第148戦:憂き世になにか 久しかるべき

 冷やかな外気に、身を小さく縮めさせ。けれど、その肢体を覆っている温かな布団に、安っぽいながらも至福に浸る牡丹。


 けれど、ささやかな幸福も束の間。



「牡丹お兄ちゃん、おっきろー!!」


「ぐふ――っ!?」



 一瞬の内に、全てを打ち壊され。その上、容赦なく布団までも引っ剥がされてしまう。


 いきなり触れた寒気に加え腹が痛む一方、牡丹は小刻みに震えるが。



「朝だぞ、おっきろ! 牡丹お兄ちゃん、早くおっきろ! おっきろ!」


「分かった、分かったから。起きるから早く退けよ」



 しっしと猫を払うみたいに。手を振るい、痛む腹を押さえながらも牡丹は渋々上半身を起こし上げる。


 自身とは裏腹、とたとたと上機嫌で部屋から出て行く弟を、一層と恨めしく思い。



「ったく、芒の奴。今日は一段と強く乗っかりやがって……」



 お陰でいつもより痛みが取れないと、ぶつぶつと愚痴を溢しながらも手早く制服へと着替え。一段ずつ、階段を下りて行く。


 が。



「あ……、」



(菊……。)



 一瞬だけ、目が合うも。菊は直ぐに顔を反らす。しかし、以前までなら頭にきていたその態度は、今では最早安堵感を覚えるばかりであり。


 いつまでこんな状況が続くのだろうかと、あまりの果ての見えなさに。玄関の戸を潜り抜けて行ってしまう彼女を牡丹は黙って見送りながらも思わず一つ、深い息を吐き出してしまうと同時。



「どうしたの? 菊さんと喧嘩でもしたの」


「うわあっ!!? は、桜文兄さん!? いつからそこに……」


「いつって、今だけど。なあ、芒」



 桜文が促すと、「そうだよ!」と。芒は手を高く上げ、一人先にリビングへと入って行く。


 二人切りの状況に、牡丹は急にそわそわと。すっかり落ち着きを失くしてしまい。



「えっと」



(言えない……。桜文兄さんが原因だなんて、そんなこと……。)



 絶対に言えないと、牡丹は口を堅く閉ざし。他人の気も知らないでと、薄らとだが目の前でぼけっとしている兄を恨めしく思う。


 一寸、考えた末。



「そうですね、そんな感じです」


「そっか。女の子って、難しいよね。何を考えているのか、よく分からなくて。早く仲直りできるといいね」


「はい、そうですね……」



 他人の気も知らないでと。牡丹はもう一度、心の内で呟きながら。


 何も知らずにいる兄の手前、苦笑いを浮かばせるしかなかった。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






「兄貴、退院おめでとうございます!」


「お久し振りです、兄貴!」


「『久し振り』って、お前達。毎日病院に来ていたじゃないか」



 何を言っているんだと、首を傾げさせる桜文に。けれど、組員達は彼の話を聞くことなく。それぞれクラッカーを鳴らしたり、紙吹雪をばら撒いたりと、おおいに騒ぎ始める。挙句には、わざわざ持って来たのか。大太鼓の音までもが教室中へと響き渡る始末であり。



「あーっ、うるせえ、うるせえっ!

 おい、桜文。早くこの騒ぎを止めさせろ」


「けどなあ。アイツ等、全然俺の言うことを聞かないからなあ」


「ていうか、どうせお前等のことだ。校門前でも散々騒いだだろうに」



 いつまでこんな騒ぎが続くんだ、。手で耳を塞いでいる梅吉の願いが通じてか。キーンコーンと、予鈴の音が鳴り響き。



「やべっ!? 予鈴が鳴っちまった」


「急げ、先公が来ちまうぞ!」


「あっ、おい。こらあっ! お前等、この紙屑を片付けてから行けー!!」



 梅吉が怒鳴り散らすも、彼等は既に姿を消しており。虚しくも、ゴミ屑ばかりが後へと残る。


 眉間に刻まれた皺をそのままに、梅吉は髪に付いた紙切れを手で払い除けながら。



「ったく、これだから体育会系は嫌いなんだよ。お前もいい加減、自分の舎弟くらい言うことを聞かせろよな」


「そんなこと言われても。舎弟にしたつもりはないんだけどなあ」



 ぶつぶつと梅吉に愚痴を漏らされながらも、仕方がないとばかり。桜文は、取り敢えず目に付いた紙屑だけでもと手で掻き集め出す。


 そんなこんなで、気付けば放課後となり――……。


 流れるよう次々と教室から出て行く生徒達の波に、桜文も素直に乗ろうとするも。ふと行く末に黒い塊が立ちはだかり。



「ちょっと、桜文。一体どこに行くつもり? そっちは校門じゃないでしょう」


「藤助! どこって、ちょっと部活に……」


「部活って……。退院後も暫くは安静にって、お医者さんに言われただろう」



 藤助は、じとりと目を細めさせ。「やっぱり」と口先で小さく呟くと、彼の腕を強く掴み取り。



「ほら、一緒に帰るよ」


「少しだけ、見るだけだから……!」


「駄目! そんなこと言って、見ていると混ざりたくなるでしょう。そんなに元気なら買い物を手伝ってよ。今日は買う物がたくさんあるんだから」



 聞く耳は一切持たないと、桜文の意見を決して取り合うことなく。藤助は、ずるずると自分より大きな肢体を引き摺り出す。


 だが、一方の桜文は、籠りながらも口を開かせ。



「藤助、あのさ……」


「なに? 絶対に部活には行かせないよ」


「いや、部活じゃなくて。もう一つ、大事な用があってさ」


「大事な用……?」



 その単語に、漸く藤助は立ち止まってくれるも。訝しげな瞳はそのままで。


 その面をぐいと鼻先まで突き付けられてしまい。桜文は返事の代わりに、へにょりと太い眉を歪めさせた。






 暗転。






 藤助と対峙している桜文を余所に。同じ時分の、校舎のとある一角にて。



「牡丹、支度できたか?」


「ああ、」



「今行く」と、手短に返事をすると、牡丹はひょいと鞄を背負い。教室の出入り口付近で待機している雨蓮の元へと急ぐ。


 合流すると、二人は自然と剣道場への道程に乗り。進んで行くが、角を曲がった所で牡丹は突然鈍い衝撃に襲われ。それを真面に受けてしまった彼は、重力に逆らえることなく尻餅を着いてしまい。



「いたた……」


「おい、牡丹。大丈夫か?」


「ああ、これくらい……」



 平気だと牡丹は後を続けようとするも、その矢先。自分と同じよう、床に転がっている人物の姿が目に入ると、続きは自ずと喉奥へと引っ込んでしまい。



「あの、ごめんなさい。急いでいたもので」


「あ、いや、俺は大丈夫。それより、えっと、君の方は……」


「私は平気です! 慣れているので」


「慣れているって……」



 それはあまり大丈夫とは言わない気がすると、牡丹は思わず呆気に取られ。ぼけっとしていると、その間にも万乙は立ち上がり。



「えっと、私、急いでいるので。本当に済みませんでした!」



 もう一度、深く頭を下げると。彼女はうさぎの耳に似た髪の束を揺らしながら、慌ただしくも去って行く。


 一方の牡丹は、呆然とした面をそのままに。



(そうだ、思い出した。すっかり忘れていたけど、そうだった。

 ずっと頭の中に引っ掛かっていたのは、)



 この子のことだ――っ!?? と、心の内で思い切り叫ぶ。



(結局、桜文兄さんはどうするんだろう。確か返事をするのって、そろそろだったと思うけど。

 このままあの子と付き合うとしたら、そしたら菊は……って。)



 一拍置き。



(どうして俺が菊と兄さんのことで、こんなに頭を悩ませないといけないんだよ。別に俺には、全く関係のないことなのに。

 だけど――……。)



 心配げな表情で、雨蓮に声を掛けられ続ける傍ら。牡丹は立ち上がることすら、すっかり忘れ。


 その場に座り込んだまま、複雑な心境を処理することもできず。彼はただ、忙しない後ろ姿を見送り続けた。

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