第157戦:鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の
ずどんと鈍い音に続き、埃が軽く舞い上がり――……。
鼻先で絡み合う瞳に、鼓動は勝手に速まり。体温は必要以上に上昇していく。
どくどくと、心臓の音ばかりが頭の中に強く鳴り響く中。
(落ち着け、俺、落ち着くんだ。)
理性を保つんだと、強く自身に言い聞かすも。脳内は沸騰し、目はぐるぐると回るばかりで。
紅葉の瞳には、相変わらず自身の情けない面がありありと映り込んでおり。それを見つめ返しながらも、萩は無理矢理生唾を呑み込ませた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
一方、同時刻。その外側では――。
「おーい、萩。プリント、持って来てやったぞー」
半ば渋々ながらも、紙の束を片手に。牡丹は萩の部屋のチャイムを鳴らす。軽く戸も叩いてみるが、一向に反応はなく。
「なんだよ、アイツ。せっかく来てやったのに。もしかして、寝ているのか?」
風邪を引いているのだから当たり前かと、彼は直ぐにも考え直すが、しかし。どうしたものかと試しにドアノブに手を掛けると、扉は自然と開いていき。
「あれ。開けっ放しにするなんて。不用心だなあ。
おい、萩ってば」
入るぞと一応断りを入れ、靴を脱ぐと。牡丹は短い廊下を進んで行き、直ぐにも差し迫った戸を開ける。
が、扉の隙間から飛び込んできた光景に――、想像もしていなかった目の前の情景に。自然と足が止まってしまうも、数拍の空白の後、彼は再び歩を進め。持っていた紙の束を萩へと押し付け。
「これ、今日配布されたプリント。ちゃんと渡したからな」
それだけ言うと、牡丹は背を向け。そのまま後ろ手に扉を閉める。
靴を履き直し、来た時と変わらぬ歩調で一段ずつ階段を下りて行くが。
(なんだよ、紅葉の奴。俺のこと、好きだって言った癖に。萩とそういう関係だったなんて、全然知らなかった。
……なのに、ずっと気にしていたなんて、)
「馬鹿みたいじゃないか――」
最後の一段を下り終え。地面に足が着くと、牡丹は通りの向こうに見える我が家へと進んで行こうとする。が、不意にどたどたと鈍い音が遠くの方から鳴り響き。
何事かと振り向くと、肩を上下に激しく揺らし、二階の階段の手摺に必死の形相でしがみ付いている萩の姿が見え。
「牡丹、てめえっ……!
おい、ちょっと待てよ!」
「なんだよ、うるさいな。お前、寝ていなくていいのかよ。具合、悪いんだろう?」
「悪いに決まっているだろう! 風邪引いているんだ……って、そうじゃなくて。
お前、勘違いしているだろう」
「はあ? 勘違いって、なんのことだよ。
大体、具合が悪いなんて言って、随分と元気そうに俺には見えたけどな」
「だから、違うって言っているだろう!」
「何がどう違うんだよ。大体、お前と紅葉がどこで何をしていようと、俺には全然関係ないしな」
「お前なあ! いい加減にっ……」
おそらく、「しろ」と続けるつもりだったのだろう。けれど、その言葉が紡がれることはなく。
代わりに萩の身体が、ぐらりと大きく揺れ動き。続いて、ずだだだだんっ……! と、鈍い音がその場一帯に響き渡る。
目の前に転がり落ちて来た大きな塊に、牡丹はおそるおそる、近付いて行き。
「萩……? おい、萩? 萩ってば、おい!?」
いくら牡丹が呼び掛けても、返って来るのは荒い息遣いばかりで。
暗転。
薄暗い閑散とした廊下で、牡丹は跋の悪い顔を浮かばせたまま。
「あの、藤助兄さん」
言い辛げに、それでも切り出すと、済みませんでしたと彼は軽く頭を下げる。
彼の傍らには、目元を赤く腫らした紅葉の姿があり。そんな彼女の痛々しい様に、藤助は湿った息を一つ吐き出させる。
「いいよ、これくらい。でも、萩くんが階段から転がり落ちたって聞いた時は、びっくりしちゃったよ。軽い捻挫程度で済んで良かったよね」
「はい、そうですね」
「支払とか手続きは俺がしておくから、二人は先に帰りな。
牡丹、もう暗いから、紅葉さんのこと、ちゃんと家まで送ってあげるんだよ」
「分かったね?」と、強く念を押されてしまい。牡丹は頷く以外に他はなく。二人は微妙な距離を置きながらも病院を後にし、同じ方向に向かって歩き始める。
が。
(どうしよう……。)
なんだか気まずいと、牡丹はふよふよと適当に視線を宙に泳がせ。時折、斜め後ろを付いて歩いて来る紅葉へと向けさせる。
彼女の顔色を窺うよう、彼はちらちらと盗み見るが、はっきりと読み取ることはできず。
(萩と紅葉が別になんでもないってことは、分かったけど……。好きだって言われて、その後、どうしたらいいんだ?
普通だったら付き合うとかそういうことなんだろうけど、でも、別に付き合ってくれとは言われていなくて。なのに、返事をするのも、なんか変な感じだよな。
一体どうしたら……。)
いいのだろうと、牡丹は必死に頭を捻らせ続けるが。良い考えは、何一つ思い浮かばず。
それでもうだうだ考え込んでいると、紅葉が遠慮深げに、
「あの……」
と、小さい声を発し。
「この前のことですけど……」
紅葉は俯いたまま、口を開かせ。
「気にしないで下さい」
「え……?」
「この前、私が言ったことは、気にしないで下さい。私が勝手にそう思っているだけで、だから……」
「気にしないで下さい」と、もう一度。紅葉は変わらぬ調子で繰り返す。
牡丹は一瞬、呆気に取られるも。微弱ながらも震えているその肩を、じっと見つめながら。
「あのさ、その。そのことだけど、さ。俺、あんなこと言われたのって、初めてで。だから、なんていうか……。
俺は誰のことも好きにならないって、独りで生きていこうって、ずっとそう思っていて。だから、誰かからそんな風に思ってもらえるなんて、ちっとも想像したことがなくて。紅葉にそう言ってもらえて、悪い気はしなくて。だけど、今は桜文兄さんのこととか、菊のこととか、特に菊は俺の所為なのもあって、このままにしておくことはできなくて。だけど、どうしたらいいのか分からなくて……って、自分でも何を言っているのか、よく分からないけど……」
こんがらがっている頭の中を解いていこうとするものの。解こうとすればするほど、ますます絡まっていく一方で。
未だ整理が付いていないながらも一つ深呼吸すると、引き続き牡丹はゆっくりと口角を上げさせていき。
「とにかく、ごめん。今はまだ、ちゃんとした答えが出せない――」
口を閉ざすと同時、ずっと隠れていた紅葉の顔が、朧ながらも瞬いている月の光によって晒される。その光を燦爛と反射させていた瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ出し。
「も、紅葉!? あの、本当にごめん。でも、俺……、」
「いえ、ちがっ……。そんなに真剣に考えてくれたのが、嬉しくて……。
すごく、すごく、嬉しくて……」
「それだけで、十分です」と、ふわりと柔らかな笑みを浮かばせる紅葉を前に。
「うん……、」
と、一言。淡い月光を浴びながら、牡丹はどうにか喉奥から絞り出した。
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