第029戦:鶯谷も 鳴かずもあるかな

 前回、天正家次男・梅吉は、不注意より栞告の眼鏡を割ってしまい。弁償する為、彼女を(無理矢理)引き連れ、眼鏡ショップを訪れたのだが――。



「いやあ、良かった、良かった。眼鏡が今日中に仕上がって」


「はい。これも偏に先輩のお陰です。あの、本当にありがとうございました」


「いえ、いえ。俺は責任を果たしたまでだよ。いやあ、店員さんが良い人で」



「本当に良かった」と梅吉は飄々と続けさせるが、本当にこの人のお陰だと、栞告は先程の店での遣り取りを思い出す。


 その時のことを簡単に記すなら、本来であれば数日は掛かる所を、梅吉が女性店員を口説き落として無理を通させたのであった。



「眼鏡ができるまで、一時間くらい時間があるな……。

 あっ、栞告ちゃん。クレープ食べない?」


「ふえっ、クレープですか?」


「うん。もしかして、甘い物は嫌い?」


「いえ、大好きですが……」


「それじゃあ、食べよう。俺、奢るから」



 そう言うや梅吉は、ぐいと栞告の手を取り。そのまま売店まで引っ張って行く。


 やっぱり私、先輩に振り回されていると。栞告は心の内で、ひーひーと悲鳴を上げた。



「うん、美味しい! 悪いね、栞告ちゃん。付き合わせちゃって」


「いえ、そんな」


「いやあ、男一人だと、なんか食べ辛くってさ」



(へえ。先輩でも、そういうの気にするんだ……。)



 なんだか意外だと、もぐもぐと一心にクレープに噛り付いている梅吉を横目に。自身も頬張りながら栞告は感想を漏らす。



「そういやあ、栞告ちゃんは何味にしたの? 俺は、マンゴースペシャル。やっぱり期間限定って言葉には負けちまうな」


「私はチョコが好きなので、いちごチョコクリームです」



(悩んだ結果、それでも結局はいつもチョコ味を選んじゃうんだよなあ。)



 ぱくりともう一口、クレープに口を付け。面白味がないかなと思う一方、けれど、やっぱり美味しいと、栞告はしみじみと味わう。


 すると、横から梅吉の顔が近付き。



「ねえ、栞告ちゃん」


「はい」


「クレープ、一口頂戴」


「えっ……?」



(今、なんて……。)



 言ったのだろうと、考えるよりも先に。梅吉は返事を聞かぬ内に、ぱくんと栞告の手にしていたクレープに噛り付き。


 数秒の間、栞告の脳内は静止し。漸く今し方起こった事態を理解出来ると、彼女の顔はぼっと火が点いたかのように真っ赤に染まった。



「うん、定番のも美味しいな。はい、栞告ちゃん」


「へっ!? ああああ、あの、その、えっと……」


「俺のも食べていいよ。あれ。それとも、マンゴー嫌いだった?」


「えっと、その……、はい、そんな所です……」



 本当に先輩と一緒にいると心臓に悪いと。栞告はどくどくと高まる心臓を無理矢理押さえ込ませながら、どうにかそう答える。



「ふうん、そっか。マンゴー美味しいのにな。そう言えば、栞告ちゃん。あの時、図書室にいたけど、本好きなの?」


「えっ? は、はい、大好きです……」


「ふうん、そうなんだ。俺は本を読まないから全然分からないけど、好きな作家とかいるの?」


「そうですね。純文学が好きなので、夏目漱石や梶井基次郎、それから横光利一が好きです。でも、最近は百中若杜という作家さんが特にお気に入りです」


「百中若杜……? ああ。俺、知ってるよ。読んだことはないけど」


「えっ、本当ですか? 新人作家で、あまり知っている人がいないのに……」



 またしても意外だと、栞告はきょとんと目を丸くさせる。


 けれど、そんな彼女を他所に。梅吉は話を続け。



「栞告ちゃんは、その作家のどんな所が好きなの?」


「えっ? えっと、文章がとても綺麗な所ですかね。彼女の書く文章は、日本語ってこんなにも綺麗なんだって、そう思える文章で……。それからどの作品も読み終わった後、とても温かい気持ちになれるんです。きっと百中先生は清楚でお淑やかで、それから心の綺麗な人で。その人柄が作品に滲み出ていているんだろうな……って、はうっ、済みません! 私ってば、つい夢中になって……」



 気付かぬ内に、いつもの癖を出してしまい……。一人別世界へとトリップしていた栞告であったが現実へと戻るなり、再び顔を真っ赤に染め俯く。


 しかし。



「いいよ、続けて」


「えっ……?」


「その話、もっと聞きたいな」


「えっ……。えっと、はい……」



 梅吉に促され。彼に見つめられる中、栞告は再び口を開かせる。しかし、先程みたく冷静でいられる訳もなく。


 何を言っているのか、自分でも最早理解出来ず。考えるより先に口が動き、好き勝手に言葉が飛び出していく。ちらりと顔を上げると、梅吉の黒い瞳と宙の一点で真っ直ぐに絡み合い。しかし、その視線に彼女が耐え切れるはずもなく、栞告は直ぐにもまた俯いた。


 己の意思とは無関係に、鼓動は自ずと高まり。胸の奥では言い表しようのない衝動が上手く処理できずに閊えている。


 どこにもやり場のないその感情を、どうすることもできず。代わりに栞告は、ぎゅっと軽く手を握り締めた。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 その後も栞告は梅吉に振り回されながら、共に時間を過ごし。そんな現実離れした一日から一夜明け。ここ放課後の図書室では、相変わらず静かな時間が周りの空気とは馴染むことなく流れている。


 しかし、そんな中――。


「ねえ、栞告。梅吉先輩とは、本当になにもなかったの?」

と、一人の女生徒の声が閑散とした室内に響き渡る。



「もう、明史蕗ちゃんってば。だから、なにもなかったってば」


「だって、あの梅吉先輩だよ? 女とくれば見境なく手を出すって専らの噂じゃない」


「噂は噂でしょう?」



 栞告は明史蕗を嗜めるよう、後を続ける。


 この遣り取りは、本日だけでも一体何度目になるだろうか。朝から二人はずっとこの問答を繰り返しており、最早数える気にもなれない。



「だから、先輩は私の眼鏡を割っちゃったから責任を感じて面倒を見てくれただけで、私のこと、なんとも思っていないよ。こうして弁償もしてくれたし、関わることももうないから」


「本当? それなら別にいいんだけど……」



 そう言うものの、明史蕗は未だに浮かない顔を維持させており。彼女には似つかわしくないその表情を前に、反対に栞告は笑って見せた。



「もう、明史蕗ちゃんってば。心配し過ぎだよ。それより、時間は大丈夫? 同好会の集まりがあるんでしょう?」


「うん、そうだけど……。

 ねえ、栞告。本当に大丈夫?」


「えっ、大丈夫って?」


「ううん、なんでもない。それじゃあ、私、もう行くから」



 明史蕗はなにか言いたげな顔をしていたが、小さく首を横に振り。そのまま慌ただしく図書室を後にする。


 そんな彼女を見届けると、栞告は一つ乾いた息を吐き出し。



(明史蕗ちゃんってば、何をそんなに心配しているんだろう。こうして眼鏡も弁償してもらえて、これで先輩との繋がりは消えたんだ。きっと、もう会うこともないのに……。)



 おかしな明史蕗ちゃん、と。一人きりになった室内で、栞告は軽く眼鏡に触れながら小さな声で呟いた。


 しかし、感傷に浸る間もなく。コンコンと、甲高い音が誰もいないはずの室内に小さく鳴り響き。気の所為だろうと栞告は聞き流そうとするも、その矢先。またしても先程より大きな音で響き渡り。



「かーこーちゃん! こっち、こっち」


「えっ……? ふわっ!? ててて、天正先輩!?」



 その音の出所は、窓からで。向こう側には梅吉の姿があった。


 彼はもう一度、コンコンと手の甲で軽く窓を叩き。栞告が震える指先をどうにか動かして窓を開けるなり、ひょいと身を乗り出した。



「やっぱり。栞告ちゃん、ここにいるかなーと思って来たんだけど、正解だったや」


「先輩。あの、どうしてここに……?」


「うん、ちょっと用があって……。

 はい、これ。栞告ちゃんにプレゼント」


「プレゼントって、えっ……? 先輩。あの、これ……」



 視線の先の光景に、栞告の瞳は大きく見開かされ。発したい言葉は喉奥で詰まり、なかなか上手く出て来ない。



(これって、百中若杜のデビュー作、『春を告ぐ人』だ。しかも、初版本でサインまで入っている。

 でも、先輩がどうしてこれを……?)



 栞告は目を疑うとばかり、手渡された本をじっと眺めながら。ぱちぱちと、何度も瞬きを繰り返す。


 そんな彼女の様子に、梅吉はにかりと白い歯を覗かせ。



「いやあ。その作者とは、ちょっとした縁があってさ。その本が出版された時にもらったんだ。栞告ちゃん、百中若杜が好きって言っていたからあげるよ」


「でも……」


「いいの、いいの。ほら、俺が持っていても宝の持ち腐れだし。読みもしないで、本棚の隅で埃を被らせちゃっていたからさ」



 そう言って遠慮しようとする栞告の手を、梅吉は取り合わないとばかりに押し退ける。


 おそらく予想以上の彼女の反応に、ご満悦とばかり。にこにこと笑みを浮かばせる梅吉であったが、しかし。不意に、彼の背後に黒い影が忍びより。



「……おい、天正。やっと見つけたぞ……!」


「ん? その声は……、げっ、穂北!?」



 梅吉の後ろには、いつの間にか鬼の面をした穂北が立っており。ぜいはあと荒い息をそのままに、肩を激しく上下に動かしている。



「貴様、昨日も一昨日も稽古をさぼっておいて、まさか今日もさぼる気かっ!?」


「なんだよ、今日はちゃんと顔を出しているじゃないか。それに、今は休憩時間だろう。どこで休もうが、俺の勝手だろうに」


「何を言っている! 休憩時間はとっくに終わっているぞ。

 それにしても、また女に現を抜かしおって……。さっさと来い! 全く、これでは後輩に示しが付かないではないかっ!」


「おっ、おい。ちょっと待てよ……」


「問答無用! いいから来るんだ!」



 梅吉の懇願も、一抹の容赦もなく一刀両断。穂北は彼の首根っこを掴むとずるずると引き摺り、弓道場へと戻って行く。


 その場には、ぽつんと栞告だけが残り。すっかり静寂を取り戻した世界で、手の中の本をそっと見つめ。



(先輩、本は読まないって、興味ないって言っていたのに。それなのに、私の話、覚えていてくれたんだ……。)



 頬には自然と熱が集まり。様々な思いが生まれては弾け散って、また生まれ。一向に気持ちの整理をさせないよう邪魔をする。


 ここ二日間の出来事を、現実だと。確かめるよう、栞告は胸の中に本を抱くと。ぎゅっと力強く、抱き締めさせた。

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