第155戦:奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の

「俺はてっきり、牡丹に昨日の返事を訊きに行ったものだとばかり……」



「思っていました」と、続けるよりも先に。きょとんと目を丸くさせる紅葉を前にして。萩は、しまった――!? と、心の内で思い切り叫ぶが、時既に遅く。不穏な空気が漂う中。彼の額からは、だらだらと大量の冷や汗が流れ出す。


 それを拭う暇なく、萩は口を開かせ。



「えっと、あの。済みません。その、決して覗くつもりはなくて。偶然通り掛かって、それで……」



 しどろもどろながらも、言葉を紡ぎ。彼は懸命に弁解する。


 すると、一方の紅葉は、あまりの彼の必死さに反って途惑ってしまうも。



「そうですよね。萩さんの家、牡丹さんの家の近くですもんね」



 納得はしたものの、しかし。紅葉の顔は、赤一色に染まっており。もじもじと、指先を弄り出す。


 今度は気まずい空気が流れ始め。萩は顔を歪ませたまま、どうしたものかと悩んでいると、ふと甲高い音が耳を掠める。



「えっと、その……。牡丹さん、恋愛事が好きではないって。前にそう言っていたのを聞いてしまって。それに、私がそう言ったら。牡丹さん、酷く困っていたみたいですし。だから……。

 返事とか訊くつもりは全然なくて。私が勝手に思い続けていたいなって……」



 時間の経過と共に、彼女の声は徐々に小さくなっていき。終いには頼りなさげな、哀に満ちた笑みを添えさせる。


 そんな彼女を前にして、萩は下唇を噛み締めるも。ゆっくりと、その歯を離していき。



「……俺の親父、前に海外に転勤したと。そう言いましたが、来年には帰国します。なので、俺、内部進学はしないで、東京の大学に進学するつもりです」


「えっと、それってつまり、東京に帰ってしまうということですか?」


「はい。そして、その時は……。

 その時は、牡丹も一緒に連れて帰ります」



 刹那、紅葉の瞳が、一層と大きく見開かされていく。彼女は息をするのも忘れ、ただただ萩の冷やかな瞳を見つめ返す。


 けれど、萩は一拍置かせてから、再び唇を離していき。



「それが、あの人との約束だから――……」


「あの人って……」



 紅葉は一度、瞳を閉じるも。引き続き、萩のそれを見つめ続ける。


 萩も紅葉の視線を受けながら、調子を整えると直ぐにも続きを語り出す。



「俺と……、いや、牡丹の母親です。彼女が死ぬ間際に俺に託したんです。これからも、牡丹のことを頼むって。

 あの人には、分かっていたんだと思います。自分が死ねば、天羽とかいう男が――、今の牡丹の養父が訊ねて来ることが。そして、牡丹を連れて行ってしまうことも。

 俺は散々反対しましたが、牡丹が俺の言うことを聞く訳がなく、親父も親父で、牡丹の好きにさせろと。結局あの養父の思惑通り、一度は牡丹を取られてしまいましたが、それでも、きっとまだ間に合う。

 どんな理由で母さんが牡丹を引き止めて欲しかったのか、未だ分からないままですが、それでもこの暮らしを続けていれば、いずれはアイツを不幸にするだけだと。俺にはそう思えるんです。それに、あの養父のことは、ちっとも信用できません。あの男は牡丹を連れ出す口実に、親父のことを持ち出して置きながら、牡丹は未だ父親とは会えていないと言っています。だから」



 萩はますます瞳を鋭かせ。逃がさないとばかり、一ミリも逸らさせることなく彼女を捕え続け。



「牡丹は絶対に、俺が一緒に連れて帰ります。いずれは自分の前から姿を消すと分かっていても。それでもアイツのこと、思っていられますか――?」






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 冷やかな風をその身に受けながらも、萩は一人ベンチに座り込み。暮れかけた空を見上げさせる。


 薄紫色を、その瞳いっぱいに映し。



「なに、言っているんだろう。これじゃあ、ただの負け惜しみじゃないか……」



(紅葉さん、面食らっていたけど。そりゃあ、そうだよな。突然あんな話をしちまったんだ。

 でも、牡丹を連れて帰るのは本当のことで。そしたら紅葉さんは、俺のことを……。)



 恨むだろうかと、虚ろな瞳を揺らし。考えてみるも、頭を過ぎるのは小憎たらしい男の顔ばかりで。


 萩はその場に立ち上がると、思いっ切り息を吸い込み、そして。



「ああっ、くそうっ! なんでいつも、いつも、選りにも選って牡丹なんだよ!? 俺の方が、絶対に紅葉さんのことが好きなのに!! 本当に、どうしていつも……。

 あーっ! 好きだ、好きだ、好きだーっ!!」



 激しく肩を上下に揺らし、萩は乱れた息を整えさせる。煮えたぎっていた血の気も次第に落ち着き、冷静さを取り戻すと。



「馬鹿みてえ……」



 ぽつりと口先で呟き、惨めさに浸っているも。彼は帰るかと、そのまま出口に向かって一歩足を踏み出す。


 けれど、その瞬間。萩の肢体は、後ろに大きく飛び退き――。



「ひいっ!?? ももも、紅葉さん……!?」



 その喉奥から、素っ頓狂な音が漏れる。



(なんで、どうして紅葉さんがここに!? さっき、帰ったはずでは……って、もしかして。今の、聞かれていた――!??)



 萩は、蒼白く染まった顔をそのままに。ひくひくと、頬を思い切り引き攣らせる。


 おそるおそる、痙攣している口をそれでもどうにか動かし。



「あ、あの。紅葉さん……? 今のは、その、えっとですね……」


「あ、あの……」


「はいっ!?」


「これ、本当は菊ちゃんに作った物なんですけど、渡せなくて。それで萩さん、クッキーが好きみたいだったので、良かったらと思って」


「あ、ありがとうございます。

 あの、紅葉さん。その……」


「済みません。私、もう行かないとっ……!」



 そう言うと、萩が咄嗟に伸ばした手を、紅葉はひらりと躱してしまい。一歩、また一歩と、彼から遠ざかって行く。


 取り残された萩は、すっかり行き場を失ってしまった手をどうすることもできず。遠くで烏が鳴いている中。無意味にも宙に漂わせ続けた。

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