第004戦:ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川

 幼い頃から、ずっと憧れていた。ずっと、ずっと、待ち望んでいた。そう、この日が来ることを。



「見つけた……。私だけの、王子様……」



 甲斐かい紅葉もみじ。十五歳、高校一年生――。


 生まれて初めて、人を好きになりました。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 ちゅんちゅんと、心地良い小鳥の囀りが鳴り響く中――。


 突如、ばんっ! と鈍い音が室内中へと轟く。それから。



「牡丹お兄ちゃん、起きろー!」



 その音に続き、鈍い衝撃が牡丹の腹の辺りへと振り落ち。不意打ちとばかり浴びせられた痛みにより、彼は強制的に夢の世界から退場させられてしまう。


 けれど、潰れた蛙のような音を上げる牡丹には一向に構わず。加害者である芒は、ゆさゆさと彼の腹の上で激しく揺れ続け。



「あのさあ、芒」


「なあに? 牡丹お兄ちゃん」


「その、起こしてくれるのはありがたいんだけど……。毎回、毎回、腹の上に乗るのは止めてくれない?」


「えー。どうしてー?」


「どうしてって、痛いからに決まっているだろう。ほら、早く降りろよ」



 しっしっと牡丹が手で払うと、芒は些か不満そうではあったものの。「はあい」と間延びした返事をし、素直に部屋から出て行った。


 その小さな後ろ姿を見送ると、牡丹は制服へと着替えていき。自室を出るが寝惚け眼を擦りながら階段を下りていると、つるりと足を滑らせてしまい。ズダダダダダンッ……!! と、家内中に地響きが鳴る。



「いっつー……」



(この歳で階段から落ちるとか……。)



 情けないなあと床に寝転がりながら、牡丹は苦笑いを浮かべさせ。それから起き上がろうとするものの、ふと頭上に黒い影が掛かり。ゆっくりと頭を上げていけば――。



「水玉……。はっ!?」



 しまった――! と、牡丹は咄嗟に口を押さえさせるが、それは後の祭りであり。そのまま更に上を見据えれば、案の定、鬼の形相をした菊がまるでゴミでも見るような瞳で牡丹のことを見下ろしていた。



「いや、あの。これは、その……」



 弁解を述べる時間など、勿論与えられず。


 震える口先から二の句が継がれる前に、バッチーンと乾いた音がまたも家内中へと響き渡った。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






「おーすっ、牡丹! ……って、その顔、どうしたんだ?」


「別に……」



 登校して来て早々。首を傾げさせる竹郎に、牡丹は赤く腫れた頬をむすっとさせたまま答える。



「ふうん。まっ、いいや。それより。じゃっじゃーん! 見ろよ、これ」


「なんだ、映画のチケットか?」


「違う、演劇のチケットだ」


「演劇ねえ……。竹郎って、そういうのに興味があったんだ」



 無関心な様子の牡丹に、竹郎は心外とばかり。つまらなそうに口先を尖らせ。



「なんだよ、少しは驚けよー。これは、ただの演劇のチケットじゃない。天正菊が出演する演劇のチケットだ。天正菊が出るだけで、倍率が上がって入手するのが大変なんだぞ」


「へえ、アイツが出るのか。お前も物好きだな」


「何を言っているんだ。あーんな美人を物好き扱いする、お前の方が余程変わっているぞ」


「そうかあ? あんな暴力女のどこがいいんだよ」


「たとえ暴力的でも、あの可愛さならプライスレス。ていうか、一緒に暮らしていて、こう、可愛いなあとか思う瞬間はないのか?」



 牡丹は一寸考えてから、直ぐにも、

「ないな」と、即答する。



「はあ? 本当かよ。お前って、余程趣味が変わっているんだな」



 それとも理想が高いんだろうかと、勝手にあれこれ推測し出す彼を他所に。牡丹は机の中から一限の授業で使う教科書とノートを取り出して並べ。


 ぱらぱらと、適当にページを捲り。早く始業の鐘が鳴るよう一人願った。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 同時刻、一つ上の階のとある教室にて――。



「……みじ……。ちょっと、紅葉ってば!」


「あっ……。菊ちゃん、おはよう」


「『おはよう』じゃないわよ。何をぼさっとしているの」



「何度呼んだと思っているのよ」と、菊は手元の机を強く叩き付け。目の前の少女を酷く睨み付ける。


 けれど、紅葉と呼ばれたその少女は、さらりと肩下で綺麗に切り揃えられた黒髪を軽く揺らし。彼女とは裏腹に、ふわりと花咲く笑みを添えさせ。



「ごめんね、菊ちゃん。あのね、私、見つけたの……」


「見つけたって、何を?」


「王子様……」


「はあ?」


「私の運命の人、牡丹さん……」


「牡丹? 牡丹って、まさか――!? 

 アンタ、いつの間に……」



 彼女の頬は、薄らと朱色を帯びており。瞳もとろんと熱く蕩けている。


 そんな彼女の様子に、菊の口からは、はあ……と乾いた音が自然と漏れ。



「よりにもよって、なんでアイツなのよ……。あんな男のどこがいいの?」


「そんな言い方しないで! 牡丹さんは、とっても素敵な人よ。上級生の男の人に絡まれて困っていた私の前に颯爽と現れて、助けてくれたの。まさに、夢にまで見た王子様だったわ……」


「ふうん、あの変態がねえ……。下心でもあったんじゃないの? アンタ、可愛いから」


「もう、菊ちゃんってば! さっきから牡丹さんのことを悪く言って。牡丹さんが菊ちゃんに何かしたの?」


「それは……。とにかく、アイツは碌な男じゃないから。くれぐれも気を付けなさい」



 口を酸っぱくして警告する菊に、紅葉は頬を大きく膨らませるが。直ぐにもそれをしぼませていき。



「でも、いいなあ、菊ちゃん。牡丹さんと一緒に暮らしているなんて。それに、私、一人っ子だし、お兄さん達もみんな素敵だし。賑やかで楽しそうで、羨ましいな」



 そう述べる紅葉から、菊はふいと顔を逸らし。



「ちっとも良くなんかないわよ。……兄妹なんて」


「菊ちゃん? どうかしたの?」


「いえ……、なんでもない。それより、昼休みに先輩が劇の脚本のことで話があるから、教室まで来てくれって。伝言を預かったわ」


「脚本のことで? なんだろう」


「あのメルヘンチックな展開に、物申したいんでしょう? 全く、途中までは良い感じなのに、後半からいつも滅茶苦茶になって。その夢見がちな性格、もう少しどうにかできないの?」


「別に私、夢なんて見ていないよ」


「王子様とか、運命の人とか。そんなことばかり言っている人間の、どこが夢見ていないのよ。大体、この現実に王子なんてファンシーなものがいる訳ないじゃない」


「そんなことないよ。いるもん、王子様!」



 紅葉は再び、ぷくうと頬を膨らませるが。またしてもそれを保つことなく空気を抜いていき。



「……ねえ、菊ちゃん。いくら牡丹さんが素敵だからって、菊ちゃんも牡丹さんのこと好きになったら嫌だよ……?」



 薄らと潤んだ瞳を差し向ける紅葉に、菊はむすりと眉間に皺を寄せ。



「はあ? 誰があんな変態のことを。冗談言わないでよ」



 そう言うと、彼女は紅葉の額へと指を持っていき。その真ん中目掛け、つんと強く弾いた。


 紅葉は短い悲鳴を上げると、ぐにゃりと顔を歪ませ。


「いったーい!」と、一際甲高い音を上げる。



「紅葉が馬鹿なことを言うからよ」


「菊ちゃんってば、ひどーい。もう……。あっ、そうだった。あのね、私ね、牡丹さんに助けてくれたお礼にと思って、クッキーを焼いてきたの」


「ふうん、よくやるわね」


「もう、菊ちゃんってば本当に意地悪。あのね、だから、それでね。牡丹さんに渡しに行くの、付いて来て欲しいの……」



 ぼそぼそとそう依頼するも、菊の顔色は一層と悪くなるばかりで。



「はあ? それくらい、一人で行きなさいよ」


「菊ちゃんってば、そんなこと言わないで……! お願い、一人だと恥ずかしくて上手く話せないよー」



 紅葉は咄嗟に菊へと飛び付き。ぎゅううう……と、彼女の腰へとまとわり付く。


 いつまで経っても離れそうにない紅葉に、菊の方がとうとう折れ。



「もう、仕方ないわね! 付き合ってあげるから、早く離れなさいよ」


「本当!?」



「絶対だよ!」と、執拗に念を押し続ける紅葉に。菊は、「しつこい」と強く跳ね除けた。

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