第005戦:からくれなゐに 水くくるとは
時刻は放課後になるものの――……。
「ほら。早く渡して来なさいよ」
「う、うん。でも……」
「なによ。アイツに渡すんじゃなかったの?」
「そうだけど……」
「もう。渡すだけなんだから、さっさと渡して来なさいよ」
「そんなこと言われても。いざ渡しに行こうと思うと、足が竦んじゃって」
「やっぱり緊張するよお……!」と、紅葉の口から弱音が漏れる。
牡丹の教室の前まで来たものの、しかし。未だ決心が着かずにもたついている。先程からドアの前にべたりと張り付き、中の様子を窺うばかりだ。
「いいから早く行って来なさいよ。この調子だと、夜になっちゃうわよ」
「それは分かっているけど、でも……。それに牡丹さん、クラスの人達に囲まれているし……」
彼女の視線の先を辿ると、確かに彼の周りには数人の男子生徒の姿が。その中心に立たされている牡丹は、何故か困惑顔を浮かべている。
何かあったのだろうかと、紅葉は一層身を縮めさせ。そっと彼等の会話に耳を傾けると――。
「なあ、天正。いいじゃんかよ。お前の妹、紹介してくれよー」
「嫌だってば。自分達でどうにかしろよ」
「それができないから、こうして頼んでいるんだろう? なっ、同じクラスのよしみとしてさー」
「もう、しつこいなあ! 大体、俺、恋愛事って大っ嫌いなんだよ――!」
「えっ……」
(恋愛事が嫌い……?)
それはどういう意味なのかと、考えるよりも先に紅葉は立ち上がり。
「紅葉、どうしたの?」
「ううん、大丈夫。なんでもないよ」
「ちょっと、どこ行くのよ。クッキー、渡すんじゃなかったの?」
「うん、でも……。もういいの」
「はあ? もういいって……」
「ごめんね、菊ちゃん。付き合わせちゃって」
「ごめんね」と、もう一度繰り返させると、紅葉はへらりと弱々しいながらも笑みを取り繕い。直ぐ様その場から遠ざかって行った。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
「あーあ。クッキー、渡せなかったな……」
(牡丹さんの気持ちも考えずに、私一人が浮かれて馬鹿みたい……。)
くしゃりと、クッキーの入った紙袋を紅葉は握り締め。
(まさか、牡丹さんが恋愛事が嫌いなんて……。それって、牡丹さん自身、誰かのことを好きになったりしないってことだよね?
私がこの気持ちを伝えても、きっと迷惑なだけだ。ううん。もしかしたら、嫌われちゃうかもしれない……。)
彼女の心情とは程遠い、雲一つない青々とした空の下。紅葉は、はあと湿った息を吐き出させる。
こてんと、頭は自然と下がり。
(そう言えば、私って牡丹さんのこと、まだ全然知らないんだよね。知りたいことはたくさんあるのに……。
たとえば。夜寝る前とか、朝起きた時とか。牡丹さんはどんな夢を見るのかなとか、誰を思って目を覚ますのかなとか。どんな女の子が好きなのかなとか、私のこと、覚えていてくれているかなとか。
あの人のことを考えるだけで、心臓がどきどきして。こんな風に温かくて心地良い気持ちは、初めてで。
だけど、それは私一人だけで。牡丹さんはそんなこと、ちっとも思っていないのに。
昨日提出した、この原稿だってそうだ。一人の世界に入り込んじゃって。こんなんだから、先輩に駄目出しされちゃうんだよね……。)
じわりと目の端に、薄らと涙が浮かび上がり。咄嗟に吹き取ろうと紅葉は目を擦ろうとするが、刹那、一筋の突風が吹き荒れる。
その風は、悪戯にも紅葉の手を払い除け……。
「きゃあっ!? あっ……、あーっ! 原稿が……」
彼女の手から幾枚もの紙が離れていき。それは風に乗り、ばらばらと目の前で四方に散っていく。
紅葉は涙をそのままに、散らばってしまった原稿を一枚一枚拾い出すが……。
「……ふう、これで全部拾えたかな? えっと、一枚、二枚、三枚……。あれ、一枚足りない!? 一体どこに……」
きょろきょろと辺りを見回すと、一枚の紙切れが木の枝に。ひらひらと、危なっかしげにも引っ掛かっていた。
しかし、それはその場で手を伸ばしても、決して届きそうにはない高さで。
(どうしよう、あんな所に……。でも、たとえ駄目出しされた原稿でも、あれは私の一部だ。
先輩の言う通り、夢見がちで非現実的で、ご都合主義な展開で。ヒロインは、王子様が助けに来てくれるのをただ待っているだけのシンデレラで。だけど、そんな原稿でも、何日も何日も頭を捻らせて書き上げたものだから。
だから。)
そう簡単には、手放したくない――!
紅葉は気合いを入れると、木の幹へと足を掛け。蜥蜴みたいにべたりと張り付き、上へ、上へと登っていく。木登りなんて生まれてこの方したことなんてないけれど、おおよその要領で進んでいき。
「う……、うんっ、もう少し、あと少し……! やった、届いた……! って、えっ……」
ぐっと腕を伸ばし、紙に指が触れた瞬間。安堵感から幹に掛けていた足がずるりと滑り。紅葉の身体は重力に従い、素直に下へ落ちていく。
彼女はその後に備え、強く目を瞑るものの。けれど、いくら待っても予想していた衝撃が襲って来ることはなく。
おそるおそる、瞳を開かせていくと――。
「ふう、危なかった……。大丈夫? って、あれ。えっと、君は確か昨日の……」
きょとんと目を丸くさせている目の前の人物と同様、紅葉の瞳も自然と見開かされていき。
「牡丹、さん……?」
(うそ……。
なんで、どうして……!?)
未だ夢心地のまま、紅葉は恍惚と。自身を真っ直ぐに捉えている瞳を見つめ返す。
華奢なその肩には温かな手が添えられ、皮膚を通して彼女の内側へと伝わっていく。
(夢じゃない……、夢じゃないんだ。やっぱりこの人は、私の運命の人だ……!
でも。きっと、待っているだけでは何も始まらないから――……。)
「あ……、あの! 助けて下さって、ありがとうございました! 昨日に引き続き、今日もまた……。私、甲斐紅葉と言います。その、菊ちゃんとはクラスメイトで、友達で。あっ、そうだ! 昨日のお礼にクッキーを焼いて来たので、良かったら、その……。えっと、味は大丈夫だと思います。菊ちゃん、いつも美味しいって食べてくれるので。だから、その……。どうか受け取って下さい!」
ずいと牡丹の方へ。紅葉は勢いに任せ、例のクッキーを差し出す。
どくどくと鼓動が高鳴っていく中、聞こえて来たのは、「……ぷっ」と短い笑声で。
「えっ……?」
「はははっ。『どうか受け取って下さい』って……。それって、なんだかおかしくない?」
「えっと、そう……ですか?」
「うん。だって、確かに俺は助けたけどさ。でも、お礼って、そんなに必死にするものではないと思うよ」
ぽかんとしている紅葉とは引き換え、牡丹は腹を抱え。ひいひいと声を上げて笑い出す。
いつまでも笑い続ける彼に、紅葉の顔はすっかりと赤く色付き、小さく縮こまってしまうも。牡丹は彼女の手にちょこんと乗っている、クッキーの入った袋をひょいと手に取る。
「せっかくだし、もらっておくよ。えっと、名前……。紅葉だっけ……?」
礼を言って微笑んで見せる牡丹に、紅葉の身体は前のめりになり。
「はっ……、はい!」
そう強く言い返す彼女の両頬は、ますます深紅色に染まっていた。
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