第012戦:見渡せば 松のうれごとに 棲む鶴は
「ううん。なんだか髪の短い女子が増えたような……」
温かな日の光がさらさらと窓から差し込む、午後の麗かな時間帯。午前の授業も終わり、今は昼時。廊下には平常よりも賑やかな声が飛び交っており、その中を牡丹は弁当を片手に竹郎と肩を並べて歩いている。
けれど、先程から擦れ違う女子は、何故かショートカットの子ばかりで。朝から些か気には掛かっていたものの気の所為かと軽く流し、今まで過ごしていた牡丹だが。昨日までの景色との違和感に、やっぱりおかしいと首を傾げさせた。
「どうしたんだ、牡丹。さっきから難しい顔をして」
「いや。なんだか髪の短い女子が増えたような気がして……」
「ああ、あれだろう。道松先輩が、『髪の長い女は嫌いだ』って。言ったのを聞いたファンの子達が、みんなして髪を切ったんだよ」
「へえ、そうだったんだ。道松兄さんのファンって、こんなにいたんだ……」
(たった一言で、これほどまでに景色ががらりと変わるとは……。)
学園内における兄の影響力を、牡丹は改めてしみじみと実感する。
「それにしても。びっくりしたよな、道松先輩に婚約者がいたなんて」
「ああ、俺も驚いたよ。突然家にやって来てさ。おまけに梅吉兄さんが鶴野さんに色々吹き込むから、お陰で大変だよ」
「へえ、そうなんだ。でもさあ、勿体ないよな。朝夷先輩、髪切っちゃったんだろう。いくら道松先輩が、髪の長い女が嫌いだからって。あんなに長くて綺麗な髪、維持するのに相当の手間と金が掛かっていただろうに」
「えっ、そうなのか?」
「そりゃあ、そうだろう。でなきゃ、なかなか維持できないと思うぜ、あんな上等な髪。シャンプーだけでも、きっと何万もする高級品を使っていたんじゃないかな」
「何万もするシャンプーって……」
その単位に、牡丹はぎょっと目を丸くさせ。
(お洒落って、お金が掛かるって聞いたことはあるけど。でも、本当に女の人って大変なんだな。
それなのに、鶴野さん、あんなに簡単に切っちゃうなんて。鶴野さんだけじゃない。他の女子だってそうだ。
……なんでそこまでできるんだろう。)
俺にはやっぱり分からないな、と。牡丹は心の内でぼそりと呟く。
「ん……? あっ、やばっ! 教室にノートを忘れてきた。悪い、竹郎。俺、ちょっと取って来る」
「ああ、分かった。そんじゃあ、いつもの所にいるから」
「先に行っているぞ」と、竹郎の声を背中越しに聞きながら。迂闊だったと一人反省しながら、牡丹は小走りで来た道を引き返す。
無事にノートを手に、第一校舎と第二校舎とを繋ぐ渡り廊下を再び通っていた牡丹だが、しかし。その脇に位置する人気のない中庭で、彼の目がふと留まる。視線の先では、三人の女生徒が鶴野を取り囲んでいた。どこからどう見ても、これは修羅場の図である。
俺ってば、いつもタイミングが悪いんだよなと。自身の天命を呪うが、やはり見過ごすに見過ごせず。気付けばそちらに向かって走っていた。
一方、その渦中では。問題の女生徒達が揃って瞳を尖らせ。
「ちょっと、アンタ。天正くんが迷惑しているのが分からないの?」
「そうよ、そうよ。いい加減、天正くんに付きまとうの、止めなさいよ」
「本当、天正くんに言われたからって、髪まで切っちゃって。一体どういうつもりなのよ」
女生徒達はぎらぎらと、細めた瞳を光らせる。けれど、突き刺さるようなその視線を、鶴野は全く物ともせず。反対に、首を傾げさせ。
「でも、みなさんの御髪も短いですわ」
「なっ……。私達は偶々よ、偶々。元々美容院を予約していて、切るつもりだったのよ!」
「そうよ、アンタなんかと一緒にしないで! お嬢様だかなんだか知らないけど、調子に乗っているんじゃないわよ」
「あら。私、別に調子になど乗っていませんよ」
こんな状況下であるにも関わらず、鶴野は変わらずに微笑を浮かべる。
そんな彼女の態度が、ますます女生徒達を刺激したのだろう。その内の一人が、手を大きく振り上げ――。
ぱしんっ……! と乾いた音が、閑散としたその場に響き渡った。
その音に近くまで来ていた牡丹は顔を歪ませ、何も叩くことないじゃないかと、びくびくと跳ね上がる心臓をどうにか宥める。乱れた息をそのままに、生唾を呑み込ませると彼女達の元へと飛び込む。
「あっ……、あの! その……、それくらいでいいじゃないですか」
「はあ? 何よ、アンタ。ふうん。靴のラインの色が赤ってことは、二年か。ねえ、見て分からないの? 私達、今忙しいの。分かったら邪魔しないでくれる?」
「でも……。やっぱりこういうのって、どうかと思います」
「なによ、年下のくせに生意気ね」
「ちょっと待って! この子、確か天正くんの新しい弟よ。ほら、先日この学校に転校して来たっていう……」
「ええっ、こんな冴えない子がっ!?」
(悪かったですね、兄さんとは違って冴えない子で。)
牡丹が心の中で謝る最中、女生徒達はひそひそと小さな円を作り話し合うと、そそくさとその場から撤退する。
天正家のブランドネームの強さに、牡丹は些か複雑な心情を抱くものの。一人残った鶴野の元へと駆け寄る。
「あの、鶴野さん。大丈夫ですか? えっと、その頬……」
「はい。これくらい、痛くもなんともありませんわ。気を遣って頂き、ありがとうございます」
心配する牡丹を他所に、真っ赤な頬を気に留めることなく。鶴野はやはり、ふわりと微笑む。
その痛々しい様に、牡丹は思わず固唾を呑み込み。
「……あの、そんなに好きなんですか?」
「え……?」
「あっ、済みません。いや、その……。そんなに道松兄さんのことが好きなのかなって。俺、誰かを好きになるって、そういうの、よく分からなくて。だから……」
「ええ、好きですよ。道松様のことが。いえ、愛しています。世界中の誰よりも――……」
恥ずかしげもない鶴野の様子に、聞いているこっちの方が恥ずかしいと。牡丹は薄らと頬を赤らめる。
思わず、彼女から視線を逸らせるも。ゆっくりと口角を上げさせ。
「さっき、竹郎……、あっ、俺のクラスメイトなんですけど、竹郎が言っていたんです。鶴野さんの髪、相当な手間とお金が掛かっていたに違いないって。なのに、道松兄さんに言われたからって、簡単に切っちゃうなんて……」
「別に構いませんわ。だって、髪なんてただの飾りですもの。それに、あの人の為なら何でもできます」
「なんで、どうしてそんな……。だって、誰かを好きになった所で、いつまでもその人のことを好きでいられるなんて思えないし、それに、いくら尽くした所で、報われる保証なんて一つもないじゃないですか」
「確かに、牡丹様の仰る通り。保証なんて何一つありませんわ」
「だったら……」
「私、道松様と同じなんです」
「えっ? 同じって……」
鶴野は、微笑んで見せ。
「私の母はお父様の愛人という身分で、私は望まずにしてできてしまった子なんです。それなのに、本妻には授かることはなく。妬ましく思った彼女は、紅茶に毒を盛って母を殺害しました。
それ以降、父は自らが招いてしまったその事件が原因か、すっかり火遊びが怖くなり。私の他に子を授かることはなく、朝夷家の跡取りは自然と私に決まりました。
その為か、私は屋敷内では腫れ物に触れるみたいに扱われています。私も、朝夷家を繁栄させる為だけの存在なんです。その役割ができるのであれば、別に私でなくてもお人形でもなんでも構わないのです」
「そっ、そんなこと……!」
「いえ、それが真実です。あの人達は、そういう人なんです。でも、道松様だけは違いました。どんなに周りから忌み嫌われようが疎まれようが、それがなんだって。平気な顔をして。
今思えば、あの人なりの精一杯の強がりだったのでしょうが、それでもあの頃の私にとっては憧れには変わりなくて。まるで世界の中心は自分だって、とても堂々としていて……」
そこで区切ると、鶴野は満足げに微笑む。ふわりと、まるで華が咲き誇るような柔らかな笑みだ。
そんな彼女を前に、牡丹はそれ以上のことは何も言えず。いつまでも黙り込む彼に軽く頭を下げると、すたすたと軽い足取りで去って行った。
✳︎✳︎✳︎
「おーい、道松。お前、今日はもう帰った方が良いんじゃないか? さっきから、一発も真面に当たっていないぞ」
陽斗は日頃の彼からは考えられないような辛気臭い顔で、道松の傍らに置かれているモニターを見つめている。先程から画面に映し出されるのは、四や五といった低い数値ばかりで、機械的に精密な腕前をした道松からは考えられない数字である。
「うるせえなあ。これからだ、これから」
「これからって、一体いつになるんだよ。その調子だと、日が暮れちまうぞ。
あーあ。朝夷さん、髪を切っちゃうなんて。勿体ないよな、あんなに長くて綺麗だったのに。おまけに、何故かお前のファンの子達もだけど……。
お前が意地悪して、『髪の長い女は嫌いだ』なんて、心にもないことを言うからだぞ」
「俺はそう言っただけで、切れなんて一言たりとも言っていないだろう」
「それはそうだけど。でも、そんなこと言えば、彼女なら絶対に切っちゃうって分かっていた癖に。……本当は、好きだったんだろう」
「なっ……! 好きじゃねえよ、あんな女」
「いや、それもだけど、そうじゃなくて。本当は、髪の長い女が好きな癖に。朝夷さんが髪を切って、一番ショックを受けているのに無理しやがって。それに、お前のファンの子達が事実を知ったらどうなるだろうな。一度切っちまったものは、元には戻せないからなあ。もしかしたら暴動でも起きちまうかもよ」
「知るかよ、そんなこと。自分達で勝手に切ったんだろう」
「一体俺になんの責任があるんだ!」と、道松は一層声を荒げさせる。
その怒声に、陽斗は耳の中に指を突っ込み。
「まあ、切っちまったもんは、元には戻せないけどさ。お前もいい加減、素直になれば? その方が余程楽だろうに。
朝夷さん、美人じゃん。スタイルも良くて、なによりお前に惚れ込んでいる。それのどこが不満なんだよ?」
「うるせえなあ。だから、お前には関係ないだろう」
「ああ、そうだな。俺には関係ないよな。でもさ。
……初めて会った時、彼女、凄く震えていたよ。今にも泣きそうな顔をしてさ。けど、お前の名前を出した途端、嘘みたいに急に明るくなって。なかなかいないと思うけどな、あんな風にちゃんと自分を見てくれる子って。お前のファンの子達みたいなミーハーな感じじゃなくて、本当の自分を見てくれる人って」
「……そんなの、お前に言われなくても分かっている。アイツが誰よりも泣き虫で、怖がりで臆病だってことくらい」
「だったら……!」
「だから、そういう問題じゃないんだ」
「それじゃあ、どういう問題なんだよ」
陽斗は眉間に皺を寄せさせ、じとりと道松の背中を睨み付ける。しかし、それは当の本人には全く通じて……、いや、気配では分かっているものの、簡単に無視されてしまう。
それでも、じりじりと陽斗からの攻撃が続く中。不意にコンコンと、外から戸を叩く音が聞こえ。続いて扉が開かれると、その隙間から現れたのは――。
「牡丹? どうしたんだ。お前、部活中じゃないのか?」
「そうですが、時間をもらって来ました。その、無関係の俺が口出しするのもどうかとは思ったのですが、でも、やっぱりそのままにもできないなと思って……。
今日、鶴野さんが女子に囲まれていました。道松兄さんのことで揉めていて。それで頬を叩かれてしまったんですけど、それでも平気そうな顔をしていました」
「……それがどうした?」
「どうしたって……。だって、叩かれているんですよ? 鶴野さん、兄さんの為に髪まで切ったのに、それなのに兄さんは、ずっと帰れの一点張りで。俺には兄さんが、鶴野さんから目を逸らしているようにしか見えません!
俺だって、鶴野さんの気持ちはよく分かりません。どうしてそこまで他人の為に一生懸命になれるんだって。俺の母さんも親父から裏切られたのに、それでも一度も悪く言ったことはなくて。だから俺も母さんの前でだけは、どうしてかはよく分からないけど、どうしても親父の悪口を言えなくて……。騙されたのに、どうしてそんなに思い続けられるんだろうって、馬鹿なんじゃないかって、本当に信じられなくて。でも……。
よく分からないけど、鶴野さんが必死なことだけは分かります。だから。ちゃんと彼女と向き合って、答え、出してあげた方がいいと思います」
ぜいはあと、吸っては吐いてを繰り返し。のべつ幕なしに口を動かしていた牡丹は、荒い呼吸を繰り返す。
すっかり興奮気味の彼を真っ直ぐに見つめたまま、道松はゆっくりと口角を上げ。
「ったく。お前もとんだお人好しだな。……答え」
「えっ?」
「この間の、質問の答え。まだちゃんと返していなかったよな。どうして俺が射撃部に入ったかって」
「ああ。はい、そう言えば……」
「俺の五歳の誕生日に、お袋は一丁の銃をくれた。銃といっても、弾はBB弾の玩具の銃だけどな。その銃は確かに玩具だったけど、でも、ただの玩具以上の重さがあった。
それから俺は、毎日その銃を手にした。毎日、毎日、的目掛けて、ただひたすらに撃ち続けた。銃を構えていると周りの雑音が全て遠退き、聞こえなくなるんだ。余計な物は見えなくなり、頭の中は空っぽになる。ただ真っ直ぐに、前だけを見つめていればいい。そこは音一つない、静かな世界だ。
――それが、答えだ」
「えっ、答え? 答えって……」
「あとは自分で考えろ」
ぽかんと間の抜けた顔を浮かべさせる牡丹の頭に、道松はぽんと手を乗せ。それからぽんぽんと数度軽く叩くと、するりと一人室内から出て行く。
真っ青な空に向かい、道松が一つ深い息を吐き出させると、さあっ……と一筋の風が彼の湿った頬をそっと撫で。
さらさらと流れ続けるそれに自然の赴くまま身を委ねていると、不意に強かな風が吹き上がる。その圧力に、思わず目を瞑り。風が弱まるのを感じ取るや開かせると、その先の光景に、彼はもう一度、ゆっくりと瞬きを繰り返した。
「あっ……、道松様。ふふっ、丁度良かったです。これ、差し入れですわ。射撃場は暑いので、ちゃんと水分補給をしないといけませんから」
そう言うと鶴野はふわりと笑みを浮かばせ、腕の中に抱えていた何本ものペットボトルの内の一本を掲げて見せる。
道松は口を閉ざしたまま静かに彼女の手首を掴み取ると、くるりと踵を返す。
「あの、道松様?」
「いいから。ちょっと来い」
道松は手短にそれだけ言うと、彼女の手を掴んだまま歩き続ける。その間、二人の距離は決して変わることはなく。無の時間ばかりが流れ続けた末、辿り着いたのは射撃場だ。
室内に入るなり、漸く道松は口角を上げ。
「勝負だ、鶴野」
「はあ? 勝負って……。おい、道松。一体何を言い出すんだよ……?」
漸く帰って来たかと思いきや。鶴野と共に全く予想にもしていなかった展開を引き連れて来た道松に、陽斗が口を挟むが彼は一切耳を貸すことはなく。ただ真っ直ぐに、鶴野だけを見つめている。
ただならぬ緊張感が迸る中、室内からの視線を一身に浴びている鶴野と言えば。にこりと平常と変わらぬ笑みを浮かばせ、彼等からの期待に応えるばかりであった。
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