由紀と文隆は下北沢のトラットリアで。四月。

文隆: 下北沢の駅前で、私は人混みの中からいとも簡単に川端由紀を見つけた。

「由紀。」

 普通に立っていても、かなり目立つ種類の女性だ。

 あの頃の様に、私は左拳を突き上げ自分の居場所を彼女に知らせた。『さん』を付ける積りだったが、何だか気恥ずかしく、そのまま『由紀』と呼んでしまった。


由紀: 「文隆。」

 私は控えめに手を振る。拳を突き上げなくても、突っ立って居るだけで彼が何処に居るかは大方直ぐに分かる。相変わらず。

 世の中の平均身長が高くなったとしても、目立つヤツは目立つ。

 多分、二人共、あの頃と全く同じ手の振り方だったと思う。極めて自然に、文隆の所作は男臭い。馴れ馴れしく呼び捨てにするのも、彼の主義。

 その後、私は言葉に詰まる。何から話そうか、全く分からない。

 ただ、彼に促され、歩き始める。

 昔より、綺麗に歩いている。重心がブレない。古傷との付き合い方が上手くなっているのだろう。


文隆: 「この店は、ちょっと分かり難い所にあるだろう。絶対的隠れ家感がお気に入りでね。しかも、確実に美味い。」

 私は馴染みのトラットリアの扉を開け、由紀を先に入れた。

 中からは朗らかなパドローナを始め若いスタッフの声が挙がる。

「ここの料理人は、自ら客に自分の顔を晒して料理しているんだ。客の反応を直接見ながら、肌で感じながらね。」

 私は言った。


由紀: 「お客様から逃げて居ない。なかなか出来ない事よ。」

 私は言い、メニューを観察する。

「私は、メニューの行間を読むのよ。そこに料理人の心意気が現れているから。」

 ちょっと偉そうに文隆にプロの視線を説いた自分が可笑しい。本能的に私は何かを感じ、既にこの店に魅せられている。

 キッチンを見ると、そこに料理人一人と、助手を務める若者が一人。二人だけで、これだけの品数を揃えるのは並大抵の能力ではない。

 実は、この店の名は、以前に聞いた事がある。しかも、信頼を寄せているレストランの主人、それも二人から。下北沢で、唯一信頼出来る店だと。この街の裏道で、異彩を放って居ると。

「今夜のところは、文隆にメニューを任せるわ。でも、パスタはカチョ・エ・ペペが良いわ。極端にシンプルな一品を敢えてメニューに載せて居るって、なんだか挑まれた様な気持ちよ。」

小さなバスケットからパンを取る。

「良い香り。これも自家製って、ここのシェフはちゃんと休んでいるのかしらね。」

 商売柄、私は様々な飲食店へ行き勉強する。だから私には解る。

 イタリア語で『シェフコォーコ』で良いのかしら。『シェフ』はフランス語だけど、イタリアでも一般的には『シェフ』だと聞く。確認しなければ。

「しかし、京都より下北沢の方が複雑な迷宮よね。分からないわ。次回、このお店に伺う時は、スマホに頼るわ。」

 私は笑う。

「もっとも、彩愛と一緒なら迷わないで済むわ、きっと。あの娘は方向感覚が良いの。」


文隆: 「彩愛はお稲荷さんに確証は持てたのかな。」

 気になるところだ。


由紀: 「未だみたいね。尤も、とぼけて京都で遊ぶ口実にしているだけかも知れないわ。」


由紀: 「祇園の料理屋さんが衝撃だった様よ。カルチャーショック。あの娘は、大きな刺激を受けると、消化して言葉で表現するまで時間が掛かるのよね。」


文隆: 「大袈裟な。」

 私は笑った。


由紀: 「トイレからして尋常では無かったって。」


文隆: 「主人も女将も喜ぶよ。」

 私は言った。


由紀: 「感謝しているわ。」


由紀: 「愛理が、下の娘、文隆に会いたいって。」

 私は、自分の娘達が文隆との関係を早急に進展させようとしているのが気になっている。何やら企んでいないか心配になる。


文隆: 「僕も会いたいな。」

 私は、口でそう言いながらも、何故か一定の不安要素も感じていた。引き返せなくなる。しかし、全ては成るがままに任せる以外に無いだろう。


由紀: 「愛理はね、彩愛に比べて、内向的。取っ掛かりの難しい娘だけど、慣れると一気に距離を詰めて来るわよ。まあ、色々と面白い娘。」

 いずれにしろ、文隆とは馬が合うだろうと思う。特に、態々人とは違う主張をする所。


文隆: 「楽しみだな。二人のお嬢さんに会えるのが。」

 確かに、楽しみなのだが、私は自分の息子達には未だ何も話していない。そこに、罪の意識が生まれていた。


文隆: 「僕は未だ息子供には、君の事を話していないんだ。正直、最近、奴らには会っていないし。」

 私は、自分の女性関係を彼等に話すのがどうしても躊躇われる。

春海は、未だ再婚していない。彼女の男性不信を一気に吹き払う男が登場することを願っている。若しくは、既に存在して居り、私が知らないだけか。

現実的に考えれば、それも有り得る。向こうに、此方に知らせる義理など無い。


文隆: 私は自分が春海より先に幸せに成ってはいけないと信じている。


由紀: 「そう。息子さん達とは、微妙な関係だということよね。」

 刺された胸が様に痛む。自分の離婚によって、子供達に要らぬ苦労をさせてしまった罪の意識を共有しているのだ。

 文隆にとって息子さん達は既に他の家の人間。本来、彼等に対して何も遠慮する必要は無い。双方共に運命だからと諦める以外にない。

 私の別れた夫は既に再婚し、新しい家族を始めている。彩愛と愛理の二人と、彼の関係は今後どうなって行くのかは、彼女達次第。成る様になる。それしかない。


文隆: 「ね、お得意様の祝賀会は上手く行ったの?」

 私は由紀に尋ねる。昔からずっと仲が良かった二人が、数ヶ月振りに会った時の様な口調。


由紀: 「クライアントには大いに喜んで頂いたわ。でも、完璧とは言えない。今になって振り返れば、勿論、色々課題が出て来るわよね。」

 私にとって、京都から帰ってからの時間は、簡単には言葉に表せない程の疑念と苦悩が連続している。この男を信じて良いのか。再び、傷付く羽目に陥るのか。

そして、自分の離婚の顛末を、未だ、彼に胸を開いて洗い浚い話す様な気にはなれない。未だ、話すのが痛い。精神的に、肉体的に痛みを伴う。

「あれからどうしていたの?」

 私は質問をして、彼の好奇心を先に封じる。

 大人の女の子には、秘密にしておきたい事も一つ二つある。


文隆: 「結構、自分では上手くやって居た積りだが、正直、君の事を考えて居る時間が長かった。まるで、ガキの頃に戻った様な気分だ。」

 そう、京都からの帰途、私は既に由紀と二人だけの逢瀬を夢想していた。

私は彼女に、私の離婚劇を話す。それを承知した上で私を信用するだろうか。もっとも、彼女自身も離婚を経験し、相手を疑う事を骨に刻み込んで居るだろうから、私に過度の期待は抱かないだろう。その方が、お互いに過度にのめり込まず、都合が良い。


文隆: 「本当は、前回、京都で話そうと思っていたんだが、何となくタイミングを逸して仕舞った。」

 私は、意を決して言った。と、いうより、勢いで話し始めてしまった。


由紀: 「何だか、真剣なお話しみたいね。普通なら、ガチ話しはデザート後にしてと、お願いするところだけど。」

 私は笑顔だが警戒している。経験上、この男のガチ話しはロクでも無い。


文隆: 「だったら、後回しにしようか。」

 彼女の細やかな希望は、理解出来る。しかし、お互いに落ち着かなくなる。


由紀: 「後回しに出来るなら、後回しにして。」

 この男は、脳の何処かが明らかに普通ではない。

 恐らく、離婚に関して、話して仕舞いたいのだろう。


文隆: 我々は二人が音信不通になってから、これまでの間に出会った印象的な本。絵。映画。音楽について語った。

 いつもの様に、パスタだけはさっさと食べるのが基本。その後にゆっくり話すのだ。


由紀: この男は、いつ何処で本を読んでいるのか分からない。それでも、読んでいる。確実に。


文隆: 私にとって、昔と同じ様に音楽の話しが楽しかった。私は、クラシックにおいては、器楽や室内楽が多い。しかし、由紀は昔から大編成のオーケストラを好んだ。


由紀: ピッチが高ければ、音の輝きが増すと考えるのは非常に愚かだと文隆は熱くなっている。

 彼は、バロック・ピッチのリュートを聴いて痛く感動したと染み染み語る。音楽は更に深みを増した色合いで織り上がるから耳を傾けるべきだと持論を展開する。


文隆: 由紀はここ数年、合唱曲や声楽に惹かれていると語った。矢張り、人間の声は神聖だと主張した。

 彼女は最近気に入っている合唱団や、楽曲を並べた。私は、そのリストをメールで送れと頼んだ。

 そして、いつの日にかまた音楽会に、あの頃の様に、出掛けたい。


由紀: 「二人でセミフレッドをやっつけちゃいましょう。」

 私は、そう言い、文隆の返事も待たずにデザートを注文する。

 彼は、テーブルの真ん中に運ばれて来たお皿を、何も言わずに私の前に置き直し、頬杖を突く。満足そうに私の食べる様子を見て居る。

 あの頃の様に。変わらない、全く。

 突然、込み上げる懐かしさが涙となって流れそうになるのを必死に抑える。

「美味しい!」

 私は、突然襲って来た動揺を隠す為に言う。

 すると、これは自分の担当だとパドローナは笑う。笑顔の下に、途轍もない才能を隠して居る種類の女性。嫌いじゃ無い。繁盛している店を切り盛りしているのだ。私のチームに欲しいくらい。

 シェフは、料理の腕は凄まじいものがあるが、何となくクセが強そう。否、確実に曲者。私には分かる。


由紀: 祇園の料亭で働く仲居さん、中嶋さんを自分の陣営に招き入れようとは思わないのは、分業制が確立し、余りに見事な接客のプロとして働いているから。我が社では、料理も営業も或る程度の次元で熟せる人でなければ厳しい。


文隆: 私は、由紀がこの店をすっかり気に入って居る様子に安堵した。彼女も料理の世界で身を立てて居る人間だ。美味しい店に連れて行かなければ、私自身の味覚も疑われてしまう。その点で、ここは大当たりだった。


文隆: 「じゃ、話す。俺の離婚の顛末。」

 私はため息を吐き出す勢いで、口火を切った。


由紀: 「貴方の不倫。それがバレて離婚。そんな処でしょ?」

 私は、笑顔で言ってみる。恐らく図星。この男の行動は余りに本能的で分かり易い。


文隆: 一瞬の絶句。

「まあ、そうだ。」

 由紀なら、私のことを十分に理解し過ぎる程に理解している。驚く程の事は無いのだろうが、寂しさもあった。

真由美の中に居た自分、そして由紀の中に居た自分も、その程度のいい加減な男だったとことだ。


由紀: 「奥様に対して何か不満が有ったの?それとも、ただフラフラと行っちゃったの?」

 質問して置きながら、自分がバカだと思う。不満とフラフラの両方であるに決まっている。


文隆: 「ただ日常に倦んだのだと思う。仕事関連で知り合った女性とね。」

 春海に対する不満を由紀に話すのは憚られる。


由紀: 春海さんに対する不平不満を私に話す様な男では無い。きっと何かが有ったのだろう。

「その不倫相手とは、今、どうなったの?」


文隆: 「離婚が成立したと同時に別れた。」

 これは、離婚より話すのを躊躇われる内容だった。


由紀: 「何故?」

 これは、純粋に好奇心からの質問だ。更に、現在の彼を知る上で非常に大切だと思う。


文隆: 「不倫をしている時に有った緊張感が良かったんだろう。そのドキドキを恋愛だと勘違いしていたんだよ。離婚が成立してしまうと、その背徳感が喪失して仕舞った。」

 私は、ここの過程は非常に人間的ではあるものの、自分の人生に於いて一番恥ずかしい。

「まあ、離婚が決定的になって、ドタバタしている時、僕もかなり動揺していたんだろう。彼女にも、相当の負担を強いて仕舞ったのかも知れないな。結果、お互いが一気に萎えた。積極的に連絡を取ることすらしなくなったよ。」

 最後も、お互い絶対に次など無いと知りながら、『またね』と言って手を振ったのだった。


由紀: 「最悪。出来損ないの三文姦通小説じゃない。」

 文隆も、ただの男であったと言うこと。私と不倫相手と、どの様な扱いの違いがあるのだろうか。


文隆: 「正しく。否定はしない。今となれば戯言との誹りは免れないけど、当時は本気で全てを失っても良いと思っていたんだ。」

 あの時の自分は、まさに他人だ。何を考えていたか、全くわからない。確かに美しく、知的で、言葉数の豊かな女性だった。


由紀: 「それで、本当に全てを失った。」

 私は、その際の彼の痛みを知りたいのだ。自分の痛みとは、まるで性質の違う痛み。


文隆: 「そう。失うと覚悟した物以上の、多くを失ったよ。自分という存在の四分の三は綺麗に吹っ飛ばされた。何かが僕の中で変わったよ。流石にね。」

 或る意味、あの時、私は一度死んだ。己が生涯を賭けて作り上げようとしていた物を、根底から破壊して仕舞ったのだ。一番大切にしていた物を失った。


由紀: 「で、今は誰か綺麗な方とお付き合いしているの?」

 思った以上に嫌味な、意地悪な匂いを纏った質問になってしまう。軽く後悔。


文隆: 「先日、破局を迎えました。」

 仔細は、訊かれなければ答えない積りだった。


由紀: 「その方、綺麗な上に、聡明でいらっしゃるのね。アンタみたいな男は手早く切るに越した事は無いわ。」

 私には、その女性が美しいと確信がある。この男は救い難い面喰いなのだ。そして、彼を気に入る女性は、ほぼ例外無く変人。

 私は、今、正に大きな間違いを犯すところだ。私は、彼がどの様な男か、彼女達より知っている。


文隆: 「そうだね。」

 私には苦笑しかない。


文隆: 「そんな俺で良いのか?」

 暫く続く沈黙に耐え兼ねた私は、尋ねた。


由紀: 「二人の息子さんは?」

 私は、質問を返す。何よりも、この男を信じるには、息子さん達に対する姿勢を確認する必要が断じて有る。


文隆: 息子達の話しになると、自分でも声の質が重くなるのが分かる。

「失った物で一番大きい。当然、状況から二人は母親の許を選んだよ。そして、春海は二人を見事に育て上げた。」

 私は、心底彼女には申し訳ないと思っている。

「養育費。春海は要らないと言ったが、二人の学費と多少のお小遣いを送っている。春海はその金を全て貯金し、大学卒業と同時に二人に渡すと言っていたよ。」


文隆: 「長男義隆は私を許してくれないが、次男正隆は時々気紛れに夕飯を集りに来る。いつも、奴から家の様子を聞くんだ。」

 私は言った。長男は愛する母親が深く傷付いたのを見て、私を唾棄すべき生き物、汚物として分類した様だ。


文隆: 「奴らが多感な時期に離婚したからな。十四歳と十二歳。傷付けて仕舞った。深くね。」

 それを考えると、胃に穴が開きそうだ。

 由紀が大きく頷く。


文隆: 「猫の親権で、揉めたよ。」

 私は最早重要では無い離婚時の細かい話しを始めた。由紀が興味を持っているかどうかなど気にもして居なかった。


由紀: 「猫?文隆、犬派だったわよね?」

 私は彼が雑種の犬に囲まれて育ったと記憶している。犬と戯れる子供の頃の文隆の写真も覚えている。本当に可愛い男の子。御両親は美男に育つと思っていたに違いない。


文隆: 「犬が好き。そうだったんだけど、庭で野良猫が子猫を産んで仕舞ったと困っていた友人が居てね。野次馬根性で見に言ったんだ。可愛くてね。一発でヤラレタよ。で、黒い子猫を引き取ったんだよ。一匹。」

 五匹の産まれたばかりの猫がのたのた動く様に、一瞬で魂を奪われて仕舞った。その内、一匹が真っ黒。私は直ぐに春海に電話をして、黒い子猫を連れて帰りたいと言った。彼女は、笑いながら快諾してくれた。


文隆: 「春海が古いタオルの上で丸くなる真っ黒な黒猫を見て、『カビの生えたおはぎみたい』って笑ったんだ。そこで普通なら、おはぎって名前にするだろう?でも彼女は『カービー』と呼び始めた。」

 カービー。家族の愛を一身に浴びて、順調に育った。


由紀: 「カービーって、でも可愛い名前ね。男の子?」

 黒猫のカービー。想像するだけで可愛い。


文隆: 「そう。うちの子供達は皆男。」

 私は少し笑った。

「可愛かったよ。家で仕事をしていると、机の下に来て丸くなるんだ。だから、足元にバスケットを置いて、いつでもカービーが安心して眠れる場所を確保してね。」

 今でも、黙って仕事部屋に遣って来て、足元に丸くなる黒い毛玉を思い出す。


由紀: 「又、欲しいの?」

 私は、自分もその猫の世話を分担する様になるかも知れない。確認して置きたい。


文隆: 「そうね。猫でも犬でも。けむくじゃら四つ足獣が好きなんだよ。保護をする団体があるじゃない。そこから、一匹迎えたいと思っているんだ。」

 犬なら雑種が良い。毎朝、一緒に出勤するのが良いだろうと思う。猫は、家で留守番になるかな。


文隆: 「そんな俺で良いのか?」

 私は、また訪れた沈黙に耐え兼ねた。


由紀: 「貴方は、春海さんより先に幸せに成ってはいけないと信じているのね。多分。だから息子さん達に私との再会に付いて話すのを躊躇している。」


文隆: 「正解。」

 私は正直に答えた。ちょっと見透かされて戸惑い、動揺した。


文隆: 「こんな俺で良いのか?」

 私は三度、彼女に尋ねた。


由紀: バカな男。ここでは首を縦に振る以外にないじゃない。

「まあ、お互い、大人なんだから、色々有るし、色々有るわよ。」

 私は、自分の離婚に関しては、未だ話せない。傷つけた側は、楽よ。私は、とてもとても、話せない。


由紀: 「私、猫と犬のペアが良いわ。出来ればね。」

 私は、犬と猫が仲良くしているのを見ると、とても仕合わせな気分になる。ただ、二人の出張が重なると不味い。具体的な問題は、後でキッチリ話し合えば良い。


文隆: 「この店、ただ一つの難点は、音楽の趣味なんだ。どうしても、耳に合わない。」

 私は、由紀に笑い掛け、行こうと言った。

 そして、未だ厚いコートを着る手伝いをした。

「この店の常連に音楽家が何人も居るのだから、そいつらを集めればちょっとした室内楽が出来るぜ。」


文隆: 「ヴェルディの『菊の花』でも演ってもらいたいな。」

 私は彼女の背中に手を置きながら言う。


由紀: 「それ、プッチーニ。」

 私は笑いながら振り返る。この男、しょっちゅう名前を間違えるのが変わらない。


文隆: 「あっ。思い切り恥ずかしい。」

 苦笑い。

 私はドアを押して、由紀を先に外に出す。そして、振り返り店のスタッフに手を振り、カウンターに並ぶ常連達に会釈した。

 由紀と自分に関して要らぬ噂が飛び交うのが目に見える。


由紀: シェフとパドローナの明るい声に送られて、私達は下北沢の裏道に出る。

 何方に曲がるか、既に全く分からない。

 彼が足を向けた方に付いて行くだけ。


文隆: 私は、無意識に横を歩く彼女に向かって左手を差し出していた。

彼女が私の手を見て、ほんの束の間びっくりした様な表情をした時、初めて私は自分の大胆な行為に気付いた。


由紀: 私の胸に軽い何かが走る。だが、私も一瞬の躊躇いの後、その左手に向かって自分の右手を伸ばし、彼の長い指に、自分の指を絡める。先程から、何かが可笑しくて、口角が上がってしまう。

その瞬間、私達は昔に戻る。今更恋人ごっこから再開。中断して居ただけ。

ちょっと冷たい。あの頃と同じ様に、彼の薬指に私の人差し指と中指を絡める。自然に、考える事もなく、それが出来る。二人の間合い。独特の。懐かしい。

 収まる所に全てが収束し、安定している。文隆なら『平衡を保っている』と表現するだろう。二人の間に長い年月が流れ、語り切れない程の、様々な経験も重ねて居る。だが、今、この瞬間、この男と一緒に居るだけで、不思議と私は寛いでいる。肩の力が抜け、肩甲骨の裏側にも血が巡る。しかも、楽しい。

「ふふふっ。」

 私の口から思わず小さな笑いが漏れる。


文隆: 「何だよ。」

 一つ一つの仕草が、何となくあの時の彼女の儘だ。根元的な部分で全く変わって居ない。可愛いとか、チャーミングとか、そんな形容詞が相応しい。

 折れて仕舞いそうな細く長い指。


由紀: 「昔々、貴方がね、『目を閉じて十数えて。その間に僕は魔法の力で、君の瞳に映る世界の全てを、君への愛で満たしてやる』って言ったの。」


文隆: 「覚えて居るよ。」


由紀: 「素敵な言葉に感動した素直な私が涙に濡れた目を閉じ、ちゃんと十数えて目を開けたら、貴方の大きな顔。鼻の先から十センチだから、視野は完全に貴方に塞がれ、他には何も見えなくて。あの時、この男、大丈夫かって思ったわよ。」


文隆: 「可愛かった。あの時の君。目に涙を浮かべて大笑いして、激怒して。」


由紀: 「今でも可愛いわ。」


文隆: 「今でもその魔法、使える。僕。」


由紀: 「あの頃の、貴方の魔法を信じた素直な女の子は、もう居ないわ。」


文隆: 「良いよ。狐憑きの可愛いオバサンさえ居れば。」

 私は、口から溢れ落ちた自分の言葉に満足して居た。


由紀: 「相変わらず嫌な男。」

堪らなく嬉しい。昔と変わらぬ詩人が未だ彼の中に生きて居たことが。

「でも、もう一度、目を閉じて十数えてみようかしら。」


おわり。

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花咲爺と雨狐 rhapsodist silenced @rhapsodist_silenced

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