第116戦:花橘に 合へも貫くがね

 夕食時――。


 末っ子に呼ばれ、腹の虫を鳴らしながらも牡丹は階段を下りてリビングに入り。自席に着くが、いつもは埋まっている席が空いていることに気が付くと首を傾げさせ。



「あれ。菖蒲はどうしたんですか?」


「えっ、ああ。それが、実は……」



 藤助は、顔を苦めさせつつ。味噌汁を食卓に並べながらも答えていき。



「えっ!? 原稿を駄目にしたって……」


「なんでも川に落ちたらしくて、全身びしょ濡れで帰って来てさ。せっかく書き上げた原稿まで濡らしちゃったみたいで。

 それで書き直しているんだけど、できるまでは部屋から出て来る気はないみたいだよ」


「できるまでって、それっていつまでなんですか?」


「さあ。俺にはさっぱり……」



 藤助は、天井を見上げ。乾いた息を吐き出させる。


 結局、彼抜きで夕飯を食べ始め。皿の中身は次々に空になっていくものの、一向に菖蒲が現れる気配は見られず。


 牡丹は一人分の食事の乗ったお盆を藤助から受け取ると、慎重に階段を上がって行き。菖蒲の部屋の扉を軽く叩く。そして、中から返事が聞こえて来たことを確認すると、戸を開けて。



「これ、夕食。菖蒲、全然下りて来ないから。藤助兄さんが用意してくれて、それで」


「済みません。わざわざ持って来て頂いて」


「ううん、それは構わないんだけど。原稿の方は大丈夫なのか?」


「大丈夫ではないですね。一から全て書き直しなので」



 きっぱりとした声で答える菖蒲に、牡丹は納得顔で。分かり切っていた答えであっただけに、ただ頷くことしかできない。


 いつもの如く、菖蒲の用意した折り畳み式の椅子に座り込み。きょろきょろと落ち着きなく、目を宙に漂わせながらも薄らと口を開かせ。



「その、今書いている原稿がそうなのか? えっと、『桃の花に問う』だっけ――?」


「どこでそれを……」


「神余から。今度、百中若杜の新作が発表されるから楽しみだって。そう言っていたのを聞いて」


「そうですか。彼女らしいですね」



 味噌汁から立ち上がる湯気によって、白く曇った眼鏡のレンズをそのままに。菖蒲はゆっくりと、お椀に口を付け。はあ……と、熱の籠った息を吐き出させる。


 その余韻が冷めぬ内とばかり、菖蒲は口を開き。



「それで、今日も昨日の続きですか?」



 先手とばかり、先に言われてしまい。まだ勝負も始まったかどうかも判断できぬ内だというに、最早敗北を言い渡されてしまったような気分になり。


 それでも牡丹は跋の悪い顔を浮かばせながらも、しどろもどろに。



「だって……、だって菖蒲、……まだ、好きなんだろう? 彼女のことが。

 俺はそんな風に誰かのことを、好きなったことはないから。よく分からないけど、でも、やっぱりあの手紙、読みたいからだけでは駄目なのか?

 あの手紙は、菖蒲に送られて来た物なんだ。資格とか理由とかそういうの、別にいらないんじゃないかな。それより読んであげた方が、手紙を書いた彼女だって……」



「彼女だって」と牡丹は繰り返すが、その先は直ぐにも詰まってしまい。いつまで経っても、続きが喉奥から出て来ることはなく。


 そのもどかしさに、けれど、どうすることもできず。無意味にも組ませた指を弄るだけの牡丹を、菖蒲は横目に見つめながら。



「罪を犯したら罰を受ける――。それが、この世界の掟です。

 罰と言えば一見マイナスのイメージを抱かれがちでしょうが、僕には救いでもあると思うんです」


「救いって、罰が……?」


「はい。罰を受けることによって、犯した罪が軽くなるように僕には思えるんです。けれど、それは所詮自己満足に過ぎず。罰を受けたからといって、犯した罪が決して軽くなる訳ではありません。

 そう思えてしまうのはちゃんと罪と向き合えていない何よりの証拠であり、この手紙を読もうと読まないと、僕の犯した罪の深さが変わらないことくらい端から分かっています。

 読めないのは……、読まないのは、ただその行為に唯一の救いを求めているからに過ぎないのだと。そんなことは百も承知で、僕はただ、自分が楽になりたいだけなんです」


「菖蒲の言う罪って、……生きていることがか?」



 菖蒲はただ小さく頷き。



「梅吉兄さんの言う通り、女性はそれを思い出すきっかけに過ぎず。本当は、自分が恐いんですよ。そして、そのことを認めることが……」



 それ以上は口を開くことなく、ただ作業的に器の中身を空にしていく菖蒲に。牡丹もまた、口を小さく開いては閉じることを繰り返し。


 やはり彼には勝てそうにはないと。二日続けての敗戦に、彼はそのことばかりを深く実感させられるばかりであり。






 暗転。






 あれから、幾日かが経過し――。


 陽が下がる時間も以前より早くなり。ネイビーブルーを背景に牡丹は帰宅するが、浮かない面をそのままに玄関の扉を開け。



(菖蒲、今日も学校を休んだけど、まだ原稿が書き終わらないのかな。

 あの手紙も、結局読んでいないみたいだし。)



 菖蒲も頑固な所があるからなあと、他人のことを言えない癖に。牡丹は愚痴っぽく、小さな息を吐き出させる。


 ちらりと、二階へと続く階段を眺め。一瞬足を止めたものの、直ぐにもリビングへと入り。



「ただいまー」


「あっ、牡丹くん。おかえりなさい」



 室内に足を踏み入れた瞬間、この家には不釣り合いな。返って来たトーンの高い声に、牡丹は思わずずるりと足を滑らせる。



「なっ……、どうして御厨達がここにいるんだよ!?」


「どうしてって、菖蒲くん、もう三日も学校を休んでいるでしょう? だから、お見舞いに来たの。それに、菖蒲くんが風邪引いたの、私の所為でもあるだろうし」


「御厨の所為? よく分からないけど……。

 ちょっと、藤助兄さん。どうして御厨達を家に上げちゃったんですか?」


「だって、みんなお土産を持って来てくれて。なのに、無碍に帰す訳にもいかないだろう?」


「でも、菖蒲は風邪じゃなくて、実は部屋に引き籠って原稿を書いているなんて。言えないじゃないですか。作家業のこと、隠しているんですよね?」


「そうだけどさ」



 二人は顔を突き合わせ、こそこそと小さな声で囁き合う。


「それに……」と口籠る藤助の声は、鄙勢のそれに掻き消されてしまい。



「牡丹くん、何しているの? ほら、お菓子たくさん持って来たから。遠慮しないで食べてよ」


「本当に済みませんねえ、いきなり押し掛けたりして。ウチの会長、遠慮なんて知らない人ですから。

 それに、お菓子を持って来たと言っていますけど、ほとんど俺が用意したんじゃないですか」


「もう、細かいことはいいじゃない。一々うるさいわね。それより食べましょうよ。

 百中さんも遠慮しないで食べてよ」


「えっ。百中って……」



(確か菖蒲の旧姓で、それから……、)



 それからと、牡丹は鄙勢の視線の先を辿り。初めて見掛けるその顔に、自然と瞳は開いていき――。


 喉奥から出掛けた言葉を吐き出す代わりとばかり。朧気な輪郭をした一輪の花を前にして、彼はごくんと生唾を呑み込ませた。

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