第007戦:もとのまがきを 思ひ忘るな

 今日も今日とて部活に励み。薄紫色に染まっていく空に向かい、牡丹はぐっと背筋を伸ばす。


 引き続き家に向かって歩いていると、前方に見覚えのある姿が目に入り……。



「あっ、菊……」



 その人物――、菊も牡丹に気が付くや、げっと顔を歪めさせ。歩くペースを速め出した。



「あっ、おい、ちょっと……!」


「なによ。付いて来ないでよ、変態」


「仕方ないだろう、同じ家に帰るんだから。それと、何度も言うが、俺は変態じゃない!」



 牡丹はここぞとばかりに主張するが、しかし。一方の菊は、ぷいとそっぽを向いてしまう。


 この女、どこまでしつこいんだ……! と、牡丹はふるふると拳を握り締めるが、一呼吸置かせ。大人げないかと省みると、ちらりと隣を歩く彼女を盗み見た。



「それより、体はもう大丈夫なのか?」


「……」


「なあ、おいってば」



(なんだよ。せっかく人が心配してやっているのに、無視しやがって……!)



 可愛くない奴――! と、つい数秒前にした反省は、すっかりどこかへと吹き飛んでしまい。牡丹は心の内で思い切り叫んだ。


 そして、彼も足を速めるものの。牡丹が足を速めれば、今度は菊が足を速め。二人の歩く速度は自然と速まり、どちらも先を譲ろうとしない。


 本当にしつこい女だと、牡丹が視線を横に流すと。彼女の鞄にぶら下がっている、クマのマスコットキーホルダーが目に入り――……。



「へえ。お前もこういう可愛い物が好きなのか?」



「意外だなあ」と牡丹がキーホルダーに触れると同時、ばしんっ! と鈍い音が轟く。突然迸った痛みに、牡丹は苦痛の音を漏らし。



「おい、なにするんだよ!」


「汚い手で触らないで!」


「なっ……、誰の手が汚いって!? それに、何も叩くことないだろう!」


「なによ。アンタが勝手に人の物に触るからでしょう!」


「なんだよ! 確かに勝手に触ったのは悪かったけど、でも、だからって叩くことないだろう!」



 いつもなら言い負かされ、簡単に諦めてしまう牡丹だが、今回ばかりは負けじと反撃を試みる。


 しかし、一方の菊も牡丹目掛け、ぶんぶんと鞄を大きく振り回し出し……。



「いたっ。おい、ちょっと……。止めろって! いたっ……」



 牡丹の制止の音も虚しく、菊の攻撃は激しさを増していき。けれど、何度目の攻撃になるだろうか。菊がここ一番の力を込めて鞄を振るや、その拍子に先程のキーホルダーが外れてしまう。それは小さな弧を描きながら宙を飛び、そのまま――、ぽちゃんっ! と池の中へと落っこちた。



「あっ……。あーあ、落っこちちゃったぞ。お前が鞄を振り回すから……」



 呆れがちに菊の方を振り向くが、彼女の姿はそこにはなく。辺りを見回すと、菊は濡れるのも構わず、バシャバシャと池の中へと入っていた。



「おい、何をしているんだよ!? こんな時期に池になんか入ったら、風邪引くだろう。おいってば!」



 牡丹が叫ぶものの、その声など一切無視し。菊は腰を曲げさせ、水の中へと手を突っ込ませる。


 一心不乱に池の中を漁り続けている彼女に、彼はぎゅっと拳を握り締め。



「なあ、菊。そんなに大切な物だったのか? だったら、また同じ物を買えばいいだろう。こんな広い池の中から探し出すなんて、無理に決まっているだろう。おい、菊ってば!」



 もう一度、牡丹が声を張り上げると。菊はやっと顔を上げたかと思いきや、きっと鋭く彼のことを睨み付ける。


 そして、直ぐにも視線を池に戻し、また手を動かし出すものの。けれど、その一瞬。牡丹は決して見逃さなかった。彼女の目の端には、薄らとだが涙が浮かび上がっていたのを……。



「なっ、なんだよ……。分かったよ。探せばいいんだろう、探せば!」



 牡丹は半ば自棄に、靴と靴下を脱ぎ捨て。ズボンの裾を捲り上げると、自身も池の中へと入って行く。肌を突き刺すような冷たさに思わず後退りしてしまいそうになるものの、どうにか気を紛らわせ。思いっ切り、手を突っ込ませた。



(うっ、冷たい……! なんだよ、なんだよ。たかがキーホルダー一つで、何も泣くことないだろう……。)



 言いたいことは、上手く口から吐き出されることはなく。冷たさに耐えながらも、牡丹は必死になって手を動かし続ける。


 しかし、先程から掴むのは虚しい感触ばかりで。本当に見つかるだろうかと、諦めかけた刹那。固い塊が指先へと触れ――……。



「あっ……、あった……! あった、あった! ほら、これだろう?」



 牡丹は手にしたキーホルダーを、ずいと菊の鼻先へと突き付ける。


 彼女は、ぱちぱちと数回、瞬きを繰り返した後。牡丹からそれを受け取るや、すっ……と目元を下げていき……。



(うっ……、菊のこんな顔、初めて見た……。

 なんだ、こんな風に笑えるんだ……って、あれ。なんで俺、こんなにどきどきしているんだ……?)



 ばくばくと独りでに跳ね上がる心臓を、牡丹はどうすることもできず。不可思議な動悸に、動揺しながらも池から上がり。


 結局はそれを上手く処理できないまま、彼女と肩を並べさせて。ぼたぼたと大きな水雫を垂らしながらも歩いて行った。






✳︎✳︎✳︎






 こうして、漸く家へと辿り着くも。二人の恰好を見るなり、藤助は素っ頓狂な音を上げさせ。



「どうしたんだよ、その格好は!? 二人して、びしょ濡れじゃないか」



 彼は慌てて部屋に戻ると、タオルを持って戻って来て。



「もう、一体何をしたんだよ。うわっ、靴までびしょびしょじゃないか。ほら、早く風呂に入って温まらないと。牡丹、風呂は菊が先でもいい?」


「俺は後でも構いませんが……」



 本当に何をしたんだと、藤助に怒られていると。ふと傍らから、ぷぷっ……と小馬鹿にしたような笑い声が聞こえ。音のした方に視線を向けると、そこには笑いを堪え切れていない次男の姿があった。



「お前達、いつの間にか随分と仲良くなったんだな。そんなに仲が良いなら、一緒に入ればいいのにー」



 くすくすと、梅吉はまた笑声を上げるも。次の瞬間、ぼこんっと鈍い音が轟く。


 彼は短い悲鳴を上げると、手で頭を抱えさせ。



「いってえ……!」


「もう、梅吉がしつこくからかうからだろう。今のはお前が悪い。

 ほら、牡丹。風呂が空くまで、スープでも飲んで温まりな」


「ありがとう、藤助兄さん」


「ったく、鞄なんか投げやがって。あの暴力的な性格は、なんとかしないとならないな。あー、まだ痛むぜ……。

 で、牡丹よ。一体何があったんだ?」


「何って……。菊のキーホルダーが公園の池に落ちちゃったから、探していたんです。それだけですよ」


「ふうん。それだけねえ……」


「なんですか? その目は」


「別にい」



 梅吉はいま一つ納得していないという顔で牡丹を見つめていたが、それにも飽きたのか。テレビの画面へと視線を戻した。


 そうこうしている間にも菊が風呂から上がり、入れ替わる形で牡丹も入る。


 数十分後――……。身体も漸く暖まり。ごしごしと毛先から滴り落ちる水雫を、タオルで拭き取りながら牡丹はリビングへと入る。夕食ができるまでソファに座って待っていようとしたものの、座ろうとしていた所には先約がおり。菊がごろんと横になっていた。


 すうすうと小さな寝息ばかりが耳を掠める中。牡丹は彼女の肩を掴むと、軽く揺さ振り。



「おい、菊。こんな所で寝たら、風邪引くぞ。おいってば」


「いいよ、牡丹くん。無理に起こさなくても」


「桜文兄さん。でも……」


「俺が部屋まで運ぶからさ」



 そう言うと、桜文は軽々と菊を抱え。そのままリビングを出て、二階へと続く階段を上がって行く。


 牡丹はそれを見守っていたが、台所から、「できたぞー」と、藤助の声が聞こえ。ぐう……と大きな腹の虫を鳴らすと、そそくさと。一足先に、食卓の席へと着いた。






✳︎✳︎✳︎






 一方、菊を部屋へと運んでいた桜文だが――。


 中途半端に開かれた、扉の隙間から差し込む廊下の明かりばかりを頼りに。菊をベッドへと寝かせ、上から布団を掛けてやる。


 その寝顔をじっと見つめ。



「本当に疲れて寝ちゃうくらい、牡丹くんと何をしていたんだか……」



 桜文の口から、くすりと小さな笑みが漏れ。そっと、彼女の顔に掛かっていた髪を指先で払い除ける。


 深閑とした時間ばかりが流れるも、不意に、「夕飯の支度ができたよー!」と、下から芒の叫び声が聞こえ。その声を耳にするやベッドから離れ、扉の方へと移動する。


 そして、「おやすみ」と。小さな音で暗闇に向かって言い残すと、音を立てないよう静かに扉を閉め。



「……によ。なによ、意気地なし……」

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