第144戦:桜の花は 散りにけるかも

(菊の奴、)



 結局今日も部屋から出て来なかったなと、階段の方を見つめながら。牡丹はリビングへと続く扉のドアノブを掴む。そして、

「ただいまー……」

と、憂鬱さを帯びる音を含ませながらも。中に入ると、香ばしい匂いが鼻を擽った。



「おかえり、牡丹。ご飯、もうできるから」


「そうですか。それにしても、今日は随分と豪勢ですね」


「そうかなあ?」


「そうですよ。キッシュにグラタン、それからカボチャのスープまで……」



 どれも菊の好物ばかりだと、食卓に並ぶ数々のおかずを前にして。一体どんな思いで四男はこれを作ったのだろうと、牡丹は考えずにはいられない。


 藤助は、弱々しいながらも微笑を浮かばせ。



「菊には早く元気になってもらわないといけないからね。

 そうそう。デザートに、自家製ヨーグルトもあるんだから!」



 彼は得意気に言い放つと、鼻歌混じりに冷蔵庫の扉を開け。開けるが、しかし、彼の顔色は次第に蒼くなっていき……。



「あれ、ヨーグルトがない……。おかしいな、確かに冷蔵庫にしまって置いたはずなのに」



 がさごそと、たいして物の入っていないその中を。懸命に探し続ける藤助の背中に、梅吉は遠慮深げに声を掛け。



「あのさ、藤助。ヨーグルトって、もしかして。これのことか?」



 梅吉が掲げて見せた空の容器を目にした瞬間、藤助の瞳は見る見る内に開いていき。


 そして。



「あーっ!?? 俺のヨーグルトがーっ!!?」



 偉い剣幕で、藤助は梅吉へと飛び掛かり。彼の胸倉を思い切り掴み上げ。



「なんで、どうして。しかも、全部食べちゃったの!?」


「なんでって、冷蔵庫の中にあったから。いやあ、どうにも腹が減っちまってさー」


「信じられない! これはただのヨーグルトじゃないんだよ。石川さんからもらった種で、端整込めて作り続けていた自家製ヨーグルトなんだよっ! しかも、まだ次に作る用の種を取っていなかったのに……。

 どうしてくれるの、もう作れないじゃん!!」



 そう言って泣き崩れる藤助に、梅吉は珍しくも困惑顔を浮かばせ。


「俺だって。高校生にもなる弟に、ヨーグルトのことでガチ泣きされるなんて。思ってもいなかったよ」

と、すっかり狼狽している。


 いつまでも泣き止みそうにはない藤助に、芒がとたとたと軽い足取りで寄って行き。



「藤助お兄ちゃん、元気出して」


「そうだぞ、芒の言う通りだ。食っちまったもんは、しょうがないだろう。いい加減、泣き止めよ」


「うっ、ううっ……。我が子を食べられちゃった気持ちが、梅吉に分かるもんかっ……!」


「我が子って……。石川さんにお願いして、またもらえばいいだろう? 俺から頼んでやるからさ。

 それより早く食べようぜ。もうペコペコだよ」



 そう言うと、梅吉は自分の席に着き。それを発端に、牡丹等も各々椅子に座り始める。


 空いている席に、思いを馳せる傍ら。手を合わせ、箸を掴もうとした刹那。不意に外側から扉が開き。その隙間から数日振りに姿を見せた一人の少女に、その場の視線は集中し……。



「菊……。具合はもう大丈夫なの?」



 藤助が代表して問うと、彼女はこくんと小さく頷き。そのまま自分の席に着くと、静かに箸を手にする。


 いつものように、黙々と食べていく彼女に。



「そっか。無理しないで、食べられるだけでいいからね」



 藤助がそう声を掛けるも、数十分後――……。


 手を合わせると一人先に席を立つ菊を、牡丹等はただ呆然としたまま見送り。がちゃんと扉が閉まると、彼等は一斉に顔を突き合わせ。



「菊の奴、思っていた以上に食べていたな」


「ああ。俺の分のキッシュまで食べていたぞ」


「ご飯もおかわりしていましたよね」


「ここの所、ほとんど口にしていなかったのに。いきなりあんなに食べて、大丈夫かな?」



 ひそひそと、声を潜め。先程までの彼女の様子を思い返す一方、一体どんな心境の変化があったのだろうかと。空白の三日間を想像してみるが、全く以って推し量ることはできず……。


 彼女にまとわり付く苦悩は、暫くの間、続きそうだと。箸を手にしたまま、誰からともなく音を上げて。


 別段示し合わせた訳ではないけれど、綺麗に声を揃え。彼等は同時に、深い息を吐き出させた。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 日は移り――……。


 閑散とした、白一色の廊下を梅吉は一定のペースで突き進み。とある部屋の前で立ち止まると、そのまま扉を開かせ。



「おーい、桜文。見舞いに来てやったぞー……って、お前」



「一体何をしているんだ?」と、部屋に入るなり瞳に映った光景に――、窓のサッシに足を掛けている、不自然極まりない格好をしている桜文の姿に、梅吉は眉間に皺を寄せさせる。


 一方の桜文は、その姿勢を維持させたまま。



「何って、えっと。ちょっと家に帰ろうかなと思って」


「お前なあ。ここ、何階だと思っているんだよ」


「えっと、確か六階だったような……」


「ったく、何を考えているんだよ。落ちたらどうするんだ。家に帰る前に、あの世行きだぞ」


「いやあ、でもなあ。上手く壁を伝っていけば、降りられるかなと思って」



 全く緊張感もなく。へらへらと笑って見せる桜文の襟首を、梅吉はがっしりと掴むとそのままベッドへと寝かせ付ける。



「どうせ明後日には帰れるんだから、おとなしくしていろよ」


「でもさあ。外出は禁止されちゃうし、部屋の中で筋トレをしようとしても駄目だと言われるし。他にすることがなくて暇でさあ」


「暇だろうがなんだろうが、いいからおとなしく寝ろよ。治るもんも治らないぞ」


「それは、そうだけど。

 あのさ。その、菊さんは……? 菊さんだけ、見舞い来てくれないのかなって」



 へらりと太い眉を歪ませる桜文から、梅吉は天井へと視線を向け。



「ああ、菊か。菊はここん所、体調が悪くて。ただの貧血みたいだが、寝込んでいたからな。

 でも、漸く昨日起き上がって。普通に飯も食っていたから、何も心配はいらないだろう」



 梅吉の返答に、桜文はただ一言。「そっか」と、空気混じりに返す。


 その色が褪せぬ内に、梅吉はまた口を開かせ。



「あのさ、もしもの話なんだが。もし……、いや、やっぱりいいや。たられば話なんて、らしくねえしな。それより。お前、いつになったら……」



「いつになったら」と、もう一度。梅吉は、ゆっくりと唇を動かして。繰り返させるもその瞬間、外側からざわざわと騒がしい音が響き出し。



「兄貴! お見舞いに来ました」


「ご容態、いかがですか?」


「兄貴の好きな団子、持って来ましたよ」



 扉を開けるなり、ぞろぞろと。何人もの男子生徒が病室の中へと入って来る。落ち着きを知らない彼等に、梅吉は眉を吊り上げさせていき。



「お前らなあ。ここは病院だぞ、少しは静かにしろよ」


「おっ、梅吉の兄貴も。お疲れ様です!」


「兄貴もお一つどうですか?」


「ったく。お前等、本当に分かっているのか?

 まあ、いいや。俺はそろそろ帰るが、お前はおとなしく寝ていろよ」


「あのさ、梅吉」


「あん、なんだよ?」


「俺も一緒に帰ったら駄目かな? ほんの少しだけだからさ」


「お前なあ……」



 聞き耳持たずと言うのだろうか。一向に言うことを聞かない桜文に、ぴくぴくと梅吉の眉は微弱ながらも震え出し、そして。


「いい加減にしろ――っ!」

と、本日一番の怒声が室内中へと響き渡った。

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