第129戦:春雨は いたくな降りそ 桜花
とある日の、夕暮れ時――……。
ぴょこぴょこと、兎の耳に似た髪の束を軽く跳ね上がらせながら。小さな歩幅で歩いていた万乙だが、ふと行く先に白い塊が目に入り。
「あっ、猫だ!」
彼女はその場にしゃがみ込むと、その塊――白猫に向かって手を伸ばし。その柔らかな毛を流れに沿って、何度も何度も優しく撫でる。
猫が薄らと目を細めさせるのに従い、万乙の口元も自然と緩んでいき。
「えへへっ、可愛い!」
万乙が撫でれば撫でるほど、猫は嬉しそうに。甘えた声を小さな喉奥から奏でさせ。
その様子を隣で眺めていた桜文も、腰を下ろすとすっと手を伸ばし。適当に宙を漂わせていると、何かに惹かれるように。猫はその手に寄って行き。何度か顔を擦り付けると、今度は赤い舌を出して。ちろちろと、大きなその手を舐め回す。
すっかり手懐けられている猫を前にして、行き場を失ってしまった右手をそのままに。万乙は、ぱあっ……! と瞳を輝かせ。
「ふわあっ……! 先輩、すごいです! この猫、とっても先輩に懐いていますね」
「そうかなあ?」
「はい。だってこの猫、とっても幸せそうですもん」
にこにこと猫のことを楽しげに眺める万乙を、桜文は横目で見つめ。一方で、虚空を彷徨う手は、猫の好きなようにさせ続ける。
いつまでも飽きる様子を見せない彼女に、桜文の唇は自然と離れていき。
「――――――……、」
「えっ。先輩、何か言いましたか?」
「……ううん、ごめん。なんでもない」
こてんと首を傾げさせる万乙に、桜文はへらりと。締まりのない笑みを取り繕う。
その笑みに釣られ、万乙も先程みたく。にこりと頬を綻ばせ。
「先輩って、動物に好かれる体質なんですね」
「うーん。好かれているかは分からないけど、動物は好きだよ」
「やっぱり、そうなんですね。でも私、先輩はお魚が好きなんだと思っていました」
「えっ、魚?」
「はい。イルカ、鞄に付いているので」
そう言うと、万乙はちょんっと。桜文の鞄に付いている、キーホルダーを指の先で軽く突く。
その動作によりゆらゆらと左右に揺れるそれを、桜文は見つめながら。
「ああ、これ? これはもらったんだ、お土産で。
それに、イルカは哺乳類だから。魚ではないかな?」
「あっ、そっか。そう言えば、そうでしたね」
「そっかあ」と、万乙は納得顔で。こくこくと、数回軽く頷いてみせる。
ほんわかとした空気が流れている中、けれど、突然、ピッピー! と、甲高い音がそれを引き裂き。続いて茂みから黒い塊が飛び出した。
その塊の正体である船居は、首から下げたホイッスルを軽く揺らしながら。頭に付いていた葉っぱを手で払い除けると、万乙の元へと寄って行き。
「あの、天正先輩。少しばかり万乙をお借りしますね」
そう桜文に申請すると、船居は万乙の首根っこを掴んで。ずるずると、元いた茂みの陰へと連れて行く。
そして、足を止めるなり、ずいと立腹顔を万乙へと近付け。
「ちょっと、万乙! アンタねえ」
「なあに? 船居ちゃん」
「『なあに?』じゃないわよ! なにを暢気に猫なんか愛でて、和んでいるのよ。もっと他にやることがあるでしょうが」
「だって、猫可愛かったし……」
ガミガミと、頭ごなしに叱り付けられ。万乙はむすうと小さく唇を尖がらせる。
そんな彼女の様子に、船居は額に手を宛がえ。
「全く、この子は。もっと危機感を持ちなさいよ、危機感を。期限まで、あと一週間しかないのよ。今の内にがっしりと先輩のハートを掴んで置かないと、アンタ、振られるわよ」
「そんなこと言われても。どうしたらいいか、よく分からないし」
「だからあ、もっとこう、積極的に攻めていかないと。
例えば、そうねえ。ここはやっぱり、女の武器を使うわよ」
「女の武器?」
「ええ。女の武器と言えば、色仕掛けに決まっているじゃない――!」
ふふんと唇に艶を乗せ、船居は声高々に宣言するも。周りに屯っていた桜組の組員達は、万乙の頭の天辺から足先まで、じろじろと眺め回し……。
「あの、姉御。いくらなんでも、それは難しいのでは……?」
「そうですよ。姉御と違って、姉貴はいやらしい身体付きじゃないんですから」
ぶつぶつと、辺りから批判の音が漏れる中。船居はピーッ! とホイッスルを強く鳴らし。
「だーっ、姉御って言うな! それと、いやらしいとはなんだ、いやらしいとは!? 色っぽいって言うのよ、覚えておきなさい。これだから体育会系は嫌いなのよ。
いいこと? こういうのは体型じゃなくて、醸し出す空気が大切なの。要は魅せ方ね。馬鹿と鋏は使いようって言うでしょう。
あの手の男は、女には免疫がないはずだから。万乙みたいな体型でも魅せ方によっては……って、そう言えばアンタ、勝負下着は付けているの?」
「それならちゃんと穿いているよ」
すると、万乙はスカートの裾を摘まみ。ぴらりと捲り上げて見せる。
刹那、船居の拳骨が万乙の頭を捉え。
「このおバカ! こんな所でスカートを捲るんじゃない! しかも、これのどこが勝負下着なのよ、ただの面白パンツじゃないの!?」
「えっ、違うの? 『切磋琢磨』もそうだと思ったんだけどなあ……」
「そういうことじゃなくて……って、アンタ等まで。こんなパンツで鼻血を噴くな!
ええいっ、もういいわ。アンタはおとなしくしていなさい。ちょっと、私の鞄を――」
そう船居が命令すると、組員の一人は持っていた鞄を渡し。彼女はそれを受け取るやチャックを開け、がさごそと中を漁り出す。
そんな彼女の手元を、万乙はひょいと覗き込み。
「船居ちゃん。なあに、それ? 鞄の中、いっぱい物が入っているね」
「これは私の勝負道具よ。今日の所は取り敢えず、香りで攻めるか」
「香り?」
「ええ、男は匂いに弱いものなの。だから、香水の香りでって、そうねえ。
天正先輩は鈍そうだから、定番の石鹸系だと気付かなそうだし……。うん、やっぱりアンタには、フルーティ系が似合うわね」
船居は数ある中から一つを選び抜くと、蓋を開け。シュッ……! と万乙のスカートの裾へと吹き掛ける。すると、苺の甘い仄かな香りが風に乗って辺りに漂い。その匂いをまとったまま、万乙は船居に背中を押される形で桜文の元へと戻る。
「あれ。なんだか甘い匂いがする……。
万乙さん、何か食べた?」
「いえ、何も食べていませんよ。きっと船居ちゃんの香水です」
「香水?」
「はい、船居ちゃんが付けてくれたんです。男は匂いに弱いからって」
そう説明する万乙に、先程同様茂みの陰から、
「あの子ってば、余計なことを言うんじゃないわよ……!」
ふるふると怒りで肩を震わせている船居を余所に。桜文は、感嘆の声を上げ。
「へえ、そうなんだ。うん、美味しそうな匂いだね」
「おっ、この反応は……!」
己の戦法が、通用したかと思いきや。
「その匂いを嗅いでいたら、なんだかお腹が空いてきたなあ」
お腹を擦りながら、へらりとそう告げる桜文に。船居はゴンッと勢いよく頭を木の幹へとぶつけ。
「なんなのよ……、なんなのよ、あの男はっ……!?
アイツの頭の中は、一体どうなっているのよ。豆腐でも詰まっているんじゃないの、信じられない!」
キーキーと、甲高い音を上げ。今にも飛び出して行きそうな船居だが、何人かの組員達の手により押さえ付けられる。
「駄目ですよ、姉御。これ以上邪魔をしたら。お茶でも飲んで落ち着いて下さい」
「そうですよ、姉御。お菓子もありますから」
「あら、悪いわね……って、だから姉御って言うな!
ったく、どいつもこいつも……」
「どいつもこいつも……」と、船居は赤く染まった額を指先で擦りながら。それ以上に痛む頭をそのままに、彼女の湿った音が薄暗闇の中、虚しくも直ぐに溶けて消えていった。
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