第149戦:桜花 今ぞ盛りと 人は言へど
人気のない裏庭にて――……。
ぽつんと一人、立っている桜文の元に、乱れた息を整えながらも一人の女生徒が寄って行き。
「済みません、遅くなっちゃって……」
「ううん、大丈夫だよ。俺も来たばかりだから。
あっ、そうだ。お見舞い、来てくれてありがとう」
「いえ、そんな。先輩、元気になったみたいで良かったです」
未だ整わない息をそのままに。万乙は、ふわりと笑みを浮かばせる。それに釣られるよう桜文も薄らと微笑を浮かばせるが、その余韻を残したまま。
「あのさ。約束していた返事だけど……」
一度、そこで口を閉ざすが、直ぐにもまた開かせ。
「ごめん。やっぱり俺、万乙さんとは……、ううん。今はまだ、誰とも付き合えない――……」
刹那、二人の間に。さああっ……と、一筋の風が流れる。
それにより乱れた髪を万乙は軽く手で直しながらも、
「いえ。なんとなく、分かっていました」
「え……」
「だって先輩、私といる時、いつもどこか遠くを見ていましたから」
「遠くって、えっと、そうだった?」
「はい。それに、先輩はいつもそう言って断るって、噂で聞いていて。なので、別に私、始めからお付き合いできるなんて思ってもいなくて。ただ自分の気持ちだけ、伝えておこうと思ったんです。先輩、もう直ぐ卒業しちゃうから。だから。
この数週間、先輩と過ごせてとても楽しかったです」
「ありがとうございました」と、後を続けながら。万乙はぺこりと頭を下げる。
彼女が顔を上げるとその動きに合わせ、うさぎの耳に似た髪の束が軽く揺れる。が、心なしか、それはへにょりとしょげているように感じられ。
けれど、それでも万乙は笑みを取り繕い。
「あの。お願いしていた手紙、……持って来てくれましたか?」
「うん。これだよね」
桜文はポケットの中に手を突っ込むと、一枚の白い紙を取り出し。それを彼女へと手渡す。すると、万乙は受け取るなり、一瞬の躊躇もなく。びりびりと、細かく紙を裂いていき。散り散りになったそれを、ばっと天に向かって放り投げた。
紙の屑は、ひらひらと。風に乗り、四方へと散っていき。その破片の行方を、万乙は柔らかな眼差しで見つめながら。
「どれくらいの時間が掛かるかは分かりませんが、紙はいつか自然に還ります。あの手紙と同じように、私の先輩への気持ちもきっと……。
この二週間、先輩と過ごせてとても楽しかったです」
「あのさ。最後に一つだけ、訊いてもいい?」
「はい、いいですよ」
「どうして俺だったの?」
「……私、昔、先輩に助けて頂いたことがあるんです。階段で躓いて、足を挫いてしまって。動けないでいた所を、保健室まで運んで頂いて……。
先輩にとっては些細なことだったかもしれませんが、私にとっては大切な思い出です」
「本当にありがとうございました」と、彼女はもう一度、頭を下げ。それから屈託のない笑みを浮かばせた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
一人きりになったその後も、暫くの間。桜文はいつまでも風に頬を撫でられながらも立ち尽くしていたが、急に校舎に向かって走り始め。その勢いを殺すことなく、とある教室の扉を開け放つ。
突然の部外者の乱入に、教室中の視線が自然と彼へと集まり。けれど、それにも関わらず、桜文は奥へと進んで行くと、一人の女生徒の腕を掴み取り。
「ごめん、ちょっと来て」
手短にそれだけ言うと、彼は彼女の腕を引っ張って。そのまま教室から出て行く。
適当に歩き続け程良い教室を見つけると、その中へと入って行き。やっと立ち止まり、その女生徒の――、菊の方を振り向くが、彼女の表情は酷く歪んでおり。
「手、痛い」
「あっ、ごめん」
彼女に訴えられたことにより、漸く気が付くと桜文は掴んでいた手を離す。
しかし、菊の表情が変わることはなく。
「なに? 稽古中なんだけど」
「うん、ごめん。でも、直ぐ終わるから。……あのさ。今日、久し振りに一緒に帰ろうか」
「……なんで?」
「なんでって、何が?」
「なんでそんなことを言い出すの?」
「それは、一緒に帰りたいからでは駄目かなあ?」
「なんで一緒に帰りたいの?」
「え? えっと、菊さんの方こそ。なんでそんなこと訊くの? 兄妹で一緒に帰るのに、そんなに理由が必要なの?」
そう問い掛けるも、菊は質問には一切答えようとはせず。
いつまでも閉じられたままの唇に、先に折れたのは桜文の方であり。
「あっ、そうだ。帰りにアイスでも食べようか。ほら、いつものお店のジェラート店で。菊さん、好きだよね。どうせならトリプルにしてさ」
「……そんなにアイスが食べたいなら、あの人と行けばいいじゃない」
「あの人って?」
「……」
「えっと、もしかして万乙さんのこと?」
桜文が訊ねるも、やはり菊は黙り込んだまま。何も言わず。
彼はどうしたものかと考え込むが、跋の悪い顔をさせたまま。
「うんとさ、万乙さんとは、もう帰れないんだ。そのー……、断っちゃったから」
その返答に、菊は一瞬息を詰まらせるが。いつもと変わらぬ調子で、花弁みたいな口を開かせ。
「どうして断ったの?」
「それは……。やっぱりそういうの、性に合わないなって。今はまだ誰かと付き合うとか、そういうの、別にいいかなって。そう思って」
「本当に、それだけ?」
「うん、それだけ」
「それだけ」と、桜文は微笑を添え。口先で小さく繰り返させる。すると、菊は不意に俯き。それから背を向けると、扉に向かって足を踏み出す。
が、そんな彼女の腕を桜文は咄嗟に掴み。そのまま自身の方へと引き寄せ。
腕の中に閉じ込めたまま、彼は彼女の首元へと顔を埋め。
「なんで、どうして逃げるの? ずっと俺のこと、避けているよね」
桜文が問い掛けるも、いつまで経っても空白ばかりが続き。けれど、返事の代わりとばかり。菊は、こてんと桜文の胸板に頭を預け。
「菊さん……?」
「嘘吐き……」
「え……」
「私は、桜藺じゃない――……」
刹那、下半身に鈍い衝撃を感じ。桜文は、ずるずると頼りなしげにその場に崩れ落ちる。
肢体を丸め、そのまま床に這い蹲るも。どうにか顔を上げさせると、菊の背中ばかりが遠くに見え。
それに向かって手を伸ばすが、結局は何の意味もなさず。虚しくも、時間の経過と共に遠ざかって行くばかりであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます