第143戦:春さらば 挿頭にせむと 我が思ひし

 閑散とした、とある公園にて。


 ブランコに腰掛けている一人の少女を前にして、大柄な青年は一つ乾いた息を吐き出させ。



「道場、辞めちゃうんだって? 師範から聞いたよ」


「引き取られる先が決まったから。劇団も辞めるから、もう習う意味もないし」



 そう淡々と説明する菊に、桜文はただ一言。「そっか……」と、少し寂しげな笑みを浮かばせる。


 その面をそのままに、彼は小さな音を上げると、ズボンのポケットの中へと手を突っ込み。



「これ、あげる。よかったら餞別に」


「これって、でも。それに、こんなボロボロなの……」



 別にいらないと、彼女の顔には、はっきりとそう書かれてあり。けれど、桜文にとっては予想外の反応だったのだろう。ぶらんと宙に浮かばせているそれを、しみじみと眺めながら。



「確かに見た目はボロボロかもしれないけど、でも、なかなか可愛いと思うんだけどなあ、このクマ」


「全然可愛くない」


「そうかなあ。ううん、桜藺は『可愛い』って、言っていたんだけど。

 それに、このキーホルダーは、ただのキーホルダーじゃないんだよ。そうだなあ、お守りみたいな物かな」


「お守り?」


「うん。俺、これを持つようになってから、一度も試合で負けたことないんだ」



 へらりと目尻を下げ。すっかり得意気に述べる桜文だが、しかし。一方の菊は相変わらず、胡散臭いと目で訴える。


 けれど、問題の桜文は、それには一切気付かずに。へらへらと締まりのない面をさせている。



「だから、さ。そのキーホルダーを持っているだけで、強くなれるよ。ずっと持っていた俺が保証するんだ、嘘じゃないよ」


「……」


「もしかして、疑ってる? うーん、本当なんだけどなあ」



 猜疑の瞳を浮かばせ続ける菊に、桜文はぽりぽりと頬を掻き。お手上げとばかり、へらりと太い眉を動かす。


 その面を前に、菊は一寸考え込むと、ゆっくりと薄桃色の唇を開かせていき、そして。すっ……と、手だけを桜文の方に向けて出し。



「……そんなに言うなら、もらってあげる」



 風の音に掻き消されてしまいそうなほど、か細く頼りない音ではあったものの。彼女の精一杯の一言を、彼は確かに耳に留めさせ。力強く頷くと、桜文は菊の白い手の上にキーホルダーを乗せる。


 小さな掌で、クマのマスコットはころんと小さく揺れて倒れ。暫くの間、横になっているそのクマをじっと見つめる菊であったが、そっと両手で包み込みと胸の前へと持って行き。


 それから、ぎゅっと確かめるみたいに。小さなその温もりを、彼女はただ強く握り締めた。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 名もない秋の、麗かなとある日――……。



「もう、梅吉ってば! そんな恰好で歩き回らないでって、いつも言っているでしょう」


「なんだよ。別にいいじゃねえかよ、これくらい。それに俺、人に見られて恥ずかしい身体していないもーん」



 一つとして反省の色を見せない梅吉に、「そういう問題じゃなくて……」と。藤助は、呆れ顔を浮かばせる。そして、手近にあったシャツを押し付け。



「ほら、早く服を着てよ。パンツ一枚でみっともない。今日は新しい子が来るんだから。それに、芒が真似したらどうするんだよ」


「なに、芒は賢いんだ。何を好んで、あんな馬鹿の真似なんかするものか」


「おい、道松。馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。

 芒はカッコイイお兄ちゃんのことが好きだよなー?」



 梅吉は、ひょいと芒を抱き上げ。半ば強制に同意の音を促す。


 きゃっきゃ、きゃっきゃと甲高い音を上げる芒をあやしていた梅吉だが、ふと口を開かせ。



「それにしても。まだいたんだな、親父が手を出した女が」


「本当、菖蒲で最後だと思ったのに。ますます我が家は火の車だよ。

 やっぱり部活は断って、バイトしようかなあ」


「おい、おい。これから新入りを迎えるっていうのに、辛気臭いなあ。まあ、なんとかなるんじゃねえの? 一人くらい増えたって。

 それより、新しく来る子の名前、なんて言うんだっけ?」


「えっとねえ。確か、相模……」



 藤助は朧気な記憶を思い返しながら。けれど、最後まで言い切る前に。ピンポーンと、甲高い音が家内中へと響き渡り。



「おっ、来たみたいだな。どれどれ……。

 よう、待っていたぞ……って、へえ。女の子とは聞いていたが、なかなか美人じゃないか。うん、うん。なんせウチで、初めての女の子だもんな。野郎ばかりでいい加減、一輪くらい華があってもいいもんだとは思っていたが」


「ちょっと、梅吉ってば。いくら女の子でも、半分は血の繋がっている妹なんだから。間違っても手を出したりしないでよ」


「へい、へい。それくらい分かっているって。大体、自分の妹に手を出さないといけないほど、女の子には困っていませんよーだ」



 べーっと真っ赤な舌を突き出す梅吉に、藤助はじとりと目を細めさせ。いま一つ信用できないと、猜疑の瞳が緩むことはない。


 けれど、その視線を軽く躱すと、梅吉は目の前の少女をリビングへと連れて行き。落ち着いた所で、彼はぽんと一つ手を叩き。



「そんじゃあ、恒例の自己紹介タイムといくかー……って、ちょっと待った。一人足りないな。

 ったく、アイツは何をやっているんだよ」



 梅吉は気怠げにリビングから出ると、「おーい」と、二階に向かって大声を張り上げる。すると、ばたばたと忙しない音が後へと続き。



「何をやっているんだよ、早く来いよな。お前待ちなんだからさー」


「早くって、何かあったっけ?」


「なんだよ。まさか、忘れていたのか? 今日は妹が来るって言っただろうが」


「妹? 妹って、えっと……、なに、それ。初めて聞いたんだけど」


「あれ、言っていなかったっけ? 全員に知らせたと思っていたんだが。

 ううん、人数が多いのも困りもんだよなー」



 梅吉は、けらけらと軽い笑声を上げる一方。「早く来い」と、相変わらず急かし続け。



「へえ、異母妹が。まだいたんだなあ」


「本当、我が親父ながら、よくやるよなー。

 ほら、桜文。あの子が今日から妹になる……。えっと、名前なんだっけ?」


「ん? あれ、菊さん……?」


「そう、そう。菊だよ、菊……って、」



「どうしてお前が知っているんだ?」と、首を傾げさせる梅吉を余所に。桜文は、丸くさせた目をそのままに。


 一方の菊も、呆然と立ち尽くしたまま。ただただ大きな瞳を、一層と開かせるばかりであり……。


 時間の経過と共に、彼女の肩に掛けていた鞄が自然とずり落ち。ごとんと鈍い音が、その場に強く鳴り響いた。

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