第160戦:音のみにやも 聞きわたりなむ
「おかえり、菊……と、牡丹も一緒なんて」
「珍しいな」と、飄々と後を続けさせる藤助に。牡丹は小さく頷いて見せる。
藤助は、視線を鍋に戻しながら。
「もう少しで夕食の支度ができるからね」
「夕食……。
あの。俺、今日はいらないです」
「えっ!? いらないって、食べないってこと? どこか具合でも悪いの?」
「いえ、そんなことは……。ただ、その、ちょっと、えっと……。あ、実は帰りに買い食いしちゃって。それで、あまりお腹が空いていなくて……」
「済みません」と後を続けさせると、牡丹は顔を下に向けたまま階段を上がって行き。自室に入ると、そのままベッドの上に突っ伏す。
枕に顔を強く押し当て。
「……かめないと……、確かめないと。アイツの言っていたことが正しいかどうか、確かめないと……」
まるで自身に言い聞かせるよう。何度も何度も唱えさせると、牡丹は目を瞑り。自然と襲って来る眠気に抗うことなく、素直にそれに従った。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
キーンコーンと校内中に、終業を告げる甲高い鐘の音が鳴り響き。それに続き、ひょいと扉の隙間から雨蓮が顔を出すも。
「牡丹、支度できたか?」
「雨蓮、悪い! 俺、今日は用事あるから」
それだけ言うや先に教室から飛び出して行く牡丹に、雨蓮はきょとんと目を丸くさせ。
「牡丹の奴、どうしたんだ? あんなに慌てて」
「さあ。朝から様子が変だったんだよな」
竹郎と雨蓮は互いに不審げな面を突き合わせながらも、慌ただしい様の牡丹を見送り。一方の牡丹は、ちらほらと廊下に散らばっている生徒達を器用に避け。昇降口を目指して行く。
靴を履き替え、今度は校門に向かって小走りで駆けて行くが。その最中、ばったりと紅葉と出くわし。
「牡丹さん。帰る所ですか? 珍しいですね、今日は部活お休みなんですか」
「いや、今日はちょっと用があって。それで……」
一言、二言、言葉を交わすと、二人はそこで別れる。
――が、牡丹は直ぐに再び立ち止まり。
「あのさ、紅葉。もし良かったで、いいんだけどさ。その、ちょっと付き合って欲しい所があるんだけど……」
暗転。
二人はそのまま連れ立って。歩いて行くと、とある施設の前へと辿り着く。立ち止まったままの牡丹の隣で、紅葉はぱちぱちと何度も瞬きを繰り返させ。
彼女は首を傾げさせたまま、口を開かせ。
「えっと、役所……ですか?」
「うん。俺一人だと、いつまでも入る勇気が出なそうだから」
じっと建物を見つめていた牡丹だが、生唾を呑み込ませ。意を決すると、漸く中へと入って行き。
数十分後――……。
役所から出て来るも、数歩進んだ所で牡丹は膝から崩れ落ち。
「牡丹さん!? 大丈夫ですか? 牡丹さん、牡丹さん!」
紅葉が何度も声を掛けるものの、その声は遠くの方で聞こえ。薄らと表面だけを撫でるよう、簡単に流れ去ってしまう。
上手く焦点の定まらない瞳を揺らし。一枚の紙切れを前に、牡丹は拳を強く握り締め。
(本当だった……。朱雀……、ううん、鳳凰定光の言っていたことは、本当だった。
天正桐実――。
それが、ずっとずっと知りたくて、知りたくて堪らなかった男の名前。
母さんが、最後の最後まで教えてくれなかった男の名前。
憎くて、恨めしくて。絶対に復讐してやるんだと、心に誓った男の名前。
そして、一度たりとも会ったことのない、俺の父親の――……。)
感情の赴くまま、力任せに。牡丹は何度も拳を地面に打ち付ける。
じんじんと、鈍い痛みが触れ合った箇所から伝わっていき。薄らと血が滲み出るも、それにも構わずもう一発。ここ一番の力で叩き付け。
(……こんな簡単な方法で分かるなんて。アイツに教えられるまで、どうしてもっと早く気付けなかったのだろう。)
「なんで……」
「牡丹さん……?」
「なんで初めて会った従兄弟に、親父の名前を教えられないとならないんだよ……!
なんでだよ。なんで、なんで、どうしてこんな形で知らないとならないんだよ――っ!!」
(こんな薄っぺらい紙切れ一枚で、親父の名前が知れたなんて。)
あまりの呆気なさに、情けなさに。口先から吐き出されるのは、やり場のない怒りばかりで。牡丹は痛みを感じることも忘れ、ただただ拳を強く叩き続ける。
けれど、突如柔らかな感触に包まれ。その心地良さに、無意識に動き続けていた手は自然と止まり。ゆっくりと頭を上げさせていくと、不安げな色を帯びた瞳と絡み合い。
「……ごめん、紅葉。もう、大丈夫だから……」
「ごめん」と、もう一度。牡丹は繰り返させると、紅葉は小さく頷いて見せる。けれど、それでもまだ不安の色が拭い切れていない彼女の手に、彼は自身のそれをそっと添え。
冷やかな風が紅潮していた頬を撫で、興奮状態から冷めていく最中。薄ぼんやりとした瞳で紙切れを眺め続けていた牡丹だが、ふと光を取り戻させると食い入るようにしてそれを見つめ直し。
「そう言えば、天羽さんは……? 親父の苗字が天正だったなら、そしたら、天羽さんは……」
(あの人は、親父の知人だって。そう言っていたけど……。)
うんうんと、小さく唸りながら。牡丹は奥底に埋もれていた記憶を無理矢理ひっくり返し。ゆっくりと、脳内に再生させていく。
すると、至極穏やかな声が流れ始め。
『父親のことを、知りたくはないか? 残りの人生を、彼と共に過ごす気はないか――……?』
(……ああ、そうだ。確かに天羽さんはそう言って、天正家に来ることを誘われて。だから俺は、親父に会えるんだって。一緒に暮らすことになるって。てっきりそう思っていて。
なのに、実際に行ってみたら親父はいない所か、代わりに腹違いの兄弟が待っていて。そして、天羽さんが父親代わりで――。
そうだ。それで俺は、てっきり自分が早とちりして勘違いしたんだと。天羽さんが養父になることだったんだと、思い直したけど。だけど、やっぱり天羽さんは養父ではなくて。
だったら、)
「だったら、天羽さんは一体何者なんだ――……?」
どういうことなんだと、繰り返させるが。その疑問に答えてくれる者は誰もおらず。
日が沈み、空の色が灰色に染まっていくも。いつまでもそれは蟠りとなって牡丹の中で残り続けた。
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