第006戦:九重に うつろひぬとも 菊の花
牡丹が天正家の養子になってから、早幾日かが経過し――。
「牡丹お兄ちゃん、おっきろー!!」
ドタバタと騒がしい足音に続き、家内中に弾んだ声が響き渡り。ばたんっ! と勢い良く扉が開かれるのと同時、芒はぴょーんと牡丹の腹目掛けダイブする。
が、目標地点まであと数十センチという所で、布団の中からするりと腕が伸び。芒の肢体は、ぶらんと宙へと浮いてしまう。
「ふっふっふっ……。芒よ。毎朝、毎朝、やられっぱなしの俺だと思うなよ?」
見事防御に成功し。牡丹は嬉しさを隠し切れず、ほくそ笑む。けれど、反対に芒は、むすっと頬を膨らませ。
「むーっ……、牡丹お兄ちゃんの癖に!」
「なんだよ。俺が防御したらいけないのかよ?」
「あっ! あんな所に……」
「えっ。何かあるのか?」
「隙ありっ!」
「うぐっ――!?」
「ふふっ。まだまだ甘いね、牡丹お兄ちゃん!」
芒はにこにこと満面の笑みを浮かばせ、鼻歌を口遊みながら部屋から撤退する。
そのご機嫌な後ろ姿を疎ましく思いながら、牡丹は痛む腹を押さえ。どうにか階段を一段ずつ下りてリビングへと入る。
「おはよう、牡丹。ははっ。なんだ、また芒にやられたの?」
「藤助兄さんからも言って下さいよ。芒にあんな起こし方は止めろって」
「残念ながら、それは無理な注文だなあ。嫌なら起こされる前に、ちゃんと自分で起きるんだな」
じろりと平然な顔でご飯を食べている芒を睨んでいた牡丹だが、返す言葉もないとばかり。代わりに湯気の立った味噌汁を呑み込んだ。
「ふわあ、おはよう……。あれ、今日は随分と少ないんだね」
「おはよう、桜文。みんな朝練やらなんやらで早く家を出たからね」
「ううん……。このジャムのビン、蓋が開かないよ。牡丹お兄ちゃん、開けてー」
「どれ、貸してみろ。んーっ……、なんだ、これ。随分と固いな。開かないぞ……」
「なんだ、牡丹お兄ちゃんでも開けられないのか。それじゃあ、桜文お兄ちゃん。お願い」
「ああ、いいよ」
桜文はビンを受け取るなり、きゅぽんっと簡単に開けてしまい。
「わあ! 桜文お兄ちゃん、ありがとう。さすがだね」
「悪かったな、開けられなくて。ていうか、始めから桜文兄さんに頼めば良かったじゃないか」
「だって、桜文お兄ちゃんは、いつも簡単に開けちゃってつまんないんだもん」
(たかがビンの蓋を開けることに、面白さを求めるんじゃない。)
ジャムを塗りたくったトーストを頬張っている芒に、牡丹は眉間に皺を寄せながらも残りの物を片付けていく。
こうして朝食を食べ終え、登校していくが。ちらりと隣を見上げると、にこにこと朗らかな表情を浮かばせた桜文が。「今日の夕飯は何かなー」と、まだ今日も始まったばかりだというに。能天気に鼻歌を口遊んでいる。
そんな兄に、牡丹は一つ息を吐き出させ。
「桜文兄さん。夕飯って、気が早いですよ。まだお昼にもなっていないのに……」
「んー? そうかなあ」
「そうですよ……って、なんだ? あの人だかりは……」
校門を潜り抜けるや、柄の悪そうな男子生徒達がずらりと。左右に分かれて並んでいた。
彼等は牡丹達の姿が目に入ると、ぴしりと一斉に頭を下げ。
「桜文の兄貴、おはようございます!」
「ああ、おはよう」
「兄貴、鞄をお持ちします」
「いや。これくらい、自分で持つって」
「そんな。鞄持ちくらい、俺達に任せて下さいよ。ん……? おい、てめえ。何を飄々と、兄貴の隣を歩いているんだ? ああっ!?」
ぺこぺこと頭を下げていた男子生徒だが、牡丹に目がいくや態度を一変させ。ずいと恐面を突き付ける。鼻先でやくざ並みの睨みを効かされ、彼は思わず、「ひいっ!?」と短い悲鳴を上げた。
「一体誰に許可を取って、兄貴の隣を歩いているんだ。ああっ!?」
「えっと、あの、俺は、その……」
「おい、お前。何をしているんだ! この方は、新しく兄貴の弟になられた牡丹殿だぞ」
「なっ、なんと!? 兄貴の弟君であられましたか! これは大変失礼しました!」
「いえ、あの。そんな気にしていないので……」
未だにぺこぺこと頭を下げ続けている桜文の舎弟達を余所に、牡丹はそそくさとその場から離れて行き。
「ふう、びっくりした……。朝から凄い出迎えですね」
「恥ずかしいから止めてくれと、いつも言っているんだけど、アイツ等、全然聞いてくれなくてさ。困った奴等だよ」
「今日もお勤め、行ってらっしゃいませ!」と、背中越しに声援を浴びながら。桜文は、へらりと太い眉を下げる。
その後、昇降口で別れると、牡丹は一人教室へと向かい。中に入ると、竹郎が片手を上げた。
「よう、牡丹。凄かったな」
「おはよう。凄かったって、何が?」
「桜組の出迎えだよ。牡丹も一緒だったんだろう? さすがは柔道部だよな。体育会系というか、漢の世界って感じでさ」
「桜組? 桜組って、なに?」
「なんだ、知らないのか? 桜文先輩の親衛隊のことだよ。主に柔道部の部員で構成されていて、桜文先輩の一字から取って桜組。ウチの学校の名物の一つだぞ」
「へえ、そんなものがあったんだ」
「ああ。桜文先輩って後輩から好かれているし、男の俺から見ても強くてカッコイイと思うけど……。でも、今までに浮いた話って、一つも聞いたことがないんだよな。彼女の一人くらい、いてもおかしくなさそうなのにさ。まあ、そういう所がまた硬派で良いって話なんだけどな。
あっ、そういやあ、天正菊にもその手の話題が一つもないんだよ。彼女に告白して、無惨に散っていった連中なら山程いるけどさ。でも、ハイスペックな兄に囲まれているんだ。その辺の男なんか、石コロにしか見えないか」
「ふうん、石コロねえ。確かに兄さん達はみんな凄いらしいけど、でも、さすがに他の男が石コロっていうのは……」
どうなんだろうかと、牡丹は考え込むが。
(けど、そうかもしれない。兄さん達は本当に、みんな凄い人達ばかりで。いや、それ以前に、あの女が男に惚れている姿なんて……。)
ちっとも想像できないと、牡丹は顔を歪ませ。もしもそんな日が来たとしたら、天変地異でも起こるだろうと。
そんなくだらないことを考えながら、彼は鞄の中から教科書やらノートを取り出していった。
✳︎✳︎✳︎
空は、すっかり茜色に染まり。
牡丹は部活で疲れ切った肢体を引き摺りながらも、とろとろと歩き帰路へと着く。
玄関の扉を開け、中へと入るが。
「うわあっ!? びっくりしたー……。おい、菊。こんな所で何をしているんだよ?」
扉の直ぐ傍で、菊が何故か座り込んでおり。飛び跳ねた心臓をそのままに牡丹が問い掛けるも、彼女は何も答えない。その代わりとばかり、小さく縮み込むばかりだ。
それでも牡丹は訊き続けるものの。
「菊? おい、どうしたんだよ? ……菊? おいってば!」
「ただいまー……って、牡丹くん、どうかしたの?」
「桜文兄さん! 丁度良い所に。それが、菊が……!」
「菊さんが?」
こてんと首を傾げさせる桜文だが、牡丹の側で蹲っている菊の姿を目にするなり、彼女の傍へと歩み寄り。そのまま、ひょいと抱き上げた。
「牡丹くん。菊さんなら、大丈夫だから」
にこりと牡丹に向けて笑みを残すと、桜文は菊を抱えたまま階段を上がって行き。
数分後――……。彼がリビングに入って来るなり、牡丹は駆け寄り。
「桜文兄さん! 菊は!? 菊は、大丈夫なんですか? アイツがあんな風になるなんて、尋常ではないと思うんですけど……!」
「あははっ。牡丹くんが心配するのも分かるけど、でも、大丈夫だよ。えっと、菊さんは、その……」
「その?」
「だから、あの……」
「あの?」
「なあに、心配はいらねえよ。菊ならいつもの生理痛だろう」
「えっ。生理痛? 生理痛って……」
ソファで寛いでいた梅吉だが、二人の様子に見兼ねてか。ひょいと横から口を挟む。
すっかり目を点にさせている牡丹に、梅吉は呆れ気味な表情を浮かばせ。
「おい、おい。何をそんなに驚いているんだ。菊は女なんだ、何も不思議じゃないだろう。菊は痛みが酷い方らしいからな。生理が来る度に、いつも寝込んでいるよ」
そう梅吉から話を聞く一方で、牡丹は半ば呆然と。
(そっか……。菊ってよく考えれば……、いや、よく考えなくても、女の子なんだよな……。)
なんて、その流れで思わず初めて彼女と会った瞬間のことを思い出してしまい。牡丹はふるふると首を大きく左右に振った。
「ははっ。牡丹くん、菊さんが心配?」
「べっ、別に心配なんか……。ただ、あの菊が体調を崩すなんて。おかしいっていうか、変っていうか……」
「うん、そうだね。菊さんは強がりだもんね。でも、ああ見えて、本当は寂しがり屋で甘えん坊なんだよ」
「えー。あれのどこがですか」
「そうだなあ。菊さんは、演技が上手だから。さすがは演劇部の期待の星だよ。あー……。でも、寝たふりだけは下手なんだよなあ」
「えっと……、寝たふりですか?」
「そっ。寝たふり」
繰り返させる桜文に、牡丹は首を傾げさせ。
(寝たふりって、寝たふりをする演技なんてあるのか? あっ。白雪姫とか、眠れる森の美女とか?
ううん……。やっぱり寂しがり屋で甘えん坊な菊なんて、全く想像できないや。)
あの菊をそんな風に思っているなんて。やっぱり桜文兄さんは、少し変わっていると。
もやもやとした気持ちをそのままに、牡丹は心臓が落ち着いたことを確認すると。一人、ひっそりとリビングを後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます