第142戦:菊のさかりに たづねあひしを

 玄関の扉を開けるなり、芳しい匂いが鼻を擽り。自然と涎が誘発されるがどうにか堪えさせると、桜文はそろそろと忍び足で廊下を進む。そのままの調子で階段を上ろうとするも、突然傍らの扉が開き。



「あれ、桜文。いつの間に帰って来たの?」


「えっと、丁度、今……」



 びくびくと、跳ね上がった肩を軽く揺らして。へらりとぎこちない笑みを浮かばせると、桜文は再び階段を上がろうとする。


 けれど、その矢先。彼の襟首を藤助が咄嗟に掴み。



「ちょっと待った。桜文、そのお腹はどうしたの?」


「え、お腹って?」



 藤助は、ぽこんと不自然に飛び出している桜文の腹を指し示し。



「あ、ああ、この腹か。いやあ、ちょっと最近、食べ過ぎちゃって。太っちゃったかなあ。これはダイエットしないといけないかな、なんて……」


「ふうん、ダイエットかー。それじゃあ、俺が協力してあげるよ。

 そうだなあ。そしたら早速、今日の夕飯はいらないよね?」


「えっ!? いや、夕飯は食べたいから、やっぱりダイエットは明日からにしようかなあ」


「駄目だよ、そんな調子では。やると決めたら、その瞬間から始めないと。善は急げと言うでしょう。明日からなんて言っている内は、いつまで経っても痩せられないよ」



 にこにこと、堅苦しい笑みを浮かばせている藤助に。目だけは笑っていない藤助に。桜文の額からは、ぽたぽたと大量の冷や汗が流れ出し、そして。



「ごめんなさい――」



 深々と床に頭を擦り付けて謝る彼と、その隣にちょこんと座り込んでいる子猫を交互に眺めながら。藤助は、乾いた息を吐き出させる。



「全く、また子猫なんて連れて帰って来て。いつも言っているでしょう、ウチでペットは飼えないって。

 ほら、早く元いた所に返しておいで」


「返せって……。でも、コイツ、まだこんなに小さくて、それに、親がいないか探したんだけど、結局見つからなくて。一人にさせるのは、やっぱり心配でさ」


「確かに可哀相だけど、でも、ウチにはそんな余裕なんてないんだから。それくらい、桜文だって分かるでしょう?

 可哀想とか可愛いとか、そんな感情論だけでウチみたいに余裕のない家で飼われても、十分な餌を食べられなければ反って可哀想だよ。ただでさえここの所、桜文も梅吉も食べる量が増えて、ますます食費が嵩んでいるのに」



 またしても、深い息を吐き出しながら。藤助は、ぐちぐちと日頃の愚痴まで溢し出す。


 子猫のことばかりか、別な非難をも受けてしまい。桜文は肩身の狭い思いからすっかり縮み込んでいると、不意に外側から扉が開き。



「あーっ、子猫だ、子猫!」



 ひょっこりと、扉の隙間から芒が飛び出し。彼は真っ直ぐに、問題の猫の元へと寄って行く。


 そして、そのままひょいと子猫を抱え上げる芒に、藤助は身を乗り出して。



「あっ。こら、芒! 駄目だよ、その猫は。ほら、こっちに渡しなさい」


「えー、どうして? この子、ウチで飼うんじゃないの?」


「違うよ、ウチで猫は飼えないの。ほら、早く返して」



「返しなさい」と繰り返す藤助に、芒はむすうと頬を膨らませ。そのまま反抗し続けるが、分が悪いことは言うまでもなく。


 渋々ながらも子猫を渡そうとする芒であったが、それを遮るよう。突如、傍らから低い音が上がり。



「あの、今日の夕飯はいりません。この猫を飼ってくれる人を探すから。見つかるまでの間だけ、ウチで飼わせて下さい。お願いします」


「僕からも。お願い、藤助お兄ちゃん。僕の分の夕食も、この子にあげるから」



 大きな瞳に、たっぷりの涙を溜め。縋り付いて来る芒に、藤助は折れざるを得なく。



「もう、分かったよ。天羽さんには俺から話して置くから。その代り、早く飼ってくれる人を見つけるんだよ」



「分かった?」と念を押す声は、甲高い音により掻き消されてしまい。


 燥ぎ続ける彼等に、藤助はもう一度。「分かった?」と、今度は強めに言い放った。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 日は移り、空手の道場にて――。


 その日の稽古は終わり。人気のない室内に、辛気臭い音が響き渡る。



「ふうん、子猫ねえ」


「はい。今日稽古に来ていた子達には訊いたんですけど、良い返事はもらえなくて」


「ウチは、カミさんが猫アレルギーだから。飼えないんだよなあ。

 あっ、そうだ。タバコ屋の婆さんなら、飼ってくれるかもしれないぞ。あそこの婆さん、無類の猫好きでさ。今も確か三匹くらいいたと思うが、三匹も四匹もたいして変わらんだろう」


「タバコ屋って、直ぐそこのですか? そうですか」



 訊いてみますと、思いも寄らなかった収穫に胸を膨らませ。この案件もどうにか片付きそうだと、桜文は安堵の息を漏らすのと入れ替わりでまたしても口を開き。



「そう言えば、今日は菊さんが来ていませんでしたが。珍しいですよね、彼女が休むなんて。どうかしたんですか?」


「ああ。それがなあ」



 彼女の名を耳にした途端、師範は苦い顔をさせ。



「え、菊さんのお母さんが……?」


「そうなんだよ。数日前に突然電話が掛かって来てな。いやあ、あまりにも急なことだったから、俺もびっくりしたよ。

 あんな綺麗な人がなあ。美人薄命とは言うけれど、世の中、何が起こるか分からんものだな」



 しみじみと語り出す師範の声を遠くに聞きながら。桜文は、気付けば外に飛び出しており。


 とある扉を前に何度も中へと呼び掛けるも、ちっとも応答はなく。焦る気持ちをそのままに再びその場から走り出すと、真っ暗闇の中へと飛び込んで。手当たり次第の場所を回り、声を張り上げる。


 しかし、一向に返答はなく。乱れる息を整える暇なく近場の公園に差し掛かった所で、不審な影が瞳に留まり。目を凝らしてよく見ると、それは四、五人の男の姿であった。


 彼等は何かを中心にして、取り囲んでおり。けれど、不意にぞろぞろと、揃って茂みの方へと移動する。


 しかし、その群れの中に、ずっと探し求めていた姿を見い出すと、桜文は勢いを殺すことなくそちらへと飛び込み。一斉にその場の視線が集まるのを余所に、彼の瞳に映ったのは、普段は隠れて見えない彼女の仄かな月光を受けて輝きを増した色白の肌であった。


 その光景に桜文は一瞬躊躇してしまうも、意識を取り戻すと即座に行動に移し。


 数分後――……。


 肩を上下に激しく揺らし。一人立っている桜文に、座り込んでいる少女は――、菊は、ガラス玉みたいな瞳を動かし。肌蹴た胸元を別段隠すことなく、ただじっと彼を見つめ。



「なんで。どうして余計なことばかりするの……」


「なんでって、だって……」


「アンタには関係ないじゃない。私がどうなろうと、アンタにはなんの関係もないじゃない。なのに、そんなに必死になって。本当、バカじゃないの」



 彼女の瞳は月の光を帯び、一層と冷やかさが増していく。


 その冷淡さに思わず呑み込まれそうになるものの、桜文は力任せに強く拳を握り締め、そして。


 薄らと、その唇を開かせていき――。



「だったら……。だったらどうしていつもみたいに、抵抗しなかったの? アイツ等にされるがままで、らしくもない」



「らしくない」と、もう一度。よりはっきりとした音で、桜文は告げる。


 すると、彼女の肩は微弱ながらも震え出し。



「……な……に……」


「え……」


「私らしいって、なに? どうしたらいいの……?」


「菊さん……?」


「分からないの……。どうしたらいいのか、分からないの。どんな服を着ればいいのか、何を食べればいいのか。何をすればいいのか、全然分からないの。分からない……」



「分からない」と、そればかり。菊は震える喉奥で繰り返させ。


 刹那、彼女の大きな瞳から、ぽたりと大きな雫が一粒零れ落ちる。それはつうと艶やかな頬の上を滑り、一本の線を描くと闇夜に溶け消え。見えなくなってしまうものの、形跡だけは残り続ける。


 小さな嗚咽ばかりが耳を掠める中、桜文はブレザーを脱ぐと、それを彼女の小刻みに震えている肩へと掛け。



「そのままで、いいよ……。そのままで、いいと思う。大丈夫。少しずつ、自分のやりたいことを、これから見つけていけばいいんだよ。

 菊さんは自分のこと、人形みたいだって。前にそう言っていたけど、でも、俺はそんな風に感じたことは一度もないよ。

 初めて会ったあの日、怪我した菊さんを医者に連れて行った時。菊さん、あんなに嫌がって暴れていたじゃないか。お人形だったら、普通、そんなことできないよ」



 あの時の菊の暴れ振りを思い出し、桜文はつい小さく苦笑する。


 へらりと浮かばせた微笑をそのままに。



「そうだよ。菊さんの言う通り、俺のしていることは全部お節介だ。ただの自己満足で、独り善がりで。

 ……きっと、菊さんが桜藺に似ていたから。だからかなあ、なんだか放って置けなくてさ。あっ。でも、顔は全然似ていないよ。菊さん、美人だし。うん、顔だけじゃなく性格も。

 だけど、桜藺もさ、普段は素直なのに、いじめられた時とか風邪引いた時とか。そういう時こそ言って欲しいのに、いつも強がって黙っていてさ。だから。

 言わなくていいよ。上手く言えないなら、それでもいい。……それでも、俺が守るから――……」



 こてんと胸元へと寄り掛かって来た圧力に、桜文は、それ以上は何も言わず。ただ彼女の頭に、そっと手を添えさせる。


 淡い月明かりの下、その音が聞こえなくなるまで。彼はいつまでも、腕の中へと閉じ込め続けた。

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