第028戦:春やとき 花や遅きと 聞きわかむ

 細かな埃が、ふわりと天高くへと舞い上がる中。栞告はこてんと頭を揺らし。



(……ええと、あれ。一体何が起きたんだろう。視界がぼやけている……。

 あっ、そっか。眼鏡が外れているからだ。)



 そうか、そうかと納得する傍ら。頭の中を覆っていた霧が、徐々に晴れていき――。



「……い、おーいってば。ちょっと、大丈夫……?」



(あれ、人の声……? そう言えば、突然窓から人が飛び込んで来て、その人とぶつかっちゃって。それで、それで……って、あれ……? もしかして、私、今……。)



「ねえ、ちょっと。大丈夫!?」


「えっ……、ふえっ!?」



 大きく肩を揺すられたのが決定打となり、栞告は漸く意識をはっきりと取り戻す。しかし、未だに何が起こったのか理解し切れず、当惑したまま。おまけにぼやける視界下で目を細め焦点を定めさせると、鼻先には人の顔がある。


 再び彼女の思考は一瞬ぴたりと止まってしまったが、直ぐにも回復するや。びくんっと肩を大きく跳ね上がらせた。



(……わたっ、私、押し倒されている……!? しし、しかも、この人って、てててっ、天正梅吉先輩――!??

 なんで、どうして先輩がこんな所に……!?)



 一体何が起きているのと、栞告はすっかり混乱し。心の内で、キャーキャーと喚く。



「ごめん、大丈夫!? どこか怪我してない?」


「えっ……? はっ……、ははは、はいっ、大丈夫です!」


「はあ、良かった。でも、本当に大丈夫? なんだかそうには見えないけど。顔も心なしか赤い気がするし……」


「そっ、そんなことありません、大丈夫です! どこもかしこも平常です!」


「そっか。それなら良かった。でも、本当にごめんね」



 栞告の無事が確認でき。梅吉は肩の荷を下ろして、ほっと息を吐くと同時。ははっ……と、軽快に笑い出す。


 だが、次の瞬間――。


 ぱきんっ……! と甲高い音が、静寂とした室内中へと鳴り響き。一瞬、その場の時間は確かに止まった。


 梅吉はぐにゃりと眉を曲げ、おそるおそる音のした方へ――、自分の手元へと視線を落とす。すると、その先の光景に、音の発信者である梅吉よりも栞告の方が先にさっと顔を蒼褪めた。



「げっ!? これって、もしかして……」


「は……、はい……。私の眼鏡です……」


「わーっ!?? ごめん、本当にごめんっ! 

 駄目だ、レンズまで割れてる……」



 梅吉は自分の掌の下で、すっかりボロボロになっている眼鏡をひょいと指先で摘まみ上げる。フレームはおかしな方向へと曲がり、レンズには大きなヒビが入り。また、おまけとばかり割れた箇所からは、ぱらぱらと細かな硝子片が床へと零れ落ちた。



「あー……、やっちゃったなあ……。

 ごめん、弁償するから!」


「弁償なんて……! 家に帰れば、以前使っていた物があるので大丈夫です。

 ……あの、眼鏡を返してもらってもいいですか?」


「ああ、うん。はい……って、えっ! ちょっと、掛けるつもり!?」


「はい。私、眼鏡を外すと全然見えなくて……。今も先輩の顔もあまり見えていないくらいです」



 栞告は目を細めたまま、深く頭を下げると。かちゃりと壊れた眼鏡を掛ける。しかし、フレームが曲がっている所為で上手く耳に掛からず、また、レンズも割れている為、視界がいつもよりかなり狭くなってしまっている。


 思うように見えないことから、ああでもない、こうでもないと、栞告はかちゃかちゃと鼻の上で眼鏡を動かし続ける。一方の梅吉はと言えば。そんな栞告をじっと遠目から眺めていたが、うんうんと唸り出し。一寸置くと、「よし」と小さな声を発した。



「ねえ。君、名前は?」


「えっ、私ですか? 私は神余栞告ですが……」


「ふむ、ふむ。栞告ちゃんか。俺は天正梅吉。

 それでさ、栞告ちゃん。直ぐ戻って来るから、ちょっとここで待ってて」


「えっ? あの、先輩……」



 何事かと訊ねるよりも早く。梅吉はそれだけ言うと、一人こそこそと辺りに気を配りながらも図書室から出て行ってしまう。


 訳が分からぬまま。取り敢えず栞告は言われた通り、おとなしく図書室に留まるが。まさか、このような形で学園の有名人である先輩と関わることになるなんてと。今し方の出来事にも関わらず、まるで夢でも見ているのではないかと疑わずにはいられない。


 未だふわふわとした夢心地のまま、割れた眼鏡と睨めっこを続けていると、数十分後――……。


 袴から制服へと着替えた梅吉が、軽く息を切らして戻って来た。



「ごめん、お待たせ。それじゃあ、行こうか」


「えっ? あの、行くってどこに……」


「ん? そのまま帰るつもりだったんだけど、何か用事ある?」


「いえ。特にありませんが……」


「それじゃあ、帰ろうか」


「え……? え、え、えっ……。ええっー!?? あああ、あのっ。帰るって、帰るって一体……」


「だって栞告ちゃん、眼鏡を掛けないと全然見えないって言ってたじゃん。そんな状態のまま、一人で帰ったら危ないだろう。だから、俺が家まで送るよ」


「でも、でも、そんなご迷惑をお掛けする訳には……!」


「いいって、いいって。眼鏡を割っちゃった俺が悪いんだから」



 すっかりその気でいる梅吉だが、そんな彼とは裏腹。栞告はその好意をなかなか受け取ろうとはしない。


 もしもクラスの女の子達が同じ立場になったら、あの梅吉先輩の申し出だ。文句を言う人間などまずいなく、二つ返事で受けるに違いないが、如何せん、自分には刺激が強過ぎる。


 これ以上、梅吉といるのは心臓に悪く。この場から一刻も早く離れて落ち着きたいと、栞告はその思いでいっぱいだ。



「あの、本当に気にしないで下さい。眼鏡を掛けて帰るので大丈夫ですし……」


「駄目だよ。そんな割れたのを掛けていたら危ないって。硝子の破片が目に入ったら大変だよ」


「そっ、それなら裸眼で! 裸眼でもどうにか帰れます。目を細めればそれなりには見えるので……」



 栞告は眉間にぎゅっと皺を寄せ。手を前に突き出し、じりじりとへっぴり腰で進んで行く。


 けれど、その姿は傍から見ても、とても大丈夫だとは思えず。自分でも気付かぬ内に、反って自説を強く否定してしまっている。現に彼女はその直後、何もない所で躓いて見せた。



「栞告ちゃん。その調子で帰ったら、家に着くの、きっと明日になると思うよ。無傷では済まないだろうし。それとも、俺って信用ない?」


「えっ……? あっ、あの。別に先輩のことを信用していないとか、そういうつもりは決してなく……!」


「そっか、そっか。俺のこと、信用してくれているのか。それじゃあ、一緒に帰ろうか」


「へっ……?」


「大丈夫。ちゃんと家までエスコートするから」



 言うや否や梅吉は返事を聞くよりも前に、ぐいと栞告の手を取る。指先一つ一つ、互いのそれへと絡めていき。そして、きゅっと軽く握ると、彼女を引き連れそのまま昇降口へと足を進める。


 栞告は相変わらずおぼろな視界のままであるが、それでも指先に絡んでいる物がその熱により何かと分かり。



(えっと、えっと、あれ。私、今、先輩と手を繋いでいる……!??

 なんで、どうして。ううん。それより……。)



 この状況、どうしたらいいの――!!? と、栞告は心の内で叫ぶものの。しかし、答えてくれる者など勿論誰もいない。


 梅吉に上手いこと乗せられてしまった栞告は、二の句も継げず。流されるまま彼のペースに合わせるが、恥ずかしさから真面に顔を上げることもできず。


 俯いたまま、ただひたすらに。彼の歩調に合わせて歩いて行った。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 翌日――。


 登校して来て早々、栞告はぐったりと机に項垂れる。昨日、梅吉と帰路を共にした彼女であるが、その間、ずっと緊張しっぱなしで。既に一夜明けているのだがその状態が尾を引き、疲れが取れ切れず酷くやつれた顔をしている。



(でも、本当にびっくりしたな。天正先輩と話をしただけでも凄いのに、そのまま一緒に帰っちゃったんだもん。なんだか、まるで夢みたい……。)



 やはり栞告は未だ信じ切れないものの、壊れた眼鏡がその事実を証明しており。以前使っていた物を代わりに掛けて来たが、やはり度が低く見え辛いと。かちゃかちゃと、無駄に前後へと動かしてしまう。


 一人格闘を続けていると、ふと傍らからひそひそと女生徒達の囁きが聞こえ。



「ねえ、聞いた? 昨日、梅吉先輩が、他校の女の人に追い掛けられていたって話」


「ああ、知ってる! 私、見たもん。その人、ずっと梅吉先輩の名前を叫びながら走り回っていたわよ」



(……ああ、そっか。だから先輩、図書室に入って来たんだ……。)



 小耳に挟んだ噂話により、漸く真相を得て。成程と、栞告は小さく頷く。


 それにしても、もう噂が出回るなんて。さすが有名人だなと薄ぼんやり考えていると、不意に教室の扉が開き。



「よう、可愛い弟よ」


「梅吉兄さん! どうかしたんですか?」


「いやあ、ちょっと野暮用があって……って、なんだよ、その顔は。せっかく愛しのお兄ちゃんが来たっていうに」


「だって、兄さんが俺の所に来る時って、大抵厄介事を持ち込んで来るじゃないですか」



 今度は一体何をしたのだろうと、牡丹は目を細め。じとりと猜疑に満ちた視線を差し向ける。



「なんだよ。昨日のこと、まだ怒っているのか? 相変わらずお前は根に持つ奴だなあ。悪いが、今日の目当てはお前じゃない。

 ええと、あの子はっと……。おっ、いた、いた。おーい、栞告ちゃん!」



 きょろきょろと室内を見回していた梅吉だが、栞告の姿を捉えるや声を張り上げ。ぶんぶんと頭上で大きく手を振って見せる。


 その声に、栞告は肩を大きく震わせ。



「ふえっ!? てててっ、天正先輩!??」


「ごめんね、朝、大丈夫だった? 本当は迎えに行こうと思ったんだけど、朝練があってさ。

 あれ? その眼鏡……。もしかして、前に使っていた物? 度は合ってるの? 見え辛くない?」


「ははははっ、はい! その、前の物よりは若干見え辛いですが、裸眼よりは見えます」


「そっか。

 ……あのさ、栞告ちゃん。今日の放課後、予定ある?」


「放課後ですか? いえ、特に何もありませんが……」


「それは良かった。それじゃあ、行こうか」


「へっ? 行くって、どこに……」


「だから、新しい眼鏡を買いに。お金は俺が出すからさ」


「へ、へ、へ……。ふええーっ!??」



(それって、もしかして放課後デート――!? ……って、違う、違う。ただ眼鏡を買いに行くだけじゃない!)



 栞告は直ぐにも自身の考えを思い直すと、ぶんぶんと激しく首を左右に振る。



「いいいいっ、いえ、大丈夫です! 弁償なんて、そんな滅相もありません……!」


「気にすることないってば、俺が壊しちゃったんだから。弁償くらいさせてよ。

 そうだなあ……。放課後、校門の前で待ち合わせってことで」



 梅吉は返事を聞かぬ内に。一方的に話をまとめると、颯爽と教室から出て行ってしまう。


 彼が姿を消してから、一拍の間を置くや――。



「ちょっと、栞告。一体どういうことよ!?」


「いいなあ、栞告ってば。先輩とデートなんて!」



 女生徒等はがたがたと一斉に椅子から立ち上がり、栞告の元へと密集した。



「ち、ちがっ……。その、先輩とは、そういうのじゃなくて……」



(どうしよう、どうしよう。先輩とデート……じゃなくて。眼鏡、弁償してくれるって言うけど、やっぱり悪いし……。うん、ここは丁重に断らないと。第一、昨日だって一緒に帰っただけで、全然心臓が持たなかったじゃない。それなのに、一緒に買い物なんて……。そんなの、絶対に無理だ!

 でも、一体どうやって断ろう。先輩って口が達者というか、上手く乗せられちゃうというか……。ううん、どうしたら……。

 あっ、そうだ! 忘れたふりして、裏門からこっそり帰っちゃえば良いんだ。)



 自身の閃きに、些か自信満々に。梅吉には悪いと思うものの、きっと互いの為にもその方がいいだろうと。


 都合良く考えると、栞告は無理矢理そう思い込ませることにした。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 こうして、罪悪感を抱きつつも栞告は授業を受け続け。遂に終礼を告げるチャイムの音が、校内中に鳴り響いた。


 誰もが堅苦しい空気から解放され、帰り支度をしていると、不意にがらりと教室のドアが外側から開け放たれ。



「栞告ちゃん、迎えに来たよ!」


「ふえっ!? 天正先輩!? あ、あああ、あの、どうしてここに……。校門の前で待ち合わせでは……」


「だって栞告ちゃん、絶対に遠慮するだろうなって。先手必勝っていうの? やっぱり確実に捕まえて置こうと思ってさ」



 驚きを隠し切れないでいる栞告を構うことなく、梅吉はけろりとそう述べる。


 せっかく悩みに悩んで閃いた、とっておきの作戦(当比社)も実行される前に。がらがらと音を立て、無惨にも崩れ散ってしまい。


 まさかの展開に呆然としている栞告を余所に、梅吉は彼女の手を取ろうとする。


 けれど……。



「ちょっと待って下さい!」



 突如黒い人影が、二人の間に割り入った。



「天正先輩、一体どういうつもりですか?」


「めっ、明史蕗ちゃん!?」


「えっと、どういうつもりって?」


「だから、いきなり栞告に近付いたりして、からかっているんですか? 遊びのつもりなら、止めて下さい。先輩ならわざわざ栞告でなくても、他に相手をしてくれる女の人なんてたくさんいるんじゃないですか?」



 そう一気に捲し立てると、明史蕗は鋭く梅吉を睨み付ける。


 だが、そんな彼女の敵意剥き出しの視線も、梅吉はさらりと躱し。



「ううんとさ……。昨日、俺は栞告ちゃんの眼鏡を割っちゃって。だからその責任として弁償しようと思っている。それで新しい物を一緒に買いに行こうとしているだけで、別にからかっているつもりも遊んでいるつもりも一切ない。至って正当な理由だと思うけど、それでもまだ不満かな? 

 それなら一つ言って置くと、俺は嫌がる子に無理矢理手を出さなくちゃいけないほど、君の言うよう相手をしてくれる女の子にはこれっぽっちも困っていない。ここでこうして論議を交わしている間にも相手の一人くらい簡単に見つけられるから、そのつもりなら端からそうしている。

 以上、これで俺の主張は終わりだ」



「弁解の余地はあるかな、お嬢様?」と。梅吉は得意げに、にかりと笑って見せる。


 まるで勝ち誇ったかのような不敵な笑みを浮かべさせる梅吉を前に、明史蕗は返す言葉が浮かばず。降参とばかり、ふるふると小刻みに震えることしかできない。



「どうやら明史蕗ちゃんも、納得してくれたみたいだね。お許しも出たことだし、それじゃあ、栞告ちゃん。そろそろ行こうか」


「えっ。あの、先輩……!?」



 やっぱりこうなるのかと。明史蕗の参戦に少しは期待していた栞告であったが、その希望も無惨に絶たれ。結局、梅吉に引っ張られる形で教室を後にした。


 一方、残された明史蕗はと言うと――。



「悔しいーっ!! なんなのよ、あの人は! ちょっとくらい、いや、かなりだけど……。でも、いくらモテるからって、人を馬鹿にして……。

 ちょっと、牡丹くん! あなたのお兄さん、一体どういうつもりよ。栞告をどうする気!?」


「そんなこと、俺に訊かれても。そもそも兄さんと神余が知り合いだってことさえ、さっき知ったばかりだし……」


「大体、栞告には菖蒲くんがいるのよ!? けど、栞告は頼まれたら、断れない性格で……。

 このままだと栞告がっ……、栞告が、あの無差別女殺しの梅吉先輩に喰われるー!!」


「ぐえっ、くっ、苦しっ……。ちょっ、だ、誰か、助け……」


「おっ、おい、古河。落ち着け、牡丹の首が絞まる!」



 明史蕗はすっかり我を忘れ、牡丹の襟首を掴むと前後左右に振り回す。


 ぶんぶんと明史蕗に揺すられながら、なんで俺ばかりこんな目に遭うんだと。牡丹は薄らとした意識の中、己の不運さを酷く嘆いた。

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