むばかりである。



「ホテルはホテルでも高級ホテルですか」


「そして、この部屋って、スイートルームかなあ?」



 夢心地の気分で広々とした室内を見回している一同に、陽斗はしれっとした顔で。



「いえ、VIPルームです」


「ぶっ!? びっ、VIPルームだって……!?」



 ぐわんぐわんと揺れる頭をそのままに、もう一度室内を見回すと。藤助は、がたがたと微弱ながらも震え出す。


 そんな彼同様、いつまでもその場に突っ立ったままの牡丹達とは異なり、道松だけは近場のソファへと腰を下ろす。



「みなさんも、どうぞ寛いで下さい。何も遠慮することはありませんよ。ここは豊島グループが経営しているホテルですから」


「そんなこと言われても」


「はい。この一室だけでも、十分ウチより広くて立派なんですけど」


「前の家はそのまま定光にくれてやって、いっそのこと、もうここに住んじゃわないか?」


「ちょっと、梅吉ってば! 馬鹿なこと言わないでよ」


「なんだよ、冗談に決まっているだろう」


「梅吉が言うと全然冗談に聞こえないよ!」






 閑話休題。






 むすりと眉間に皺を寄せた藤助を余所に、取り敢えずとばかり牡丹等も浮足立たせたままソファへと座り。それを確認すると、陽斗は淡々と口を動かす。



「えー、改めましてご挨拶させて頂きます。これから暫くの間お世話になります、豊島家・道松様専属秘書候補の上野陽斗です。それから複数のお世話係に豊島家専属のボディーガードも付けていますので、みなさまご安心してお過ごし下さい」


「あのー……。俺達、いくら道松と半分だけ血が繋がっているとは言え、豊島家の人間ではないんだけど……」


「藤助様ってば、そんな気になさらずとも大丈夫ですよ。道松様のご兄弟方の面倒も見るよう、旦那様からもこと使われていますので。

 ちなみに当ホテルにいる間、食事など直接ホテルのサービスをご利用頂いても構いませんし、我々を呼び付けて下さっても結構です。なんでも受け賜りますので、なんなりとお申し付け下さい。

 では、今夜はお疲れでしょうから、この辺りで失礼しますね。我々は常に隣の部屋で待機していますので、何かありましたらお声掛け下さい」



 必要事項だけ述べると、陽斗と数人のスーツに身を包んだ男達は、ぞろぞろと部屋から出て行くが、なかなか隣の部屋には辿り着かないのか。長い廊下をいつまでも歩いており。


 漸くとばかりその姿が見えなくなると、牡丹達は中へと戻り。相談の結果、今日の所はもう休むことにして。それぞれベッドの置かれてある部屋へ適当に分かれ、直ぐにも眠りに就こうとする。


 が、とある部屋だけは、未だ灯りが点けられたままであり。その光の下、藤助は一息吐くと机の上を片付け。最後にぱたんと救急箱の蓋を閉める。



「はい、これで大丈夫だよ」


「ああ、悪かったな」



 道松は包帯の巻かれた手を軽く動かすと、羽織っていたカーディガンを脱ぎ。それを乱雑に椅子の背に掛け、重たい足取りで布団の中へと入っていく。


 そのまま枕に頭を預けさせ。



「お前も、もう寝ろよ」



 そう言って背を向けさせるが、いつまで経っても居座り続けている藤助に、道松は気怠げに起き上がり。



「ったく、またお前は……。

 なんだよ、そうやっていじけるくらいなら、意地でもじいさんに付いて行けば良かっただろうが」


「だって……。天羽さんが、『頼む』って。『みんなのこと、頼む』って、そう言ったから……」



 刹那、藤助の瞳から、ぽろぽろと雫が零れ出す。


 その行方を道松に見守られる中、藤助は乱暴に目元を擦り。



「なんで、どうして……。俺、裏切っちゃったのに。天羽さんのこと、裏切っちゃったのに、なのに。どうしてそんな大事なことを……」


「裏切った? ああ、あのことか。でも、あれは馬鹿に唆されたからだろう?」



 馬鹿は次男のことであり、数週間前の睡眠薬事件を思い返しながら。道松は、相変わらずの態度で自分の頭を掻き毟る。


 けれど、一方の藤助は彼の意図とは反対に、首を左右に振り回し。



「……違うよ、違う。俺なら上手くやれるって、そう思ったからやったんだ。

 だけど、天羽さんには見透かされていたし、その上、赤の他人なのに。養父でもなんでもないのに、みっともないくらい縋り付いて……。

 あの人の為なら、なんでもできると思っていた。あの人のことは、なんでも知っていると思っていた。それなのに、本当の名前さえ知らなかったなんて。ははっ、笑っちゃうよね。何年も同じ屋根の下で暮らしていたのに。ずっと傍にいたのに。

 ……全部、全部、無駄になっちゃったや……」



 ぐすぐすと耳を掠める嗚咽に、道松は一つ乾いた息を吐き出させ。それから、彼の方へと手を伸ばし。



「いいから今日はもう寝ろ。話なら明日聞いてやるから」



「早く寝ろ」と繰り返させると、道松は藤助の頭に手を乗せ。ぐしゃぐしゃと柔らかな髪の毛を、乱暴に掻き回した。

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