第115戦:白玉を 包みて遣らば 菖蒲草

 時間は、早朝まで遡り――……。


 二年三組の教室にて。



(結局、)



 何も言ってあげられなかったなと、昨夜のことを思い返しながら。牡丹は小さな息を吐き出させる。鬱蒼とした気分をそのままに。



(自分が生まれていなかったら、なんて。そんなこと、考えたこともなかったから。

 もしも俺がいなかったら、母さんは親父のことなんてとっくに忘れて別な人と……。)



 そういう道もあったのかもしれない――……と。思えば思うほど、頭の中がこんがらがり。けれど、絡みっぱなしの頭を軽く左右に振り回すと、こてんと重たい頭を机に預けさせる。



「おい、牡丹。どうしたんだ。また何かあったのか?」


「またって……。なんだよ、その言い方は」


「だってお前、いっつも何かしらのトラブルに巻き込まれているじゃないか。それで、今度はどうしたんだよ」


「どうしたって……」



(そんなこと訊かれても、菖蒲のことを言う訳にもいかないしなあ。)



 どう誤魔化そうかと、またしても頭を捻らそうとするも。その矢先、萩がひょいと身を乗り出し。



「なんだよ。お前の兄貴、まだ治らないのか? 昨日はせっかくこの俺が協力してやったというのに」


「治らないって、何がだよ?」



「それは」と開く萩の口を、牡丹は咄嗟に手で塞ぎ。



「おい、萩。誰にも言うなって言っただろう!」


「あん、そうだったか?」


「そうだよ! 忘れるなよな」


「なんだよ、こそこそして。二人だけの秘密なのか?」


「気持ち悪い言い方をするな。別にそんなんじゃねえよ」


「だったら教えてくれてもいいだろう?」



 竹郎はしつこく問い質そうとするも、牡丹はじとりと目を細め。


「そんな取材ノートとペンを持った人間なんかに話せるかよ」

と、一言で一掃させる。



(竹郎なんかに知られたら、一日で全校生徒に知れ渡るからな。

 そう言えば、梅吉兄さん、言っていたよな。菖蒲は女が恐いんじゃなくて、自分が恐いんだろうって。それって、もしかして……。)



 もしかしてと、思考を続けようとするも。不意に一人の女生徒の声が耳を掠め。



「……こ、ちょっと、栞告ってば!」


「えっ? あっ、ごめんね、明史蕗ちゃん。それで、なあに?」


「『なあに?』って、何回呼んだと思っているのよ。もう、また本に夢中になって」



 ぷくうと頬を膨らませる明史蕗に、栞告は手にしている本で顔を半分隠しながら。



「だって、久し振りに百中若杜の新作が発表されるから。楽しみで、つい過去の作品を読み返していたの」



 ふふっと柔らかな笑みを溢す栞告に、牡丹は気付けば顔を向けさせており。



「百中若杜の新作だって?」


「あれ。もしかして、天正くんも興味あるの? そう言えば、前に彼女の本を読んでいたよね」


「あー、うん、まあね」



 ははは……と苦笑いを浮かばせながら、牡丹は咄嗟に彼女から目を逸らす。あの時は大変だったなあと、当時の気苦労を労わると、彼女の持っている本へと視線を戻し。



「あのさ、神余。百中若杜って、どういう作風なんだ?」


「ううん、そうねえ。一言で言うなら、報われない恋……かな」


「報われないって……」


「彼女の作品って、どれも悲恋ばかりなの。あっ、でも、悲恋だからバッドエンドという訳ではなくて。確かに悲しい恋のお話ではあるんだけど、どの作品も読み終わった後、不思議と温かい気持ちになれるんだよね」



 うっとりと語り出す栞告に、牡丹は相変わらずだと思う傍ら。またしても口を開き。



「ちなみにさ。今度発表される百中若杜の新作のタイトルは、なんて言うんだ?」


「えっとねえ、『桃の花に問う』よ――」



「楽しみだよね」と、嬉し気に。にこにこと続けさせる彼女を余所に。


 牡丹は一人、ぱちぱちと。無意味にも瞬きばかりを繰り返させた。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 時は過ぎ、学校近くの川原にて――……。


 菖蒲は一人草原に座り込み、一通の封筒を手にしたまま、水の流れを見つめていたものの。ふと草の揺れる音が耳を掠め。そちらに視線を向けると、見知った顔が目に入り。



「天正先輩、こんな所にいたんですね。男の俺なら、傍に寄っても平気ですよね?」



「そうですよね」と、返事を聞く前に。勝手に決めつけると、日光は隣に座り込む。


 彼は、飄々と口を開き。



「ざっくりとした話は会長から聞きましたが……。会長、珍しく凹んでいましたよ。あの会長を凹ませるなんて、先輩もなかなかやりますね」


「そんなつもりはなかったのですが。だとしたら、後で謝らないといけませんね」


「別にその必要はないと思いますよ。あの人なら勝手に立ち直ると思いますから」



 日光は、ばっさりと。そう言い返すと一呼吸空け。



「……会長のこと、信用できませんか?」


「信用できないと言うよりは、理解できません。どうして僕なんかの為に、あそこまで親身になってくれるのか。僕には全く分かりません」


「そうですね。多分、何も考えていませんよ」


「そうなんですか?」


「はい、何も考えていないでしょうね」



 きょとんと目を丸くさせている菖蒲を余所に、日光はきっぱりとした声で繰り返す。


 そして、困惑顔を浮かばせたままの菖蒲に、彼は変わらぬ調子で。



「あの人、基本的に何も考えていないと思いますよ。感情のままに動いているというか、思い立ったが吉日とでも言うんですかね。おそらく思考回路が単純なんでしょう。

 困っている人がいれば、手を差し伸べる。あの人にとっては、そうすることが当たり前のことなんですよ。先輩みたいに頭の良い人には、いくら考えた所で理解出来ない人種だと思いますよ」


「はあ。そうですかね」


「そうですよ、きっと。それにしても。

 先輩、女が恐いって。それって悪い女にでも騙されたんですか? 先輩を騙すなんて、余程見る目のない人か、余程先輩を上回るような人だったんですね。

 でも、勿体ないですよね。こんな将来有望の、優良物件を手放しちゃうなんて」


「物件って……。そんなことないと思いますが」


「いや、いや、ご謙遜を。もし俺が女だったら、頑張って先輩を物にしていますよ」



 淡々と続けさせる日光に、やはり菖蒲は眉を顰めさせたまま。猜疑の瞳を浮かばせる。


 しかし、一方の日光は気に留める様子もなく。しれっとした顔のまま後を続けさせ。



「偶にいませんか? なんの根拠も理屈もなしに、すんなりと信用できてしまう人って。先輩の性格から言うと、そんな風な考えを持っている俺のことも理解できないんでしょうが。

 取り敢えず、生徒会に入るかどうかは置いておいて。恐怖症のこと、会長に任せてみたらどうですか?」


「御厨さんのこと、本当に信用しているんですね」


「さあ、どうですかね。会長のこと、信じろと散々言いましたが、俺としては信じる以前の問題なんですよ。わざわざ信じようなんて思わなくても、自然と信じさせられてしまって。会長といると、なにより気が楽なんですよね。変に格好つけなくていいですから。

 ありのままの自分を受け入れてくれて、認めてくれて、見い出してくれて……。

 俺が言うのもなんですけど、信じていいと思いますよ? あの人だけは絶対に、人を裏切ったりしないって。でなければ、付いて行ったりしていませんよ」



「どうですか?」と、もう一度訊ねる日光に。菖蒲はただ真っ直ぐ前を見つめ。


 青一色の光景を目に取り込ませていると、突然、「あーっ!!」と、盛大な音がその場に響き渡り。



「やっと見つけた! 二人して、こんな所にいたなんて」



「どれだけ捜し回ったと思っているのよ」と、声を荒げさせながら。鄙勢はずかずかと、二人の元へと寄って行く。


 そんな彼女の様子に日光は、ほらと如何にも言いた気に。些か得意気な面を菖蒲に向けさせる。



「私だけ仲間外れにするなんて酷いじゃない。それと、日光。電話くらい出なさいよね。何回掛けたと思っているのよ」


「えっ? あっ、本当だ。着信が十件以上も……。

 済みません、会長。全然気が付きませんでした」


「もう、しっかりしなさいよね!」



 鄙勢はぷくうと頬を膨らませ、ぴしゃりと日光を叱責する。


 すると、悪戯にも一筋の風が急に吹き荒れ。それは菖蒲の手元の間も流れていき、彼の手から例の手紙を奪い取り――……。



「きゃあっ、強い風……って、ん? あれは手紙……?

 もしかして、今、飛ばされた手紙って、天正くんの?」


「そうですが……」


「ちょっと。『そうですが……』って、いいの? 追い掛けなくて」


「はい。どうせ読むつもりのない物でしたから……」



 そう告げる菖蒲に、鄙勢はむすりと眉間に皺を寄せさせ。刹那、咄嗟にその場から駆け出した。


 そして思いっ切り足を踏み込ませると、勢いよく飛び跳ね。



「よし、取れた――!」



 ほっと安堵の息を吐き出させるも、それは直ぐにも回収させられ。どうにか着地はしたものの、川端ぎりぎりに着けた足は、ぐらぐらと大きく左右に揺れ動く。


 どうにか体勢を立て直そうとするものの、それは無駄な努力に終わってしまい。ゆっくりと、水面に向かって傾いていき。ぎゅっと強く目を瞑るも、何故か予知した衝撃はなかなか襲っては来ず。



「御厨さん――!

 大丈夫ですか?」


「え……、天正くん? うん、私は。でも、手……」


「え? あ……」



 彼女の言いたいことに、気付くと同時。自身の手と繋がっているその先が目に入ると、菖蒲の意識はそこで途絶え。バッシャーンと、甲高い音が後へと続く。


 天高く水飛沫が上がり。



「きゃあっ、つめたーい!」


「会長!? それに、天正先輩も。

 もう、何をやっているんですか。ちょっと待っていて下さい、拭く物を取って来ますから」


「頼んだわよ、日光。

 あははっ、やっちゃった。ごめんね、私の所為で濡れちゃって。

 あーあ。天正くんってば、鞄まで濡らしちゃって……。教科書、使い物にならなくなっちゃったかもね……って、天正くん?」



 どうしたのと、訊ねる彼女の声を無視し。菖蒲は一人川から這い出ると、一目散に駆け出して行く。


 人気のない路地裏に身を隠すよう飛び込むと、上がる息をそのままに。おそるおそる、水浸しになった鞄を開け。急いで中に手を突っ込んで一枚のファイルを取り出すが、中に挟まれていた紙はびしょびしょに濡れ、書かれていた文字はすっかり滲んでおり。


 予想通りの光景に、彼はひくひくと口の端を痙攣させると、ふらりと気が遠くなり――……。



「どうしよう。締め切りまで、あと五日を切ったのに……」



「どうしよう」と、もう一度。薄紫色の空の下、まるで何かに縋るみたいに。


 菖蒲は呆然とその場に立ち尽くしたまま、ぽつりとそう呟いた。

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