第056戦:夏木立 庭の野すぢの 石のうへに

「うーん。家を出たのはいいけど……」



「これから先どうしよう」と。家を後にしてから数分と経たない内に、牡丹の口から自然と溜息が吐き出される。


 ふっと真っ暗闇に浮かび上がっている、少し欠けた月を見上げながら。



(母さんの残してくれた貯金はあるけど、でも、そんなに多くもないからなあ。できるだけ節約しないと。取り敢えず、まずは寝床の確保か。ホテルは……って、いや、さすがに高いよな。もっと節約しないと。そうなると、やっぱり野宿しかないか。仕方ない。

 それから、学校はどうしよう。学費は、天羽さんが払ってくれているんだったよな。高校は出ておきたいけど、でも、やっぱり働かないとかな……。)



 分かっていたつもりではあるものの。突発的に差し迫る厳しい現実に、早くも目を背けたくなるも。月光は目に突き刺さるように眩しく。その光の強さにまたしても自然と吐き出された溜息は、薄っすらと夜の静けさに滲み込んでいく。


 なんて、感情に浸っている場合ではなかったと。牡丹は軽く首を横に振ると、再び走り出そうと一歩大きく踏み出すが、その矢先。



「おう、牡丹じゃないか。こんな時間にどうしたんだよ?」


「たっ、竹郎――!?」



 せっかく固めさせた決意も虚しく。思いも寄らぬ人物との遭遇に、踏み込み掛けた足はすっかり行き場を失ってしまい。


 ひくひくと難しい顔を浮かばせている牡丹に、一方の竹郎は。コンビニのロゴの入ったビニル袋を揺らしながら、こてんと首を傾げさせた。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






「ふうん、家出ねえ……」



「道理で大荷物だと思ったぜ」と、竹郎は至ってあまり驚いている風でもなく。玄関先でサンダルを放り投げるようにして脱ぐと、ひょいと奥へと進んで行く。



「悪いな。その、いきなり押し掛けたりして……」


「なに、気にするなよ。散らかっているけど、適当に寛いでくれ。どうせ親父は会社泊まりで全然帰って来ないし、お袋とは別居中でほとんど俺一人だから。好きなだけ居ていいからな」



 にたりと白い歯を覗かせると、竹郎は持っていた袋を漁り。中から二本で一セットのチューブ型のアイスを取り出すと、その片方を牡丹へと渡した。



「食べるか?」


「ああ、ありがとう」


「いえいえ。それで、どうして家を出て来たんだ? 兄弟の誰かと喧嘩でもしたのか?」



 牡丹は一瞬躊躇するも、ちらりと黒い影を帯びた瞳を軽く揺らし。


 喧嘩の方がきっと何百倍もマシだったなと。世話になるのに、何も言わないのはおそらくフェアではないだろうと。そう思うも口は上手く動かず、言い淀むばかりで。


 そんな牡丹を、チューブの口を咥えたまま竹郎は横目で眺め。



「まあ、言いたくないなら、無理して言う必要はないけどさ」


「いや、そういう訳では……」


「いいって、いいって。ただ、吐いちまった方が楽になれる場合もあるからさ」


「楽に……」



 ぽつりとそのフレーズを口先で繰り返すと、牡丹はゆっくりと口角を上げていき。



「……今日、家に来たんだ」


「来たって、誰が?」


「弟が……」


「弟? 弟って……」



 牡丹は一拍の間を使って、ゆっくりと首を縦に振り。



「母さんの再婚相手の連れ子で、名前は萩って言うんだ。とは言っても、萩とは歳が一緒で、俺の方が誕生日が少し早かったから肩書きでは兄になったけど、でも、そんな風に呼ばれたことは一度もなくて。

 そもそも萩とは家が近所で、それからずっと同じ学校に通っていて。幼馴染っていうのか? 所謂昔からの腐れ縁で。

 おまけに俺の母さんと萩の父親――輝元てるもとさんっていうんだけど、二人は同じ会社で働いていて、とにかく接点が多かったんだよな。萩の母親もアイツが幼い頃に亡くなっていたから一人身同士、母さん達は協力して俺達を育てて、その過程でそういう関係になって。去年、とうとう再婚して。

 だから萩とは兄弟であった期間よりも、それ以前の方がずっと長くて。確かに本当の兄弟みたいに一緒に育てられはしたけど、でも、やっぱり違うんだよな。今更、どうしてもそんな風には思えなくて。

 それに、萩とは全然気が合わなかったっていうか、毎日喧嘩ばかりして。そのことで、母さん達にはよく呆れられたっけ。とにかくずっとそんな感じだったから、一緒に暮らすようになっても結局いつも喧嘩ばかりしていて。

 だけど、輝元さんは萩と顔はそっくりなのに、性格はあまり似ていなかったからかそういうことはなくて。寧ろ俺のことも本当の息子みたいに接してくれて、こういう人が自分の父親だったら良かっただろうって。ずっと、ずっとそう思っていた」



(ああ、そうだ。そう思っていたつもりだったんだっけ……。)



 刹那、さああっ……と窓から入り込んだ一筋の風がカーテンを優しく揺らし、二人の間を吹き抜ける。


 牡丹の手の中で握り締められていたアイスは、一度も口を付けられることはなく。いつの間にか、溶け出していた。けれど、それに気付いてもらえることはなく。



「だから再婚の話をされた時は、母さんも漸く親父のことを忘れられたんだなって。その相手が、俺の信用できる人で良かったって。そう思っていたのにいざ一緒に暮らし始めたら、急に輝元さんとどう接したらいいか分からなくなって。萩も形だけだけど弟に変わって、ただ今までみたいにしていれば良かっただけなのに、それなのに、昨日までの景色とは全て変わって見えて。

 それでもどうにか誤魔化しながら過ごしている内に、母さんが病気で亡くなって。俺と輝元さんと、それから萩との三人だけの生活になってからも、二人は今までと変わりなく振る舞っていたのに、やっぱり俺だけは上手くできなくて。常に浮き足立っているみたいで落ち着かなくて、宙ぶらりんの状態を強いられているみたいで。

 ただでさえそんな状態だったのに、母さんの遺品を整理していたら、俺宛ての手紙が出て来て。その手紙には、……本当は輝元さんのこと、そういう風には思っていなかったって。だけど、それでも輝元さんは了承してくれて、それで一緒になったって。だから、何があっても二人の元に留まって欲しいって。そう書かれていて……。

 母さんは自分がもう長くないことが分かっていたから。だから、輝元さんと一緒になったんだって。その真実を知ったら、ますますどうしたらいいのか分からなくなった。

 そんな時、タイミング良く天羽さんが現れて。親父の元に来ないかって誘われて。そのことに対して輝元さんは、好きな方を選べって。自分と萩のことは一切考えなくていいから、後悔しない方を選べって言ってくれて。だから俺は……」



 痛む喉奥を、それでも牡丹は震わせ。



「俺は……、俺は、自分から捨てたんだ。母さんが自分を殺してまで残してくれた居場所を、自分の手で捨てたんだ。

 萩の言う通り、俺のしたことはずっと恨んできた親父がしたこととちっとも変わりなくて。アイツに言われて、漸く実感したよ」



(……いや、違う。させられたんだ。)



 すっかり溶け切ってしまったアイスを、それに気付くこともなく。牡丹は力任せに、ただ握り締める。すると、ぐにゃりと柔らかな、なんとも言えない感覚が静かに返ってきて。



「母さんの思いを踏み躙ってまで、あの家を出て来たのに。なのに、結局問題の親父には会えなかった所か、代わりに待っていたのは半分だけ血の繋がった兄弟で。笑っちゃうよな。兄さん達の存在は本当に知らなくて、そんな大事なことを教えてくれないなんて、天羽さんも人が悪いっていうかさ。

 ……本当、兄さん達は他に行く所がないから天羽さんに引き取られたけど、でも、俺だけは違って。ちゃんと居場所があったのに。あの家から出て行く必要なんかなかったのに。

 ずっと父親みたいに接してくれていた輝元さんよりも、俺は、俺と母さんを捨てた本当の親父を選んだんだ。馬鹿だよな、一度も会ったことがないのに。ただ血が繋がっているという理由だけで、今まで散々面倒を見てくれた輝元さんよりも親父のことを選んでさ」



(捨てるのなんて容易かった。捨てるまでに散々悩んで、悩んで、悩み抜いて。だけど、長かったその工程に対して、投げ捨てるのに掛かった時間は僅か数秒足らずで。

 あまりの呆気なさに、いざ捨てたらこんなもんなんだって。あれだけ悩んだのに、俺が大事にしてきたと思っていた物は、それだけの価値しかなかったのかって、そう言われているみたいで。だけど、後戻りなんてできなくて……。)



 竹郎の言う通り全てを吐き出したら、少しは楽になったなと。牡丹は軽く頭を揺らす。けれど、それはなんだか罪の告白に似ているようで。映画やドラマでよく見受けられる、教会で懺悔するシーンが牡丹の頭の中に自然と連想される。


 しかし、その罪は、きっと洗い流されることはないのだろうと。たとえ神様が赦してくれたとしても、天国にいる母親はきっと赦してはくれないだろうと。


 牡丹は空っぽの瞳を無意味にも揺らし。カーテン越しに、忌まわしい月を一人見上げることしかできなかった。

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