第161戦:小山田の 池の堤に さす柳
夕食も済み、一段落した空気が家全体に流れている中――……。
牡丹は若干湿り気の残った髪をタオルで乱暴に拭きながらも、とある部屋の前で立ち止まり。深呼吸を繰り返すこと、数回。
意を決すると、目の前の扉を手の甲で軽く叩く。それから、ゆっくりと開いていき。
「あの、梅吉兄さん。少し話があるんですけど……」
そう言いながら部屋の中に入ると、ベッドの上で寝転がっていた梅吉は上半身だけ起こし上げる。
「おう、なんだ? やけに深刻な顔して。もしかして、紅葉ちゃんに告られたか?」
「どうしてそのことを知っているんですか!? ……って、そうなんですけど、そうじゃなくて」
くすりと気味の悪い笑みを浮かばせる梅吉に、牡丹は一瞬の内に顔を真っ赤に染めさせる。
そんな彼の態度に、梅吉はきょとんと目を丸くさせ。
「あれ、冗談のつもりで言ったんだけど。ふうん。まさか、本当だったとはなあ」
「そうか、そうか」としつこい梅吉に、牡丹はますます顔を赤らめさせ。
「だから、そのことはいいんですって! それより、俺の話を聞いて下さいよ」
「はい、はい。悪かったって。それで、一体どうしたんだよ?」
一拍置いてから瞳の色を変えさせる兄に、牡丹はごくんと生唾を呑み込ませた。
暗転
「ふうん、成程。戸籍ねえ」
「その手があったか」と、半ば感心げに。梅吉はじろじろと例の用紙を眺める。
それから一寸考えた末に、口を開かせ。
「それで。牡丹はどうしたいんだ?」
「どうしたいって……」
「こうしてちゃんと戸籍があるってことは、少なくとも俺達の親父はまだ生きているってことだろう。そして、ずっと養父だと思っていたじいさんは、実は正式にその手続きを踏んではいなかったと。
このことをネタに、じいさんに知っている情報全てを吐かせさせられるとは思うが……。今の生活と引き換えに訊き出すか?」
「どうする?」と、もう一度。問い直す梅吉の瞳を、牡丹はじっと見つめるも。責められているような感覚に、つい怖気付いてしまう。
そんな兄に、動揺を隠せる訳もなく。素っ裸にされた気分のまま、牡丹はただ口を小さく動かし。
「俺は、俺は……」
(確かに梅吉兄さんの言う通りだ。このことを問い質せば、きっと俺も、俺達も、今まで通りではいられなくなる。だからこそ、なかなか天羽さんに訊けずにいたんだ。
今の生活と引き換えに、か。……それでも、俺は。)
「俺は、やっぱり確かめたいです――。
確かにこの生活を壊すのが怖くて、天羽さんに禄に話を訊けないでいたけど。でも、たとえそうなってしまうとしても、ここまで知ったのなら最後まで知りたい。それに、定光のことも気掛かりですし……」
牡丹は、すっ……と目を伏せさせ。
(ああ、そうだ。定光は宣戦布告に来たって、そう言って。一体何を企んでいるのかは分からないけど、良い予感はしなかった。
ここで天羽さんに訊かなくても、きっとまたアイツが現れて。アイツの口から聞かされるくらいなら、)
それよりだったらと、思わず拳に力が入り。牡丹はそのまま、ぎゅっと強く握り締める。
一方の梅吉は、こてんと首を軽く傾けさせ。
「そっか」
「『そっか』って……。それだけですか?」
「なんだよ。そしたら、なんて言ってもらいたいんだ?」
「別にそういう訳ではありませんが。やけにあっさりしていると思って」
想像していた反応との差に、牡丹は思わず面食らい。呆気に取られるが、梅吉は相変わらず飄々としており。
「じいさんに問い質すかどうかは、明日、家族会議を開いて決めるとして。このこと、俺以外には話したか?」
「いえ、梅吉兄さんにだけです」
「そうか。まあ、定光も色々と知っているようだから、アイツにばらされちまうことを考えれば、どの道じいさんも吐かざるを得ないだろうよ。
それにしても。まさか、あの定光と俺達が従兄弟同士だったとは」
未だに信じられないのか。訝しげな面を浮かばせる梅吉に、牡丹もつい同意してしまい。彼と対面した時のことを思い返すが、やはり実感が湧かない。
もやもやとした気持ちをそのままに、話はそこで区切れ。牡丹は乾き切っていない髪を再びタオルで擦りながら。運命の一夜を前に眠れるだろうかと、そんなことばかりを考えた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
翌日、予想通りほとんど眠れなかったにも関わらず。それでも末っ子に乱暴に起こされ。いつも通り、痛む腹を慰める所から牡丹の一日は始まり。
その後も、いつもと変わらない日常を繰り返すが、気持ちだけは高まっていく一方で。学校から帰宅し、夕食の準備が整うのを待つ間も、あまりの彼の落ち着きのなさに、梅吉は呆れ顔で彼の腹を肘で軽く小突き。それから、耳元に顔を寄せさせ。
「おい、牡丹。少しは落ち着けよ。会議は芒が寝てからだからな」
「分かっていますよ。でも、体が勝手に……」
ひそひそと内緒話をしていると、ふと台所の方で藤助が声を上げ。
「よし、できた! ごめん、肉を煮込むのに時間が掛かっちゃったや。
それじゃあ、食べようか」
「藤助お兄ちゃん。菊お姉ちゃんがまだ帰って来ていないよ」
「えっ、まだだっけ? この時間になっても帰って来ていないなんて」
何かあったのではと、藤助が時計を眺めて不安がる矢先。プルル……と、冷たい電子音が部屋中に響き渡る。
藤助はエプロンで軽く手を拭くと、電話の受話器を取り。
「はい、もしもし。天正ですが」
「……藤助兄さん?」
「その声は、菊っ――!?
もう、一体どこにいるの? 連絡も寄越さないで。どこで何をしているの?」
電話の主が分かるなり、一方的に話し出す藤助だが、しかし。それを遮るよう、菊も負けじと声を発して。
「藤助兄さん。……私、もう帰らないから」
「え……、帰らないって……」
「私、結婚することにしたから。これからは、その人の所で暮らすから。だから、家にはもう帰らないから」
「へ……、え……。結婚って、暮らすって。さっきから一体何を言って……」
「そういうことだから。
……それじゃあ」
「それじゃあって、菊? ちょっと、菊? 菊ってば!?」
「菊!」と藤助が何度も呼び掛けるが、それはなんの意味もなさず。ツーツーと、無機質な音ばかりが彼の鼓膜を震わせる。
すっかり持て余してしまった右手を彼は暫くの間、宙に浮かせていたものの。結局はその手を――、受話器を掴んでいた手をそっと下ろさせ。
「どうした、藤助。今の電話、菊からだったんだろう? なんて言っていたんだ?」
「それが、結婚するからって。今後は、その人の所で暮らすから。もうこの家には帰らないって……」
「はあ、結婚だあ? ふざけているのか?」
「ふざけてなんかいないよ! 菊がそう言ったんだ、俺だって意味が分からないよ」
藤助は、すっかり混乱しているのか。おろおろと、右へ、左へ。行ったり来たりを繰り返す。
そんな彼を、牡丹等は首を傾げさせたまま見守るばかりで。
「やっぱり菊にもう一度、ちゃんと訊いてみるよ。電話、電話っと……。
あっ、菊! ……って、え……、なんで……?」
「今度はどうしたんだよ?」
「それが現在使われていない番号だって。ちゃんと菊の携帯に掛けたはずなのに……」
ますます困惑顔を深めさせる藤助だが、彼の服の裾を芒がくいくいと軽く引っ張り。
「芒? どうかしたの?」
「お兄ちゃん、あれ。あの男の人の隣にいるの……」
そう言う芒の小さな指先を目で追っていくと、テレビの画面へと辿り着き。彼等はじっと、目を凝らしてそれを眺める。
すると、淡々とした音声が箱の中から流れ出し――。
『本日、俳優の朱雀光定さんが、婚約発表をしました。お相手は、一般女性とのことで――……』
「え……、へ……?」
「おい、おい。まさか……」
「あれって、菊……ですよね……?」
ぱちぱちと、何度も瞬きを繰り返させ。食い入るよう画面を眺め続ける牡丹達だが。そこに映っている一人の少女を――、見覚えのある、いや、あり過ぎる彼女を前にして。
一体どういうことなんだと、呆然とした顔をそのままに。珍しくも彼等の思いは、一つに重なっていた。
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