第079戦:植ゑし藤波 いま咲きにけり
――いつからだっけ。電話の呼び出し音に、苦手意識を抱くようになったのは。
「もしもし……?」
『あっ、藤助くん? 私だけど……。
あのね、今度の日曜日、久し振りに部活が休みなの。それで観たい映画があって、だから……』
「えっと……。ごめん、その日はちょっと……。みんな出掛ける用事があって、弟が一人になっちゃうから。うん、まだ小さいし、やっぱり一人でお留守番させる訳には……」
ノイズ混じりだが辛うじて聞き取られた承諾の音に、もう一度。これで一体何度目になるだろうかと、頭の片隅で考えながらも形ばかりの謝罪を述べ。
『ねえ……。一つ、訊いてもいい?』
「うん、なに?」
『……私と家族、どっちの方が大事……?』
「えっ……」
『私と家族、どっちが大事――?』
繰り返されるその問いに、どうしてもっと早く気付いてあげられなかったんだろうと。後悔するが、もう遅く。
訴え掛けるみたく鼓膜を震わせる嗚咽に、独り善がりな罪悪感を抱き。
「……ごめん、俺――……」
すんなりと出せた答えに、意味のない罪悪感を更に募らせ。ツーツー……と、無機質な音ばかりが薄っぺらい同情みたくいつまでも鳴り響き――。
暗転。
「……あれ、ここは……」
重たい目蓋をどうにか上げさせ。朧気な意識を揺らしながらもゆっくりと辺りを見回すと、見慣れた景色が目に入る。
そこが自分の部屋だと分かり。ベッドの上に横になっているのだと思うと同時、ぺしりと鈍い衝撃が頭を掠る。
「ったく、この馬鹿! お前はどうしていつも急に倒れるんだよ!」
突如、頭を揺さ振るような。声のした方に顔を向けると、傍らには仏頂面を引っ提げた道松が控えており。
藤助は、苦虫を噛み潰している道松を見つめながら。
「倒れる……? 倒れるって、今まで何を……」
「していたんだっけ」と、口先で呟き。薄く靄の掛かったままの頭を動かす。
(そっか。小長狭さんと食事して、その帰り道に小長狭さんの元彼と遭遇して。それで、それで……。)
その先まで、つい思い出してしまい。自然と頬に、平常以上の熱が集中する。
それをうまく処理できないでいる藤助の横で、道松は冷却シートのフィルムを剥がし。
「医者が言うには過労だとよ。帰って来たと思った途端、ぶっ倒れやがって……。
微熱らしいが、一応貼っておけ」
そう忠告するや否や、道松は藤助の前髪を指先で払い除け。開けた額に、ぺたりとそれを貼り付ける。
されるがままの藤助であったが、しかし。ごろんと一つ寝返りを打つと、頭まですっぽりと布団を被り。
「うん、ごめん。でも……、明日からは、ちゃんとするから。今まで通り余計なことに気を取られないで、寝坊もしないし、芒の面倒もちゃんと見て、だから……」
「だから」と、もう一度、藤助は繰り返すものの。その続きはいつまで経っても紡がれることはなく。
先に痺れを切らしたのは、道松の方で。彼は一つ、乾いた息を吐き出させる。
「勘違いしているみたいだから一つ言っておくが、あの日――お前がじいさんに傘を届けに行った日。じいさん、女の人と一緒に帰って来たが、その人は取引先の人で。家が偶々近所だったから、途中まで傘に入れてもらったって、そう言っていた。本当かどうかは分からないがな」
「そう、なんだ……」
その声音に動揺の色が隠れていたことを、道松は聞き逃すことはなく。
「今更かもしれないが……。あの時の話、もう一度考え直さないか?」
「あの時の話って?」
「だから、家政婦を雇う話だ」
刹那、藤助はがばりと身体を起こし上げ。真っ直ぐに、道松を見つめ返す。
皺になるにも構わず、彼は感情のままにシーツを握り締め。
「なんで……」
「なに、別に深い意味はない。ただ、お前だってそういう年頃だ。家のことばかりでなく、いい加減、自分の為の時間だって必要なはずだ。
俺達のことは……、じいさんのことは切り離して。もう一度、よく考えて……」
――最後まで、言い切る前に。不意にぼすんと柔らかな、本来なら強いつもりだったのだろう衝撃が道松を襲う。
けれど、彼はそれを――、突然飛んで来た枕を難なく受け止め。ひょいと、たいして変わらぬ無愛想な面をその陰から現し。思い切り、下唇を噛み締めている藤助を見下ろす。
「なんで……、どうしてそんなこと言うんだよ! 切り離せる訳、ないじゃないか!
天羽さんが連れ出してくれていなきゃ、俺は……、俺は、今頃きっとこの世には、おじさん達みたく、あの事件に巻き込まれて……。その所為で北条の屋敷もなくなって、他に頼れる親戚だって。本当にここしか。だから……」
道松は、お返しとばかり。持っていた枕を藤助の顔に軽く押し当てる。
すると、藤助はそれに顔を埋めさせ。
「分かっている……、こんなの、我が侭だって、ただの自己満足だって。分かっている、分かっているけど、でも、やっぱり諦め切れない……。
いくら続けても無駄だって、意味なんてないって。分かっている、全部、全部、分かっている。けどっ……! 俺にできることなんてこれくらいしかないし、やっぱり誰にも譲りたくない。
それに、選べないもん、選べない……。天羽さんは俺達を……、俺のことを引き取っていなきゃ、今頃きっと。なのに、自分だけなんて、そんなこと……。
あの人のこと、裏切れない。無理だよ、そんなのっ……!」
枕を通して漏れる嗚咽は、小さくも部屋中へと響き渡り。だが、それも直ぐに、ドンッ――!! という轟音によって遮られる。
音のした方に視線を向けると、部屋の扉が外側から大きく開かれており。廊下の明かりを背景に、そこには――。
「男なら、めそめそするなっー!!」
「えっ……?」
「へっ……?」
突然の思いも寄らぬ人物の襲撃に、藤助は枕から顔を上げ。道松と同様、間抜け面を浮かばせる。
ぱちぱちと、未だ目に飛び込んで来る光景が信じられず。藤助は闇雲に瞬きを繰り返すものの、一向に景色が変わることはない。
「え……、あれ……。なんで小長狭さんがここに。それに、もしかして……」
いや、もしかしなくても。
酔っている――っ!?? と、薄らと頬を紅潮されている時城に、藤助はひくひくと頬を引き攣らせ。
そんな彼の傍ら、道松は扉の隙間から中の様子を窺っている次男を目敏くも見つけると、瞳を細めて狙いを定め。
「おい、梅吉。これは一体どういうことだ……?」
「いやあ、だって。お姉さん、藤助に会うの、緊張するって言うから。だから景気付けと言うか緊張解しに軽く一杯どうですかって薦めたら、次々と開けちゃって……。
まさかこんなに酒が弱いなんて思わなかったからさあ」
口先では謝るものの、しかし、全く反省の色は見られず。「後は頼んだぞ」と全てを投げ出し、梅吉はその場から逃げ出した。
「アイツ……!
その、なんだ。二人だけで積もる話もあるだろうから、俺もこれで……」
「えっ。ちょっと、道松!? 俺、一応病人……」
「なんだけど」と、言い切る前に。道松は立ち上がると、そのまま扉に向かって歩き出し。無情にも、ぱたんと扉の閉まる音ばかりが響き渡る。
藤助の伸ばした手は、どこにも行き場はなく。それを持て余したまま、二人きりになった室内で、先に切り出したのは時城の方であり。
「藤助くん。具合、大丈夫? さっきお兄さん達から話を聞いたんだけど、ごめんなさい。藤助くん、家のことで忙しいのに、私、無理させていたみたいで……」
「いえ、分かっていた上で引き受けたことですから。気にしないで下さい」
目元をやや乱暴に擦りながら、藤助は小さな声で後を続けさせる。ちらりと、時城の方を振り向くも。心配げな面を浮かばせている彼女のそれに耐え切れず、彼は直ぐにも視線を元に戻し。
「あのっ……。あの時、言ったことは忘れて下さい。全部、全部、忘れて下さい。
気にしないで下さい。俺のことは、忘れて下さい」
「忘れて下さい」と、もう一度。藤助は淡々とした声で繰り返すも、その刹那。
「なによ、それ……」
低い音が彼の鼓膜を震わせ、そして。
「ふざけるなっ!」
またしても喝が飛び。時城は、ぐいと藤助の両頬を引っ張った。
「いひゃい、いひゃいです、いひゃいっ……!」
「当たり前でしょう! 痛くしているんだから。それより。
なーにが『忘れて下さい』よ! あんなことを言われて、忘れられる訳ないじゃない!
それともなあに? 藤助くんは、忘れられるの? こんなに美人で良い女の私のこと、そう簡単に忘れられるの!?」
「美人って……」
「なによ、本当のことじゃない!」
時城は眉を吊り上げたまま、頬を抓る手に更に力を込める。ますます強くなる刺激に藤助は即座に降参の音を上げるが、時城がそう簡単に許してくれる訳もなく。
「なによ、なによ。勝手なことばかり言って。大体、昨日だって急にいなくなって、どれだけ心配したと思うのよ! 電話を掛けても全然出ないし、やっと繋がったと思えば、代わりにお兄さんが出て、藤助くんはぶっ倒れたままちっとも起きないって聞かされて……。
絶対に、忘れてやるもんですか。ええ、そうよ。藤助くんがいくら泣いて頼んだって、絶対、ぜーったい、忘れてなんかあげないんだから――!」
そう言い放つと同時、時城は漸く藤助の頬から手を離す。
解放され、ひりひりと痛む頬を擦る藤助だが。そんな彼にはお構いなく、時城はずいと顔を近付け。
「それで。結局、私のこと好きなの? 嫌いなの?」
「それは……」
「どっち!?」
と、時城はわきわきと。またしても藤助の顔の脇に手を構えさせ。
その脅しに、藤助はやはり簡単にも屈してしまい。固唾を呑み込ませると、小さく息を吸い込み、そして。
「……ああ、もう!
好きです、好きです、大好きですっ――!!」
半ば恨めし気に、けれど、決して目を逸らすことなく。真っ直ぐに時城を見据えながら彼は叫んだ。
「これで満足ですか……?」
肩を軽く上下に揺らし。それは告白と言うには、罪の自白に近く。まるで開き直った被告人のような藤助の態度に、時城は心外とばかり頬を膨らませる。
「なによ、その言い方は。まるで私が無理矢理言わせているみたいじゃない」
「だって、俺は選べませんから」
「選べないって?」
「前にも言ったじゃないですか。俺には、大切な人がいるんです。好きな人よりも……、あなたよりも大切な人です。あの人の為ならなんだって、簡単に全てを捨てられるんです。勿論あなたのことも。
……馬鹿みたいですよね。あの人はそんなこと、微塵も望んでいないのに。でも、駄目なんです。それでも、駄目なんです。あの人の可能性を奪ってしまったのは、俺だから。俺が選べないんです。だから」
藤助は、ふっと顔を伏せ。そのまま小さく自嘲する。
けれど、その音を払い除けるみたく。時城は、ぱしんと藤助の両頬を手で挟み。その音は何にも混ざることなく、純粋なまま彼の鼓膜を震わせ。震わせ続け。
「それでもいいじゃない」
「え……?」
「大事な物がたくさんあるのは、良いことでしょう。それを後ろめたく思う必要がどこにあるの? 寧ろ誇りじゃない。
大切なんでしょう? 譲れないんでしょう? ……それなのに、まるで重りみたいに扱って」
「重りって、そんなこと――っ!」
無自覚にも一際大声を発しようとしていた藤助のそれは、ぱしんともう一度、時城の両手により呆気なくも阻止されてしまう。
何も言えずにいる藤助に、時城は薄らと目を細めさせ。
「なによ。ちゃんと分かっているんじゃない。だったら、もっと堂々としていなさい。その人が、大切なんでしょう? 私より、ずっと、ずっと大切なんでしょう?
……なんて。そんなことを言われたら複雑だし、私が一番って言ってくれたら素直に嬉しいけど。でも、無理して比べることないんじゃない? 確かにその人が女の人で、恋愛対象でならアウトだと思うけど。どっちも大切にしたらいいじゃない。ただ、それだけの話よ。私だって好きな人と両親と、どっちが大事? なんて訊かれたら、選べないわよ。
それに、大体ね、『私と○○、どっちが大事――?』なんて訊くのは、自分に自信のない人間が、相手を信じられない人間がすることよ。藤助くんは勘違いしているみたいだから言っておくけど、私はね、一々自分のことを天秤に掛けさせないと信用できないような、そんな器の小さい女じゃないわよ! たとえ自分よりも――他のことを優先されても、好きならやっぱり信じてあげないといけないのよね。
でも、だからって相手の好意に甘え続けるのは頂けないわね。信じてもらいたいなら、やっぱりそれ相当の誠意はちゃんと見せないと」
「分かった?」と訊ねる時城に、藤助はただ小さく頷き……、いや、項垂れると言った方が適切か。こてんと頭を下げさせ。
「そう、ですね……。裏切れないなんて都合のいい言葉で誤魔化して、本当は、ただ恐かっただけで。信じられなかったのは、俺の方だったんですね……」
へらりと、弱々しいながらも。小さな息を吐き出すと、藤助は笑みを取り繕う。
時城も微笑み返すと、彼に横になるよう促す。
「すっかり忘れていたけど、藤助くん、病人だったのよね。
ほら、ちゃんとしっかり休んで。先生には早く良くなってもらわないといけないんだから」
「え? 先生って……」
「何をぽけっとした顔をしているの? だって私、悔しいけど、まだまだ一人前とは言えないものね。契約はまだ有効でしょう?
まあ、確かに始めはミノリの為だったけど、でも、いつの間にか料理するのがすっかり楽しくなっちゃって。まだまだ教えてもらいたいこと、たくさんあるんだから。勿論、無理のないよう、開催する日は藤助くんの都合に合わせるつもりよ。
こんな美人とまた一緒にいられるなんて、嬉しいでしょう?」
ふふんと満足気に、微笑んで見せる時城を余所に。藤助は、相変わらずほけっとした面を浮かべており。
「なによう、その顔は。まだ何か言いたいことでもあるのかしら?」
手を構えてみせる時城に、藤助は最早条件反射みたく。咄嗟に防御の姿勢を取るも。
「いえ、その。美人と言うより、可愛いだと思いますって。ずっと、そう言おうと思っていて……」
今度は反対に、時城がぽかんと間の抜けた表情を浮かばせるも。くすりと口元を緩ませ。
「生意気」
と、一言。
おまけとばかり、熟した林檎みたく真っ赤に染まっている頬を軽く抓った。
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