第154戦:濡れてやひとり 鹿の鳴くらむ

 弱々しい街灯だけが頼りの、薄暗い公園内で。牡丹は立ち止まったまま、首だけを後ろに回す。そして、背中に張り付いている紅葉を見つめ。



「好きです、私、牡丹さんのことが好きです――……」


「え……」


「牡丹さんのことが、好きです……」



 彼女の震える声をどこか遠くに聞きながら。牡丹はただ、茫然とその場に立ち尽くす。


 未だ現実味のない現実に、なかなか向き合うことができず。それでも時は徒に、刻一刻と過ぎて行く。


 夜風が軽く頬を撫で、その冷たさに思わず身が震えたことにより。これが現実なのだと受け入れられると、牡丹は一寸考えた末、漸く口を開かせ。



「えっと、紅葉……?」



 だが、やっと喉奥から出てきたのは、朧で曖昧な物であり。自分でもどうかと思いながらも、かと言って、それ以上の言葉が浮かぶこともない。


 牡丹はもう一度、情けなさを感じながらも口角を動かし。



「紅葉。あのさ、その、えっと、えっと……」



 けれど、やはり先に進むことはなく。牡丹は何度も片言に、無意味な言葉ばかりを繰り返す。


 しかし、それは決して無駄な行為として終わることはなく。紅葉は我に返るや、先程までずっと掴んでいた牡丹のコートの裾からぱっと手を離し。



「あ、あれ。私、私……」



 紅葉の顔は一瞬の内に、熟したりんごみたく全面真っ赤に染まっていく。彼女のその反応は、自然の摂理とばかり。気付けば牡丹にも伝染していき。


 頬に集まる熱に半ば酔いそうになりながらも、彼は軽く頭を左右に振って覚まさせ。



「取り敢えず、今日は帰ろう。真っ暗だし、家の人が心配するだろうし」



 牡丹が諭すと、紅葉は紅潮とした顔をそのままに、小さく頷いて見せ。



「それでは……」



 小さな声でそう呟くと、紅葉は一人小走りで反対の方向へと駆けて行く。


 その後ろ姿を牡丹は暫くの間、地に足が付いていない感覚で立ち続けながらも見送り。見えなくなると、再び家に向かって歩き出す。


 別段長い時間であった訳でもないのに、なんだか途方もないくらい時間が経ったように彼には思え。残ってしまった蟠りを処理し切れぬ内に、気付けば家に着いており。中に入るや、いつもの如く。台所から藤助が顔だけを出した。



「おかえり、牡丹。今日はいつもより遅かったね」


「えっと、はい。ちょっと色々あって……」



 藤助は、自身から訊ねて置きながら。然程興味もなかったのか。「そっか」と一言、簡単に流す。


 そこで会話が途切れると、牡丹は最後に食卓の椅子に座り。いつも通り、そのまま夕飯を食べ。いつも通り、風呂に入り。そして、いつも通り宿題を片付けると、もう寝るかとベッドに横たわる。


 が、ここで漸く、いつもなら簡単に夢の世界へと誘われるはずが、なかなか寝付けず。無駄にごろごろと、右へ、左へ、寝返りを繰り返す。


 けれど、それでもなかなか眠気が襲って来ることはなく。暗闇の中、それでも牡丹は天井を見上げ。じっと、とある一点を見つめ――。



(俺のこと、好きだって。紅葉はそう言ったけど。もしかして、俺のことをからかっているのか?

 いや、でも、紅葉はそういうタイプじゃないし。だけど、俺のことが好きって、そんなこと。

 ……やっぱり信じられないよな。

 だって、紅葉は菊の――、妹の友達で。そんな風に思われているなんて、ちっとも想像したことがなくて。

 紅葉は一体、俺のどこが好きなんだろう。)



 頭を捻らせ、考えてみるも。いつまで経っても答えは出ず。かちかちと時計の針が動く音が、急かすみたく部屋中に響き渡る。


 その音に耳を傾けるも、意識は反って冴えていくばかりで。



(もしかして、俺の聞き間違いか? 本当は好きじゃなくて、ええと、ううんと、……なんだろう。)



「やっぱり、よく分からないや……」






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






「おーす! 牡丹……って。どうしたんだよ、目の下のクマは」



 教室に入るなり、声を掛けて来た竹郎へ。牡丹はげっそりとした顔を彼に差し向けながらも、

「ちょっとな……」

と、適当にはぐらかす。それに対し、これ以上追及する気はないのか。竹郎は、ふうんと上辺だけの相槌を打つばかりで。


 それを余所に牡丹は自分の席に着くと、一つ小さな息を吐き出させる。



(結局、)



 昨日は全然寝付けなかったなと、上手く回らない頭を揺らし。そのままこてんと、机に突っ伏す。


 けれど、またしても竹郎が小声ながらも口を開かせ。



「そういやあ、足利も様子が変なんだよなあ」


「萩が?」


「ああ。ほら、あれだよ、あれ」



 竹郎に言われ、ぐらぐらと揺れる頭をそのままに。牡丹はどうにか机から上げさせると、彼の指の先を追って行く。すると、竹郎の言う通り、そこには虚ろな瞳をした萩の姿があり。



「本当だ。アイツ、どうしたんだ?」


「さあ。朝からずっとあんな調子なんだよ。話し掛けても上の空でさ」



「不気味なんだよな」と気味悪がる竹郎に、牡丹も同意し。遠くから、そっと見守るスタンスを取ることに決め込む。


 一方、気味悪がられている萩だが、彼は深い息を吐き出させ。



(紅葉さんの……、紅葉さんの告白シーンを……。)



 見てしまうなんて――! と、一層色濃い影を背負う。


 半分生気が抜けたまま、未だ焦点の定まらない目で窓越しに空ばかりを眺め。



(帰り道の公園で、紅葉さんを見掛け。つい走り寄ってしまった、昨日の自分を恨みたい……。

 牡丹の野郎、返事はしていなかったようだが、一体どうするつもりなんだ? まさか、前に与四田が言っていた通り、オーケーする気なんじゃ……!? いや、いや。あの牡丹に限って、そんなこと……。ある訳ないじゃないか。ああ、そうだ。そうに決まっている。

 それにしても。紅葉さんが告白するとは。)



 思ってもいなかったと、萩は再び昨夜のワンシーンを思い出してしまい。更に精神的にダメージを受ける。


 その傷が癒えないまま、いつの間にか放課後になっており。萩はとぼとぼと一人、帰路を歩いて行く。


 が、公園に差し掛かった所で、彼の足は自然と止まり。



「紅葉さん……」


「あっ、萩さん」



 彼の存在に気が付くと、紅葉はその場で足を止め。軽く頭を下げて見せる。それにつられ、萩も頭を下げ返すものの。



(どうして紅葉さんがこんな所にいるんだ? もしかして、牡丹に会いに……。だが、今の時間、アイツならまだ部活中で、学校にいるだろうし。)



 萩は思わず眉を顰め。じろじろと、食い入るように紅葉のことを見てしまう。


 不審面を突き付けられた彼女は、思わずたじろいでしまい。



「あの、どうかしましたか?」


「へっ!? いえ、なんでもありません。それより、紅葉さんはどうしてこんな所に? もしかして、牡丹に用ですか?」


「いえ、私は菊ちゃんに会いに」


「あ、そうですか。牡丹の妹に。俺はてっきり、牡丹に昨日の返事を訊きに行ったものだとばかり……」



「思っていました」と、後を続けるよりも先に。きょとんと目を丸くさせる紅葉を前にして。萩は、しまった――!? と、心の内で思い切り叫ぶものの、しかし。時既に遅く。


 不穏な空気が漂う中、萩の額から。だらりと冷ややかな汗が、己の意思とは無関係に流れ落ちた。

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